Ritual and God

昨日のことだが、同僚I君の結婚式&パーティに参加。 教会での式は簡素なのがかえって良かった。 ここんとこ俄雨の多かったホノルルも昨日は良く晴れて、 開け放した教会の扉から心地よい風がそよぎ鳥のさえずりが聞こえてくる中、 とっても良い人そうな牧師さん (あれ、神父さんかな。カトリックだか プロテスタントだかも知らずに参列してたワシ) の下、二人は変わらぬ愛を 誓ったのであった。

そんな様子を観ながら不謹慎にも考えていたことは、 「これもひとつの芝居なのだなあ」ということ。誤解を避ける為に 早めに断っておくと、決してその二人が本心に反して式をあげたとか いう意味ではない。私の以下の話はあくまで「演ずる」という行為を 「本当の自分にアプローチするための方法」と捉えた上での話。

何故芝居かって。だってあらかじめ定められた台本があり、 それをなぞる新郎新婦がいて、そして観客としての参列人がいる。 「設定」と「役者」と「観客」。芝居としての条件は満たされているではないか。 もし演ずること無しに結婚という事実を本人並びに関係者が事実として 認知できるのなら、そんな儀式などする必要はない。 型どおりの式を選択しなかった人達でも、多くの場合、 人生の節目に対し、別の形である種の儀式を行なっている筈だと思う。

「汝は健やかなる時も病める時も...」の問いに、「はい」と答えることは あらかじめ定められている (そう答えなかったらそれはそれで別のドラマになる わけだけれども)。でも、「先が見えているからつまらない、やる意味が無い」 などと言う人はいないであろう。千のカップルがいれば、同じ台詞でも その意味は千通りあるはずで、その意味を確認するためにわざわざ決められた 台詞をなぞるのだ。

そして、それを見せる対象としての立会人も、儀式に無くてはならない 要素である。今回はこの「観客」の意味についてもっと考えてみよう。

多くの場合、儀式には観客を必要とする。観客は現実への窓なのだ。 人は自分の感覚を通して世界を認識しているから、自分にとっての世界とは 自分の主観にすぎない。そこに外部から訪れて、自分に見えているもの以外の ものがあると教えてくれるのが第三者の目である。 役者から見て観客は未知の存在である。自分の一挙手一投足に目を配り、 そこから自分には想像もつかない結論を引き出しているかもしれない。 「こんなことをしたらこう思われるんじゃないか」「こうすればこう思ってくれる だろう」、どんなに想像してみても、所詮自分は自分の世界の中から抜けられない。 観客の目の向こうには、その想像の及びもつかない別の宇宙が広がっている。 その事実はある意味恐ろしくさえある。

だが、自分を確認するための演技は、 その観客の目の前で行なわないかぎり意味が無い。 人間は自分に嘘をつくのが非常に上手だから、見られてないところで 行なった行為に関しては都合の良いように解釈をあててしまう。 その場に出されたものが全てである、ということを自分自身に納得させる ために、第三者の立ち会いは必要なのだ。

さて、ここで本日の表題にやっとたどりつく。 上で「多くの場合、儀式には観客を必要とする」と書いた。 しかし、観客を必要としない場合というのが確かにある。 一人密かに心に誓う... という場合などである。だがその時でも、 人はその誓いを完全なものにするために、何かの対象に誓っているはずだ。 母の名に? 星に? 或は「神」に?

そう、「神」が全知全能なら、自分が誓いを破ったらそれは神には バレバレである。だから神に誓う意味があるのだ。これは誓いでなくても、 自分の本当の気持の確認でも構わない。例えば「私は今悲しい」ということを 自分の世界の外にある何かに対して認めるのである。後でそう認めたことを 打ち消したくなってももう遅い。ばれちゃっているんだから諦めるしかない。

人間の意識は狡猾であり、時には他人に見られたという事実でさえ 「ひょっとするとこう思っているかもしれない」 「あの時は心にも無いことを言ったのだ」などと修飾することさえ厭わない。 本当に自分の意識を全面降伏させ、今ここの現実を認めるには、 立ち会い人として全知全能の存在を持ってくるのはまことに都合が良いのだ。 もちろん、神や仏を持ち出さなくても、 自分の選択、自分の行為、自分の言動は今ここに出されたものが全てであることを 承知し、常に自分を偽らず自分の本心を見つめていられるという人はそれだけで 問題は無い。だがそれが困難である故に人は神という概念を必要としたのでは ないか。

そのような「絶対の観客」の存在を受け入れた時、儀式と日常、 ハレとケの区別は消失する。 日常生活の中で与えられるさまざまな「設定」 ---社会的立場であったり、人間関係であったり---を踏まえながら、あなたは 社会的人格を「演じて」ゆく。 絶対の観客には、あなたの良い部分も嫌な部分も全て筒抜けだから、 その場を取り繕うことは無駄である。「演技」はその場に出されたものが全てだが、 それはあなたの全人格の投影でもある。

そう、あなたはあなたの人生の主役であり、 生きている限り、舞台から降りることは出来ない。 だが、それはそれでエキサイティングな事実である。


Shiro Kawai
Last modified: Tue Jan 26 02:53:27 HST 1999