1999年12月

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12/31(Fri) 花火、花火、花火

話には聞いていたが、なるほどこれは凄い。現在1月1日午前1時過ぎ。 世界で最後から2番目に新年を迎えたところである。 普段、真珠湾を越えた対岸のEwaまで見渡せるベランダからの景色は、 わずか1km先のアロハタワーがかろうじて見えるまでに煙っており、 道を行く車のヘッドライトの光軸が霧の中のように浮かび上がっている。 全て花火の煙である。

米国はわりと花火にうるさくて、独立記念日以外に禁止されている州なんかも あるらしい。ハワイでは度重なる反対派市民の陳情にもかかわらず、年末が近付くと Fireworks warehouseがあちこちに出来て、皆がさがさとまとめ買いしてゆく。 それが一気に消費されるわけだ。昼頃からまず爆竹系の騒がしいやつが鳴り出して、 日暮れと共にそこらじゅうでばちばちやり始める。打ち上げ系は個人では禁止されてる 筈なんだけど、オフィスの最上階から眺めていたら山から海への斜面一面にぽつぽつと 花が咲いたようになっていた。

新年を迎える瞬間は、オフィスの向かいにあるアロハタワーにいた。 たまたま花火を観るために陣取った場所の前のステージから、 ABCだかNBCだかが全世界中継をやっていたので、カウントダウンにも参加することに。 花火そのものは独立記念日の時とあまり変わりばえしなかったが、 ま、普段とちょっと違う体験が出来たのでよしとするか。

アパートのすぐ裏で誰かが打ち上げ花火をやっている。 この喧騒は一晩中続きそうだ。

12/30(Thu) 仕事納め

最近は日付の翌朝に日記を上げているのだが、そうするとこれが公開される頃には 日本はもう年が開けているのだなあ。ハッピーニューイヤ。

会社は今日が仕事納め。年始は4日火曜から。4日というのはたまたま週末が年始と 重なったからで、例年だと会社のオフィシャルの休日は12/31と1/1である (今年は土曜と重なるんで、代替として1/3を休みにしたらしい)。

日本では年末に向けて色んなことをかたづけて、正月ゆっくりして、開けてからスロー スタートという雰囲気だと思うのだが、こちらだとクリスマスの週あたりから皆休暇を 取り始めるので、年末の雰囲気は至ってのんびりしたものとなる。かわりに、 新年はのんびりムードは無く、いきなりのスタートとなるわけだ。

こののんびりした期間中にいろいろ仕上げようと思っていたのだが、 何だかんだでどれも中途半端。明日もちょっと仕事に出なければ。

12/29(Wed) Galaxy Quest/新日記猿人更新スクリプト

本年 (多分) 最後の映画は、軽くSci-Fiコメディ "Galaxy Quest"。 「スタートレック」のパロディだ。私はスタートレックのTVシリーズをほとんど観てない のだけど、それでも冒頭から繰り出されるベタベタのパロディには大笑いした。

長寿TV番組 "Galaxy Quest"。ファンの集いに招待されたクルーメンバーの役者達は SFおたく達の相手にうんざり。ところが、ファンの中に本物のエイリアンが混ざっていたのだ。 侵略を受けていた彼らは"Galaxy Quest" の電波を宇宙で受けて、それを本当のことだと 思い込み、助けを求めに来たのだった。

筋は特に捻りも無いのだが、エフェクト類はやけに丁寧に作ってある。 それでいてB級臭さを見事に漂わせているのがなおおかしい。ところどころに 爆笑ポイントがあるのだけれど、間のつなぎが全体的に失速気味なのが残念。


以前書いた日記猿人自動手動更新報告スクリプトを新日記猿人テキスト庵 に使おうとして、バグ発覚。サーバがHTTP/1.1の時にしか通らない箇所で変なことをしていた のだが、これまでの日記猿人はHTTP/1.0 だったので気付かなかったのだった。この機会にフォームデータを送る部分を手続きにして、 複数のサーバに一つのスクリプトで対応できるようにした →新バージョン

私は基本的にコマンドラインに生きる人なので、日記の編集が済んだ後でファイルをftpして、 さらにブラウザに移って更新報告をするというのは大変な作業なのである。 だいいちうちのNetscapeはまだ日本語化対応を済ませてないので、フォームで 日本語入力が出来ない。ので、いつもは編集が終わると、 こんな感じのスクリプトでファイルの転送から更新報告までを一発でやっている。 mirrorはディレクトリツリー中で変更された部分だけをftpしてくれるツール。

#!/bin/sh
(cd ~/public_html/; make clean;)
mirror -d -d -d -d -pwebpage ~/bin/.mirror.defaults
if [ X$1 = 'X-ne' ]; then
    ne-update -ne-old 1065 XXXXXXXX ~/public_html/Private/diary/today.html
    ne-update -ne 1065 XXXXXXXX ~/public_html/Private/diary/today.html
    ne-update -ta 0012 XXXXXXXX
fi

