映画作品における「劇的」構造に関するメモ

(5/8/1999初稿、5/9/1999追加)

ドラマチックであること、「劇的」であるとはどういうことか。 木下順二は、「願望を持てば持つ程願望から遠ざかる」「自分が一生懸命 努力して探し当てたものが、その自分を根本的に否定するという関係」 が「劇的」ということの本質なのだと言う (木下:「"劇的"とは」)。 ドラマのクライマックスで、主人公は自分の願望に向かって進んで来た道を 最後まで行くには自己を否定しなければならないというジレンマを 「発見」し、それを乗り越える (「逆転」)。それは観客にカタルシスをもたらす。

なるほど、という分析であるが、ほんとにそうなんだろうか。 より深く理解するために、 いくつか自分が観て「劇的」だと思った映画に、この構造をあてはめて みようと思う。

各映画については、クライマックスの内容に触れる、強烈なネタバレとなっているので ご注意。


Stand By Me

映画中でテンションが最も高まるのはレイ・ブラワーの死体を前にしての 主人公達と不良共の対立の場面だが、この映画の「劇的」な性格が現われる のはそのシーケンスではない。むしろ、映画のテーマそのものに「劇的」な性格が 埋め込まれているのだ。

主人公ゴーディの願望とは何か。この少年の日が、このクールな冒険が、 いつまでも続いて欲しいということ。他愛も無いことを言いあう仲間と いつまでも居たいということ。兄の死後、魂の抜け殻のようになってしまった 両親の、その人間的弱さを見て見ぬふりをしていつまでも遊んでいたいということ。 他の仲間が商業コースに進むのに、自分だけカレッジコースに進むなんてやだよ。 だってそれは、自分は結局自分の人生を進んで行かなきゃならないってことを 認めることだから。

だが、少年の日の最高のイベントとなるべき死体探しの旅は、はからずも 自分がいつまでも少年で居られないことを「発見」する旅となった。 いつまでも親友と少年の日々を過ごしていたいという願望は、一番の 親友であるクリスによって否定される。原作の該当箇所は以下の通り:

"It's not gonna be like grammer school, that's why. You'll be in the college courses. Me and Teddy and Vern, we'll all be in the shop courses, [...] You'll meet a lot of new guys. Smart guys. That's just the way it works, Gordie. That's how they got it set up."
"Meet a lot of pussies is what you mean," I said.
He gripped my arm. "No, man. Don't say that. Don't even think that. They'll get your stories. Not like Vern and Teddy."
"Fuck the stories. I'm not going in with a lot of pussies. No sir."
"If you don't, the you're an asshole."
"What's asshole about wanting to be with your friends?"
[...]
"It's asshole if your friends can drag you down," Chris said finally.

劇的な様相が特定のシーケンスに集中するのではなく、むしろ淡々とした物語 の背景に隠されているのがこの映画の特徴である。クライマックスらしいクライマックス が無いにもかかわらず、後に引く感動が残るのはそのためであろう。

旅の終り (街に帰って来た時) の朝のシーンで、 同じトレッスルを歩いて来た4人がそこで別々の方向に歩き出す。 口では新学期での再会を約束し、しかし心の底では、今までのような時間は もう二度と手に入らないことを知りながら。 このシーンは、少年の日が終ってしまったことを象徴する残酷なまでに哀しい シーンである(自己の根本の否定)。しかしそのシーンにかぶさるナレーションと、 短いエンディングシーケンスで作家になった「私」が最後にタイプする一文が、 「私」がその否定を乗り越えたことを示し、カタルシスをもたらすのだ。


Once upon a time in America (Director's Cut)

少年の日、裏切り、そして再会、3つの時代を行ったり来たりする複雑な 構成の映画だが、劇的なクライマックスはもちろん、映画におけるラストシーケンス、 物語的には裏切りの場面とその直後である。

葛藤の構図はわかりやすい。デニーロ演ずるNoodlesの願望は、友人Maxを 救うということ。しかしそれは、少年の日から続いた信頼関係を卑劣な手段で 裏切るという行為でしか為し得なかった。阿片窟に横たわり、失ったものをせめて幻覚の 中で取り戻そうとするラストシーンは、願望の完遂→自己の否定のプロセスそのもの であり、だからこそ深い感動を呼ぶ。

では、物語的にその後の出来事である再会編は何か。発見と逆転、願望の完遂→ 自己否定というプロセスはクライマックスを作り出すが、その後にその矛盾を乗り越える 何かを描かねば、観客にカタルシスを与えることは出来ない。ドラマの中での 逆転の超克を見ることが、現実の生活での矛盾を乗り越える勇気を与えるのだから。 したがって普通はクライマックスの後のその超克が描かれるのだが、この映画では そのへんがきわめてトリッキーな構成となっている。ラストを知ってからついもう一回 観てしまうのはそのせいか。


