Prologue


はじめて彼の本を手に取ったのは、大学生協の書籍部だった。

確かその時は講義が休講になったんだったと思う。あるいは、 いつものようにさぼっていたのかもしれない。 私の通っていた大学は都心にほど近いにもかかわらず、構内には 木々が鬱叢と茂り、グラウンドの端の崩れかけた倉庫を改造した 部室の脇の木陰で本など読んで時間を潰すには最適だった。 太陽の光が木の葉の緑に反射してきらきらしているのを見るだけで、 うす暗い教室に籠って講義を受けるのがばからしくなってくるのだ。

その日も、ぽっかり空いた時間を過ごす伴侶を選びにふらりと 書籍部に寄ったのだった。あても無く文庫本のコーナーを眺めて いるうち、平積みになっていた文庫本の一つにふと引き寄せられたのだ。

「ペット・セマタリー」。上下2分冊のその文庫本を買う気になったのは 装丁になんとなく惹かれたからである。その時までホラー小説という 分野に興味はなかったし、恥ずかしながらスティーブン・キングという 名前さえ知らなかった。映画の「スタンド・バイ・ミー」はTVでやっていたのを 見たことがあったけど、原作者の名前まで覚えていなかった。

読み始めてすぐに、私は未だ見ぬ米国メイン州の田舎にトリップして しまった。愛する者のために凶々しい存在に取り込まれてゆく主人公に 完全に感情移入してしまい、最後のシーンはただひたすら悲しかった。 最後のページを閉じたとき、私の影は夕日を受けてグラウンドに 長く延びていた。あっという間に時間が過ぎ去ったのに驚いた。

それから、坂道を転がり落ちるように私はキングにのめり込んでいった。 一つ読み終える度に別の邦訳を買い、特に気に入ったものは何度も読み返した。 「スタンド・バイ・ミー」の文庫本のカバーはぼろぼろになった。 次第に翻訳に飽きたらなくなり、原作にも手を出すようになる。 原作のもつ独特のリズムにさらに中毒になってゆく。

今では、新作が出るのを首を長くして待つという程ではないのだが、 それでも本屋で新作を見かけるといつの間にか手が伸びる。 キングの新作のハードカバーは無闇に分厚い。 荷物になるとわかっていても、すぐにペーパーバックが出るとわかっていても、 私の中の何かが抗うことのできない力となって私の身体を支配する。

キングは「ホラー作家」とされている。超能力、幽霊屋敷、ドラキュラ、 暗闇に蠕くなんだかわからないもの。そういったラインアップを見れば ホラー作家という呼称は妥当かもしれない。 しかし、彼の作品に私が引き付けられるのは、 決してオバケ屋敷を覗き込むような恐いもの見たさからではないのだ。 彼の小説の中で、supernatural な要素はあくまで舞台装置にすぎない。 その中に人間が置かれた時、どういった反応をするのか、何を思うのか。 平凡な日常の中で、家族を、友人を、恋人を 「愛しているよ」と言うのは簡単だ。だが、 得体の知れないものがあなたの正気を脅かす時、 自分に見える何かが友人には見えない時、 恋人があなたの理解不能なものに変わって行く時、 それでもあなたは同じように「愛しているよ」と言えるだろうか。

人間の心理の奥底には、理性では測り知れない深淵がぽっかり口を空けている。 平凡な日常では、誰も自分の心の中にモンスターが潜んでいることに気づかない。 しかしひとたび日常の壁が破られたとき、 あなたは今のあなたでいられる自信があるか。 そう、やはり私は恐いもの見たさでキングを読むのだ。 ただ、その「恐いもの」は自分の中にある。 そして、その深淵を乗り越えるために必要なものも。


[Addicted to Stephen King] [A Slice of My Life]
Shiro Kawai
shiro@lava.net