12/28(Tue) なんでもダブルクリック

クリスマス休暇が明けて、仕事。と言っても大晦日もまた休みになるので、連休の合間に 3日間のみの出勤となる。当然休暇を取っている人も多く、なんとなくのんびりした雰囲気。 この機会に優先度が低くて後回しになっていた案件をまとめてかたづけて置きたいところだが、 ついのんびりムードに引きずられてしまうなあ。


友人からなにやら巨大なバイナリファイルが添付されたメイルが送られて来た。 Windowsの実行形式なので、一瞬、流行りのメールワームかと緊張してしまう。 本文を見る限り、本人が作った3Dアニメーションとそれを見るためのビューワらしい。 うちにはWindowsが無いのでどっちにせよ無意味なのだが。

こうして気軽に実行可能なプログラムを添付して送ってしまうこととか、 見知らぬ人から送られて来たプログラムを実行してしまうとか、 私には不可解な行為である。 実行可能な「プログラム」を送ることと、プログラムによって処理されるべき「データ」を 送ることは私にとっては根本的に異なる行為だからだ(*1)。

例えば、見知らぬ人から送られて来たデータを閲覧するだけでは、別にどうということは無い。 一方、見知らぬ人から送られて来たプログラムを実行するということは、 自分のコンピュータをどうぞ御自由にお使い下さいと言っているようなもんである。 知合いから送られたものであっても、その中に怪しいコードが意図せず紛れ込んでいる可能性は ゼロでは無い。

しかし、現在のソフトウェアのモデルでは、プログラムとデータの区別はどんどん 曖昧になってきている。オブジェクト指向と、組み込み言語の隆盛によるものだ。

オブジェクト指向とは、データとそれを処理する手続きをひとまとめに扱おうとする 考え方である。内部ではデータとプログラムは別ものなんだけど、使う側にはその区別は 見えない。例えば、画像ファイルをダブルクリックすると画像が表示される。これは、 画像ファイル自身が、「自分はどう表示されるべきか」ということを知っていて、 適切な表示プログラムを実行しているからだ。音声ファイルをダブルクリックすると音が聞こえて、 テキストファイルをダブルクリックするとエディタが開くのもそのため。 裏では音声再生プログラムとかエディタプログラムがその都度動作しているのだけれど、 そういうものは見えない。なんでもダブルクリックすれば良し(*2)。これではユーザにとってプログラムとデータの 区別が着かなくて当然である。

組み込み言語は、実装レベルからのアプローチなのだが、データの一部にプログラムを 埋め込んでしまおうというもの。マクロと呼ばれることもある。もともとデータとプログラムが 同じ形式であったLispの世界なんかではこれは当然のことだったのだが、その頃は データを作成する人はプログラムを作成する人でもあったので、それを実行したら 何が起こるかがユーザーには明白であった(*3)。

最近のソフトウェアではデータそのものがバイナリで、マクロが何をするかを事前に手軽に 確認しづらい。おかげで、文書だと思って開いたらウィルスが感染するってことになる。 メイルを受信しただけではウィルスには感染しない、というのもちょっと前までは 常識だった。しかし、受信しただけで組み込まれたコードを実行してしまうという、 それまでの常識を超越したソフトウェアがどういうわけか広く出回り、 そうも言ってられなくなった。

データとプログラムが融合すること自体は正しい進化の方向だと思うが、 それに伴い、何が危険な操作で何が安全な操作かはますます分かりにくくなって来ている。 OSのレベルでJavaのSandboxモデルのような安全対策が取られれば良いのだろうか--- それでも、ローカルファイルの改変等の許可をいつどのように行うかという問題は 綺麗には解決できない。何かうまいメカニズムは無いもんだろうか。

(*1)正確に言うなら、プログラムもデータの一種ではある--- プログラムをデータとしても扱えるようになることが、それまでの計算機械から一歩進化した 現代のコンピューターを生んだのだ---が、ここでは特に実行可能な形式をプログラム、 そうで無いものをデータと呼んでおく。

(*2)ダブルクリックはあまり良いインタフェースでは無い。 初心者の多くが引っかかるし、一定の操作がダブルクリックと解釈されるか否かが 設定によって変わるので、環境が違うと操作しにくい。ボタンの数は少ない方が良いという 考えに基づいて作られたコンピュータで、二種類のクリックを区別する必要が生じて 導入された操作であるが、これなら最初からボタンを二つつけとけば良いのにと思う。

(*3)例えば高機能エディタEmacsでは、ファイルにLispコードをくっつけておいて ファイルオープン時などに実行できる機能が随分昔からついているが、そういうファイルを 開く際にはコードが表示され、ユーザーが確認して実行を許可するようになっている。 ユーザがプログラムを読めることが前提となっているのだが、勝手に何でも実行される よりましである。