The Piano (ピアノ・レッスン)

主要登場人物それぞれが、最初から矛盾する願望を潜在的に抱えているという 正統的ギリシャ悲劇のパターン。それが一気に噴出するのが、指の切断のシーンだろう。

ヒロインが子供に鍵盤を託してから指を切断されるまでのシーケンスはこの映画中の白眉で、 ヒロイン、夫、子供の3者が全て、求めるものを得たいと思い詰めるあまりに 大事なものを失う。その願望の強さと、行為の恐ろしい結末とのコントラストが、 鮮やかな劇的展開となる。

海中に沈んだピアノ。願望を追い続け、ついに「死んで」しまった自分の一部。 しかし人間は残った一部分からでも、新たな人生を始めることができる、という ラストが、否定を乗り越えるカタルシスをもたらす。


One flew over the cuckoo's nest

願望と自己否定という観点に立てば、ドラマは McMurphy, Chief, そして Nurse Ratched の三者が中心となる。ChiefによるMcMurphy殺害からWater Stand を窓に投げつけての脱出までが、劇的なクライマックスを作っていることは 間違い無い。

McMurphyの願望は何か。精神病棟からの脱出? 確かに彼はそう言い続け、 行動しつづけるが、ならば彼はパーティの晩にBillyなんかほっといて 逃げれば良かったのだ。彼の本当の願望は、Nurse Ratchedによる暗黙の専制支配 に対して精神の自由を勝ち取ることだろう。その願望が、何度もあったチャンスを ふいにして、遂にロボトミーを施されるという悲劇的な結末をもたらす。

Chiefの願望は。これは素直に病棟からの脱出と取って良いだろう。ただ、一人では 無く、仲間と共に、である。だが、彼の躊躇、逡巡が、間接的にではあれMcMurphy を精神的に「殺す」ことになる。そして彼は、そうなったMcMurphyをそのまま 残して行くことは出来ない。願望を完遂するために、パートナーである筈だった McMurphyを殺さねばならぬという否定。そして、McMurphyが一度 "Try" した Water Standを用いた脱出行為を完遂することが、逆転の超克となっている。

Nurse Ratchedの側からみるとどうか。彼女の願望は、病棟を自分の 制御下に、患者を従順な羊達にしておくこと。エスカレートするMcMurphyの 反乱によりその願望の充足は危機に瀕するが、最後には強制的にMcMurphyの 精神を奪うことにより願望を充足させることになる。だがそれは、結果として McMurphyの死 (一種の開放である) とChiefの脱出をもたらした。 映画では「その後」は語られないが、どうなったのか気になるところだ。


The Truman Show

この映画は何重にも仕掛けがしくまれていていろいろな見方ができるが、 「劇的」構造に関しては3つの立場---Truman本人、ディレクターChristof、 そしてTVを観る観客---がある。

Trumanの願望とは。この世界を、自分の足で探検すること。 Fijiに行ってLauren/Silviaをみつけること。 そのために、水への恐怖を克服し、嵐にもめげず船を進める。願望を完遂する ための凄まじい努力。そして発見したのが「壁」。 自分の今までの存在は、人工的な壁に囲まれた箱庭の中で作られた人生でしか なかったという自己否定の発見。 空にぽっかり開いた扉の向こうは暗闇であり、何があるか分からない。 Christofとの会話の後、一瞬の葛藤の後にそれでも彼は未知の暗闇の方を、 否定を乗り越える方を選ぶ。

Christofの願望。実社会の混乱から隔離され、守られた場所で「我が子」を 育てるということ。望み通り、Trumanはすくすくと育ち、生まれついての エンターテイナーの素質を開化させプロジェクトは順調に進むかに見える。 しかし我が子Trumanは成長の結果として、Christofが用意した完璧な「天国」 ではなく、Christofが否定した外の世界を選ぶのである。

もうひとつ、この映画をユニークなものにしている重要な役どころが、 ところどころに挿入される視聴者達である。視聴者達の願望は、面白いものを 観ること。TVスクリーンの中に繰り広げられるドラマを貪欲に求める。 そして、その行きつく先は主役Trumanの喪失である。願望の完遂→自己否定。 だが、視聴者達はそれをむしろ歓迎し、熱烈に支持するのだ。このラストシーケンスで 明らかになるのは、彼等が本当に望んでいたものは「作られた完璧な世界」 などでは無くて、否定を乗り越えてゆく行為そのものだったということ。 Truman Showを熱心に観ていた筈の自分達が、Truman Showの終焉を熱狂的に 支持している---それは彼等にとっての「発見」であり「逆転」である。 そしてその時までに映画に没入していた本当の観客達もまた、映画内の視聴者と 同じ立場に立って、Trumanの新たな出発を支持するのだ。


Shiro Kawai
Last modified: Sun May 23 13:14:30 HST 1999