等身大のパウロ

スティーブン・キングの作品には、しばしばキリスト教や聖書への言及がある。 ことさらに宗教を意識しているわけではなく、むしろキリスト教が文化の一部として 根付いているのだろう。

なかでも、「グリーン・マイル」は、聖書との関連が特に深いと言われる。 奇跡を起こす能力を与えられ、全く罪の無い身でありながら処刑される黒人 John Coffeyは、Jesus Christと同じ頭文字を持つ。そして、 その一部始終を目撃するのはPaul。この名前はもともとはSt. Paul 聖パウロから 来ている。

聖パウロとは何をした人だったのか。ちょっと聖書を紐解いてみた。


パウロが聖書に登場するのは、使徒言行録7章である (最初は「サウロ」と呼ばれて おり、13章からパウロに変わる)。イエスは既に復活して天に登っており、十二使徒の 布教によってキリスト教はエルサレムの中で勢力を増していたが、戎律という形式よりも 愛と信仰という心の問題を重視した彼らは、律法を守ることを最重要視するユダヤ教会から 敵視されていた。パウロは当初、 ユダヤ教会の中でも厳格なファリサイ派に属する者で、キリスト教を異端と見倣して迫害し、 キリストに賛同する者を片っ端からひっ捕まえていたらしい。

ある日、イエスの弟子の一人、ステファノと呼ばれる者が逮捕され、 裁判の席で一席説教をぶって人々の反感を買い、ほとんど私刑のようにして殺される (使徒6.8 - 7.54)。この時、ステファノの殺害に賛成した者として パウロ(サウロ)は登場する。但し、ステファノを殺す者達の上着の番をしていた とあるから(使徒7-58, 22-19)、直接手を下したわけではないらしい。

ステファノの事件をきっかけにしてエルサレムのキリスト教会に大迫害が起こり、 使徒や弟子達は他の地方に逃れ、そこで宣教を続けた(使徒8.1-40)。 そこで、パウロはエルサレムから200kmくらい北のダマスコという街まで、 異端者をひっ立てる旅に出た。その途中、いきなりイエスが天から現われて、 パウロの目を見えなくしてしまった。ダマスコにたどり着いたパウロの下に、イエスは 弟子の一人を遣わして再び目を見えるようにしたので、パウロは恐れ入って回心した (使徒9.1-19)。

後にパウロはこの時のことを次のように語る(使徒22.12-14)。

ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、 そこに住んでいる全てのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに 来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』 するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。 『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい 方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、 すべての人に対してその方の証人となる者だからです…』

この後、パウロは超人的な意志と精力でもって、異国の地へ何度も宣教の旅に出る。 途中何度も捕らえられたりして苦労するが、トルコ、ギリシア、最後にはイタリアはローマ にまで出かけた。そのへんの話は使徒言行録の後半、およびパウロ自身の手紙に詳しい。


さて、「グリーン・マイル」において、神あるいは運命は、二人の男を選び出した。 黒人の大男J.C.には、生命を操る力と、この世の苦しみを直接感じとる感性を与え、 Paulに、それを目撃する役割を与える。「見聞きしたことについて、すべての人に 対してその方の証人となる」役割だ。Paulは聖パウロのように迫害をしていたわけでは 無いが、結果としてDelacroixに苛酷な死を与えてしまったことと、Coffeyを 無実と知りながら処刑してしまったことにより、ステファンの処刑がパウロの心に 残したものと同じものを抱えることとなった。(Paul Edgecombの膀胱炎と 聖パウロの目のエピソードをパラレルに考えるのは行きすぎかな。)

ところが、我々のPaulは、聖パウロと違って、その事件によって神の奇跡に目覚めて 宣教しまくるようにはならなかった。それどころか、60年余りもその事件に 口をつぐんでいたのだ。罪の意識を抱え、愛する人々が次々と去って行くのを 見送りながら。

神が全知全能であるならば、神の思考は我々人間のいかなる思考をも超越している。 神の行為は祝福であると同時に呪いであり、救済であると同時に懲罰である--- 結局、そういう解釈は人間の側の勝手な解釈にすぎない。神の深遠な計画か、 それともただの気まぐれか、いずれにせよその超越者の行為に、人は翻弄される ばかりである。自分の出生にまつわるしがらみを逃れ、異境の砂漠でようやく幸せを掴んだ 羊飼いに、いきなり故国に戻って民族の指導者となれと言いつけたのを始めとして。

いや、わざわざ指摘するまでもなく、そういうことは日常茶飯事に起こっているのだ。 神を信じない人はそれを運命と呼ぶかもしれない。皆から慕われ、何も悪いことをして いない人が事故に遭う。夢の実現に向けて人並外れた努力を注いで来た人が病に倒れる。 誠実に愛し合う者達が引き裂かれる。It happens every day。 God lets it happen。

聖書やら伝承やらに名を残す聖人は、多分、神の指名を受けた数多くの人々の うちのほんの一握りに過ぎない。多くの人はPaul Edgecombのように、 自分に与えられた役割を考え続けながら、自分のグリーンマイルを歩き続ける。 何故Melindaを助け、Janを死に行くままにしたのか。 有り余る生命力は祝福なのか、呪いなのか。 自分のやったことは正しかったのか。

聖パウロの手紙は、神の愛への力強い信頼によって貫かれている。 しかし、答えの出ない問いを考え続けるPaulのほうにむしろ、私は共感出来るのだ。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net