12/27(Mon)

本日までクリスマス休暇。引越し準備も兼ねて部屋の整理など。LAから引っ越す時に詰めた箱が ほとんどそのままあったりするのだが、2年も参照しなかった書類など不要ということでばさばさ捨てる。

時限付きで不要になる書類というのが結構ある。車の保険の契約やら家の賃貸契約やらは 契約を更新すれば古いのは不要だし、クレジットカードの利用控は明細と照合した時点でいらなくなる。 終了したプロジェクトの途中で使っていた資料なども。 この手のものが放っておくといつの間にか溜っている。

捨てようか残そうかというボーダーライン上のものもある。記念に取っておいたようなものだ。 旅の記念に買った絵はがきとか、そういうちょっとしたもの。その時の気分によって、なんとなく 取っておきたかったり、どうでも良いように思えたりする。今日は後者。思い出は心の中だけの ものと割り切って、資料的価値があるもの以外はまとめて捨てる。

持ち物が少なければ少ない程、人は自由だ。 便利さや感傷でどこまでその自由を犠牲にするか。


昨日ちらっと書いた"Last Christmas" 問題、 実は結構ややこしいようだ→ 新雑記 (12/28)。とりあえず、今現在"last christmas" と言えばやっぱり1998年のクリスマス ってことになるようだ。

混乱のもとは、年一回というような頻度の少ない行事では、 過ぎたばかりのクリスマスはまだ現在に含まれるように思えるからではなかろうか。 だから、2000/1/1に "last christmas" と言うと、1999年のクリスマスはまだ 生々しい現在に近いので、1998年のを指すことになる、とか。

12/26(Sun) 夢のあと

クリスマスもおしまい。パーティを終わって帰って来てみると、アパートのダストシュートに 「ゴミ容器が満杯なのでゴミを出さないで」の張り紙が。

こっちに来てから、ゴミを出す曜日というのを気にしたことがない。 ダストシュートに放り込むとそれが地階にある巨大なゴミ容器に蓄積される。 ゴミ容器は十分な容量があり、かつ生活空間から隔離されているので、 誰もいつそれが回収されるのかを気にしない。徹夜仕事開けの帰宅時に よくゴミ回収車を見るので、多分毎日夜明けに来ているものと思われる。

それでも、クリスマス期間中はさすがに回収はお休みであったらしい。 しかし誰もそんなこと気にしない。クリスマス前のショッピングで大量に買った ものの包装やらパーティーの後始末やら、とにかくぼんぼん捨てまくる。 で、ゴミ容器が溢れそうになる。その時になってようやく、「捨てないで」という通知が為される、 という寸法か。

年末年始といえば、東京ではゴミ回収日程が各戸に通知され、 年末の最後のゴミ回収日に合わせてできるだけ多くのゴミを出そうと皆おおわらわで、 回収日を過ぎてゴミを出そうものならコミュニティーの敵として後ろ指をさされかねない。

それに比べればこっちのシステムは楽だと言えるのだが、 一杯になってから対応するという行き当たりばったりのシステムには一抹の不安を覚えるのお。 ホノルルで出たゴミは、分別も何もせずにどっかの谷に埋め立てられているらしい。 いつかはツケを払うことになると思うのだが。

そう思っていても何もしない私。来月から住むところは、瓶と缶は別に出せるそうなので (「分別しなくてもいいけど、したければここに出してね」という説明だった)、 リサイクルには消極的に参加できるかも。


Last Christmas(12/27)。この手の用法で今でもわからないのは、クリスマスを過ぎてから "Last Christmas" というと、過ぎたばかりの(今年の)クリスマスのことを指すのか、 一年とちょっと前の(去年の)クリスマスを指すのか。他のlastの用法から考えると、 過ぎたばかりのクリスマスのことになるような気がするのだが…

12/25(Sat)

友人宅でクリスマスパーティ。持ち寄りなので、ベジタリアンチリビーンズを作って行った。 しかし持ち寄りパーティーというのは、理屈の上では各人が一人分の食糧を用意すれば 丁度よい筈なのに、なんかそれではいけない気がするのか、皆大量に持ってくるな。 胃が苦しい。大部分ベジタリアンフードだったから 多少は健康的かもしれぬ。食べすぎてこういうのも変だが。

今日のパーティは何故か仏語人口が高く、20人くらい集まったうち半数くらいを 占めていたんじゃなかろうか。仏語は大学で2年やったというのに、 見事なまでに分からない。 辞書片手に拾い読みするのが精いっぱいでは、会話を聞き取るのはどっちみち無理なんだが、 つい語学教育の有効性って何だか考えちゃうな。目的の問題なんだろうけど。

聖なる日の疑問。新約聖書の最初の方にイエスの系図がずらりと書いてあって、 アブラハムやダビデの子孫ということになっているが、マリアが処女懐妊したのなら 父ヨセフとは血が継ってないんだよなあ。この頃は父系家族で、血の継りよりも家の 継承が重要だったのだろうか。

12/24(Fri) 二重価格制度

昨日、社販で注文しといたチョコボの目覚し時計が届いたので早速使ってみたのだが… 朝起きたら電池が切れていた。役に立たーん。

今日はゲームチームを除き会社はオフ。昨夜あたりから皆メインランドへ 日本へと休暇に旅立って行った。残った友人達と、せっかくだから何か変わったことをということで、 ディナークルーズへ行くことになった。話の種には良かろうというわけだ。 旅行者向けのだと結構値段が張るのだが、ハワイのこういう観光スポットには大抵 kama`aina rate、 住人向け価格というのがあって、このクルーズも35%引きになる。

こういう二重価格制度というのは、もともとどういう理由に基づいて 導入されているのだろうか。州の施設であるならば、州税を払っている住民が 割引を受けるのは理にかなっているが、民間業者なら関係ないはずだ。

ひょっとすると、これは社内販売割引と同じようなものなのかもしれない。 観光産業は、ハワイをひとつの経済共同体と見た場合、一番の主力商品である。 住民は、多かれ少なかれハワイ経済に参加しているわけだから、 いわば「身内」というわけだ。

ディナークルーズの方は、何と言うか、観光産業も大変だなあ、という感じ。 5:30出発で、ちょっと外海に出て日没を眺めた後、港に戻って来て港内をぐるぐる。 船内ではフラダンスショーから、観客を巻き込んでのダンス大会へと持って行こうと していたんだけど、どうも客を乗せきれなかった。演出に苦労の後がしのばれて。 多分、もちっと客の数を減らして、スタッフを増やせば、同じ路線でも結構面白い 体験が演出できるんではないかと思うんだが、それは言いっこなしか。

12/23(Thu) 引越し先決定

来月中頃までに今住んでいるアパートメントを出なければならないので、 ホリデーシーズンを間近に控えてそろそろ危機感を覚えはじめ、重い腰を上げて探しにかかった。 日曜日に新聞を買い、月曜に電話をかけまくり、火曜に見に行って絞った物件は2件。

ひとつは会社から車で25分くらい離れるのだが、海辺の一軒家の離れで、 庭がビーチに続いている。もう一つはダイアモンドヘッドの足元、 広い公園のそばにある低層のアパートメントで、静かで気持良い。 どちらも家賃はそこそこ (今の所の6〜7割)。まあ広さも6〜7割なのだが、 今の所は広すぎると感じていたので、妥当である。

海辺の離れの方にまずアプリケーションを送付したが、一日違いで押えられてしまった。 次いでアプライしたダイアモンドヘッドの方に決定。明日サインしにゆくことになった。 これで引越し業者の手配やら住所変更通知やらに取り掛かれる。

賃貸物件選びは、巡り合わせというか、偶然に左右されることが大きい。 実質3日で決めたわけだが、もっと待てば良い物件が出て来るかもしれないし、 かと言って待っていたら今あるやつが押えられてしまう。 最適な戦略なんかを確率論で導き出すこともできるのかもしれないが、 私はいろいろと思い悩むのがめんどうくさいので、適当なところでさっさと決めてしまう。 どうせ住めば都なんだしさ。

12/22(Wed) Man on the Moon

コメディは、現実の一部を切り取って虚構の舞台に載せることにより、現実を相対化して 見せる手法である。それによって、観客は現実の中に潜む虚構を暴いて溜飲を下げ、 虚構の中に潜む真実を発見してほっとする。

しかし、観客が舞台を完全なツクリゴトとして観始めると、コメディの堕落が始まる。 お約束の展開、決まり切ったジョーク、効果音の如く挿入されるフェイクの笑い声。 そんな番組に、現実をゆさぶる本来の力は無い。

映画 "Man on the moon" は、この現状に我慢がならなかったパフォーマー、 Andy Kaufman (1949-1984)の生涯を描いたものだ。1970年代後半から1980年代 初頭にかけて、"Saturday Night Live" やsitcom "Taxi" で話題を振りまいた 人らしい。私は全然知らなかったのだが、背景を知らなくても十分にわかる作りになっている。

Andyは、虚構をTVや舞台の中だけに閉じ込めておかなかった。虚構を現実に持ち出し、 自分の日常生活を含めあらゆることを虚構の中に放り込んだのである。舞台を降りて、 これが素顔だと思っていると実はそれも演技で、それが暴かれたと思ったらその暴露劇そのものが 演出で。観客の裏をかこうとスタッフと打ち合せておいて、更にその裏をかく。 やりすぎだとブーイングが起き、TV番組中で謝罪するが、その謝罪は果たして本心なのか、 演出なのか。最も親しいプロデューサーや恋人でさえ、Andyが真剣に喋っているのか演技なのかわからない。 ひょっとすると、Andyにとってその二つは区別が無かったのかもしれない。 本当のAndyなんてものは居ない、目に見えていることが現実であり、それは同時に虚構なんだ、 ということを、人生を賭けて表現したのかもしれない。芸人根性ここに極まれり。 どうせヤラセをやるなら、ここまでやってほしい。

主演のJim Carreyがまたすごい。自分自身がAndy Kaufmanの大ファンで、 何としてもこの役を射止めたかったそうだ。それだけに、演技には鬼々迫るものがある。 素顔を持たない人物を一体どうやって役作りしたのか、全く私なんかの想像を絶する。 仮面を取り換えるように次々と演技がすげ変わる役を演じて、どれが本物かわからないのに、 紛れもなく統一された人物がそこに存在するのだ。 自分の存在そのものを、役の存在へと流し込んでいると言おうか。

全身全霊を投げ打って虚構を演出したとき、出来たものは虚構だろうか。現実だろうか。

12/21(Tue) 信じる心の多様性

わたなべ氏の 「けんきうとは信じること(か?)」(12/21) を読んで、一言「信じる」と言っても何通りか 信じ方があることに気付いた。

(1)可能性を信じる。複数の解釈や結末が有り得ることを承知しながらも、そのうちの一つが実現 することについて、時間、努力、金などを積極的に投資するほど、特に強い期待を寄せる。 研究者が信じることってのは多分このタイプ。自分の可能性を信じて頑張っている多くの人がいる。

(2)仮説を事実として信じる。それに違いないという証拠が不十分であるにもかかわらず、それを事実として 受け入れる。他の可能性があることは考えとしては理解できるが、日常生活では意識の隅に 追いやられており、一つの仮説をあたかも事実であるかのように見倣して行動する。 我々が個々に構成している世界観、スキーマというものは、絶対的に正しいと証明する手段が無い にもかかわらず、それを事実と見倣さないと日常生活が送れない。自分のスキーマを可能性の 一つと考えられる一部の慎重な人を覗いては、普通はわざわざ「信じる」と言明するまでもない あたりまえのことと見倣しているのではなかろうか。

例えば信じていた人が、信頼とは違う行動を取ったとする。(1)の場合なら、 自分の賭けが間違っていたのだ、と思うだろう。(2)の場合なら、「裏切られた」 「私の信頼を無にするなんてひどい」と思うだろう。あるいは急な事故が自分の 身に降り掛かった時。人生を全て可能性として信じている人は、自分が賭けに 敗れたことを嘆く。事実として信じていた場合は、自分のスキーマが打ち砕かれた ことに苦しむだろう。

もうひとつある。(3)無条件に信じる。あるスキーマを絶対のものとして、 全ての判断の基準として採用する。そのスキーマが正しいかどうかという判断さえ そのスキーマに基づいて行われるので、普通はそのスキーマが正しいかどうかを問う 意味さえ無い。疑いようの無い事実なのだ。

無条件に信じているものが、スキーマの構成のしかたに影響を与えるスキーマ、 いわばメタスキーマ (こんな言葉あるのか?) である場合、それは有用である。 人生は解決を待っている問題でいっぱいだ、とか、人生こそが我々に意味を問うているのだ、 とか、そういう自分の立場そのものの出発点になるからだ。 信仰というものも、メタスキーマとして動作すべきものだと思う。

しかし、無条件に信じているものがただの仮説レベルである場合、それは盲信となる。 グルに気を入れてもらうと病気が直るとか、金払うと来世で楽できるとか。

「あなたは〜を信じますか」と問う人は、どの「信じる」を念頭に置いているのだろう。

(ところで、英語だと(1)及び(3)の前者が自動詞のbelieve in 〜、 (2)と(3)の後者が他動詞のbelieve〜になるような気もするんだが、ちょっと自信無い。 そう簡単には割り切れないかも)。


夜中に、Jim Carreyの新作 "Man on the Moon" のプレミアを観る。 こりゃかなり凄い。時間が無いので感想は明日。

12/20(Mon) 目覚し時計/携帯

持っていた唯一つの目覚し時計が壊れた。 接点の接触不良くさいんで、直そうかと思って中を開けたら驚く程簡単というか適当な 作りであった。プッシュスイッチと思っていたものは、湾曲したステンレス板が基盤の 上にセロハンテープで止めてあるばかりである。直す気力が萎えた。 こっちに来て最初に、とりあえず必要だからと買った安物なので仕方無い。 目覚し時計は保険のようなもので、確実に動作してくれるという信頼感が必要だ。 ひょっとして、これまでしばしば鳴った覚えが無く 寝過ごしていたのもこいつのせいかもしれぬ。 枕元に置いておいた筈の時計が布団の中で身体の下敷きになっていたりしたので、 てっきり眠りながら自分で止めていたとばかり思っていたのだが ←だから壊れたのだという説もある。

朝早くに何か大事な用事があると、ほとんどの場合は目覚しが鳴る前に目が覚める。 目覚し時計を合わせるという行為によって暗示をかけているのかもしれぬ。 早く目が覚めすぎてしまった時、もう少し寝ても目覚しがあるから大丈夫、 と安心して二度寝出来るという効果もばかには出来ない。

とりあえず、明朝は人と会う予定があるので寝坊出来ない。 TVのタイマーで起きることにする。


先日、ラジオシャックでちょっとしたパーツを買ったら、携帯電話を薦められた。 「携帯はもうお持ちですか。」 いいえ。 「今ならオトクですよ。」 そういうものを持ち歩く習慣が無いんで。 「でも、誰かが貴方に緊急の連絡を取りたいと思った時どうするんですか。」 そういうことが無いように生活していますから。 「そういうことが無いと思うときに起こるのが緊急事態なんですよ」

まあそりゃそうなんだけど、 ほんの10年前は携帯を持たなければならない程緊急の要件が頻繁に起こり得る人なんて 一握りで、皆うまくやっていたではないか。確かに携帯は便利だ。 しかし、腕時計さえ持ち歩くのが面倒臭い (つけてると重いので、 外して机の上に置いておくと、そのまま忘れてしまう) 人間が、 アメリカのごつい携帯を持ち歩けるだろうか。 財布と、各種カード入れと、車のキー。それ以外のものを持つとどっかに忘れてしまいそうだ。 そう言えば手帳やアドレス帳というものもここ2〜3年使っていない。 これらも常に持ち歩かなければ意味が無く、しかし無くしたらダメージが大きいからだ。

かつては、常に背中のデイパックのポケットに自転車簡易修理工具一式、 ラジオペンチにニッパーにテスターにドライバー、懐中電灯と替えの電池、 及び東京近郊道路地図を携帯していた私だった。携帯電話もその頃今程に安かったら 持ち歩いていたと思う。起こり得る緊急事態になるべく一人で対処できるように 備えていたのだ (「こんなこともあろうかと思って用意しておきました」)。

就職と移住を機に、一回持ち物をリセットしてからは、考え方が変わった。 何が起きるかわからないのなら、一人で全てに備えるのは無理だ。 むしろ、人を頼れるずうずうしさと、頼れる人をたくさん作る社交性を 身につけた方が良い。などと妙な開き直りをしてしまった。 以前と違って通勤に時間がかからなくて、しかも一箇所でしか仕事をしていないから、 連絡のつかない「空白の時間帯」が激減したことも関係するだろうけど。

どうやら日本では、来年の早いうちに携帯・PHS加入者数が一般電話回線加入者数を 追い越すらしい。携帯情報端末としての将来性には私も期待している。 ただ、今の携帯ではまだ端末の形態・性能に人間の行動が縛られているような感じがする。 むしろ、こういうデバイスを待っているのだ。 折り畳んでクレジットカードサイズ。厚さもカード入れに入るくらい。ジーンズの 後ろポケットに入れといて尻持ちをついても壊れない。Email, Web Access はもちろんPDAとしても使える。電池残量を気にする必要はほとんど無い。 画面の解像度とコントラストは紙の印刷並み。もうすぐ出来そうな気がするんだけどな。

12/19(Sun) The Green Mile (二度目)

The Green Mile" 二度目の鑑賞。最初に観た時は 「原作のあの場面はどうなるんだろう」と、つい雑念が入ってしまったのだが、 今回は映画そのものを楽しむことが出来た。せりふの細かいところもわかったし。 3時間という長さは今回も気にならなかった。ただ、マチネを観に行って映画の後で食事を取ると それで午後が潰れてしまうので、観に行くのに気合いは必要だ。

観る方に気合いを要求するくらいだから、作る方はばりばりに気合いが入っている。 まあ、Darabont監督の誠実さの現われって感じだけど、 観る人によってはtoo muchかもしれない。 3時間の密度の濃い舞台を見せられたような感じになる。

前回、「Kingのビジョンは非常に忠実に再現されているが、Darabont監督独自のビジョンも もっと観たかったと思う」と感想に書いておいたのだが、控え目ながら原作に無いちょっとした 伏線が入っていて、これにDarabont監督の映画というものに対する愛を感じさせられてしまって じんと来るのだ。

Kingのページの映画のエントリに "The Green Mile"を追加。あと、聖書との関連についてちょっと考えてみた。

12/18(Sat)

ホッケーのピックアップゲーム。西陽の当たる公園は暑くて、プロテクターを つけているとじっとしていても汗が出てくる程だった。 その後、同僚のAさん宅でパーティ。奥さんの北海道料理の腕が冴える。おいしうございました。


蝸牛的ピアノ日記:ベルガマスク組曲のPassepiedをぼちぼちさらい始めている。 この曲は、ある程度覚えてしまわないと(特に左手)合わせることもおぼつかないのだが、 片手づつひたすらさらうのも退屈だ。そこで、デジピのシーケンサーを使って 左手と右手を別トラックに記録しておき、片手づつシーケンサーに合わせて稽古。 一人カラオケである。シーケンサーだと、ゆっくり記録してスピードを上げて再生できるので 覚えてきたらだんだん速くしてゆける。

しかし、一度記録したものをメトロノームと一緒に再生してみると、あちこちで リズムを外しているのがよくわかる。弾いてる時は気持いいのに。

12/17(Fri) アメリカンドリーム/Princess Mononoke

同僚Lが、会社を辞めて自分のビジネスを立ち上げる。 今日は最終日なのでfarewell lunch。 以前に日記で触れたが、Lは一度Square LA時代に辞めて会社を立ち上げている。軌道に乗らなかったので 自分の会社を休眠状態にしてSquareに戻って来ていたのだ。新しい投資元が見つかったというので、 今度はベイエリアと台北にオフィスを構えて頑張るそうだ。 皆口々に言うことは「IPO(初回株式公開)の時には教えろよ」。

現代のアメリカンドリーム、それはベンチャーを興して、株式公開を果たし、 一躍億万長者になることだ。とか言うと、「そんなに金を儲けて何するの?」なんて 言われそうだが、そりゃもちろん、儲かるプロジェクトではなく好きなプロジェクトを やれるようになるためだろう。ベンチャーを興そうなんて人間は、金持ちになって引退 なんてことは考えない。金持ちになったら、その金をつぎこんでさらに仕事を忙しくするのだ。

経済学には素人だが、実際に創り出すモノよりも、モノを創り出すことへの期待そのものが 取り引きされ価格を付けられる現代というのは面白い。貨幣経済は、多くの人為的な約束事と 暗黙の了解の上に築かれた高度な抽象概念という気がしてくる。このへんについては 後でまた考えてみたい。


今日の映画。まだ観ていなかった友人の希望でふたたび "Princess Mononoke" を観た。 公開からもうひと月以上経っているのに、客が結構入っている。と言っても席の3割くらい なのだが、先週観に行った "Toy Story 2" が我々のグループの貸切り状態だったことを 考えると、結構健闘しているのではないか。

あれだけの複雑な内容を詰め込む構成の妙には何度観ても驚く。特に全く隙の無い冒頭部。 密度が濃すぎて、ぼーっと観てたら取り残されそうになる。

自然に畏敬の念を抱きながらも、収奪しなければ生きて来れなかった、この矛盾は 現代の生活を享受する我々にとっての「原罪」である。と、私なんかは感じるのだが、 土地は人間が神と契約することによって授かったものだとするユダヤ-キリスト教系の 思想からするとどうなんだろう。友人(イラン系カナダ人)は相当感動してたみたいだが。

12/16(Thu)

仕事の上でいくつかアイディアがあるのだが、実装にてこずっている。 家に持ち帰って仕事して、朝までに出来た分をまた会社に持って行って、を繰り返しているが なかなか進まない。だんだん時間の感覚が無くなって来る。

昨日の話の追加。再帰プログラミングは、アルゴリズムがある程度以上複雑になってくると、 ループよりも作りやすいしデバッグしやすい。実装そのものが帰納的で、 N=1の時に正しい結果を返すことと、N=n-1の結果が正しければN=nでも正しい結果を 返すこと、の2つの分岐を書けば、もうそれで確実に動作するのだ。あ、N<1ならエラーってのも必要か。 Nが単なる数字ではなくリストやツリーのようなデータ構造で、しかも入力そのものが 複数あったり、入力値によっていろいろに分岐したりすると、 ループでは何が何だかわからなくなる。

12/15(Wed) 末尾再帰

昨日の日記に関して、 友人から 掲示版でコメントがあったので、ここで答えてしまおう。以下引用。

末尾再帰がループと同じというのは僕にはわからないなあ。 手続きが自分自身を呼び出すときは、レジスタの内容をスタックにPUSHしてから 呼び出すのであって、単なるループならそういうことはないんじゃないの?

確かに、サブルーチンコールにはまずスタックありき、と考えると、そういう気がしてしまう。 とりあえずスタックというモデルを忘れよう。 関数(サブルーチン)を、入力を与えると、仕事をして、値を出力する主体と考える。 関数毎に人がいて、データを渡すを、がしがし計算して、結果を渡してくれるというイメージだ。

他の関数を呼び出すというのは、自分の仕事を中断して同僚に申し送り事項を渡し、彼の仕事が 終わるまで休憩し、終わったら結果を受け取って自分の仕事を続行する、 ってなイメージになる。

ところが普通のコンピュータでは、自分も、同僚も、同じ机や引出しを共有している。 だから、彼に仕事を頼んでいる間、自分のやりかけの仕事の中間結果をどこかに避難させとかなけりゃ ならない。彼の仕事の途中に再度自分が呼び出される可能性もあるので、ごちゃごちゃにならない ように、机の決められた場所に中間結果の書類を積みあげておくことにする。自分の仕事が 終わる時、その中間結果を破棄する。書類の順番は変えないようにする。 皆がこれを守れば、書類の山はごちゃごちゃにならない。これがスタックだ。

さて、もし、自分の仕事の最後のステップが、同僚に仕事を依頼して、その結果を 受け取ってそのまま上司に返すものだとしたら? わざわざ同僚が仕事を終えるのを 待っていなくても、「結果が出たら上司に渡しといてね」と頼んで自分は飲みに 行っちゃったって構わないわけだ。あと必要なのは同僚の返す結果だけだから、 自分の中間結果をどこかに取っておく必要も無い。

これが、末尾呼び出し(tail call)の最適化。 最後の関数の呼び出しに当たってはレジスタを退避する必要も無いし、 自分の使っていたスタックフレームも解放してしまって良い。 (但し、C/C++ではスタック上のローカル変数のアドレスを引数にして関数を 呼び出すことがあるので、いつでもこの最適化が出来るとは限らない)。

末尾自己再帰とは、最後に呼び出す関数が自分自身だった場合だ。 同僚に残りの仕事を頼もうと思って机を整理して、仕事の割り当てを確認したら、 その仕事は自分がやるべきことだった、というケース (ちょっと例えに無理があるか?)。 これまでの中間結果はもう要らないので捨ててしまえるが、 準備した申し送り事項を改めて自分で読み直し、仕事を続けることになる。 結局、自分の仕事の結果を使ってもう一度仕事を繰り返すことになるので、 ループ処理と同じことになる。スタックの操作は一切無い。

例として、階乗n! = 1×2× ... ×n を計算する関数の再帰版を考えてみる。 我らが階乗君に与えられた仕事手順は次ぎの通り。

  入力として、正数 n と途中結果 m を受け取る。
    n が 1 なら、途中結果を出力して終わり。
    そうでなければ、階乗君に n-1 と n×m を渡す。

最初に階乗君に仕事を頼む人は、階乗を計算したいnと、途中結果の初期値として1を渡す。 4!を計算するとすると、最初に階乗君は(n=4, m=1)を受け取る。nが1で無いので、 (n=4-1=3, m=4×1=4)とする。まだnが1で無いので、(n=3-1=2, m=3×4=12)とする。 まだnが1で無いので、(n=2-1=1, m=2×12=24)。とうとうnが1なので、ここまでの途中結果24 が出力となる。この記述の通り、これはループ処理と何らかわるところが無い。 なお、実際は、nのみを受け取る普通の階乗関数の中でローカルに再帰版を定義し、 途中結果は外に見せないようにすることをよくやる。

末尾相互再帰、というのもある。同僚に申し送りして、あとは帰るだけだと ゆっくりしていたら、その同僚の仕事の最後のステップが、自分へ仕事を振ることだった、 ってケースだ。この場合、スタック操作を介さないループが、関数をまたがって 存在することになる。C/C++ではこの型の末尾再帰まで最適化してくれるコンパイラは ほとんど無いのではなかろうか。

末尾相互再帰を使うと、複雑な処理をしなければなならないループを、 呼び出しのオーバヘッド無く関数に分割することができる。関数をパラメータとして 受け取ることで、後からユーザが自由にループを拡張することさえできる。 柔軟な仕組みなのだ。

12/14(Tue)

チーム内でプログラミング言語Schemeの勉強会。 勉強と言ってもだいたいみんな学生の頃に触ったことはあるので、 ざっと表面をさらって思い出すのが目的。 それにしても、Schemeなんて仕様書自体が50ページ以下にすっかり収まってしまうほどの 小さな言語なのに、ちゃんと説明しようと思うと以外に手間がかかるものだ。 私は人の説明を聞いてただけなんだけど。

末尾再帰 (手続きの最後に、自分自身を呼び出すこと) が単なるループと 同じだということは、C/C++のモデルに慣れてしまうと直観的にのみこみにくいのかも しれない。完全に抽象的に考えるか、もしくは具体的にアセンブラレベルでどういう動作を しているか(スタックの操作を含めて)を理解するか、どっちかでないと難しいのだろう。 自分の場合は後者で、抽象的な説明を読んだ時は霧がかかったようだったのだが、 処理系の実装を眺めてはっきりわかった覚えがある。

クロージャとか、高階関数とかいう概念も、プログラミング教科書では抽象概念として 説明されているのだろうけど、やはりどのように実装されているかを知っていると わかりやすい。こういう概念は別に教科書の中だけのものでなく、現場のプログラミング でも皆使っているテクニックなのだ。ただC/C++にはその機能が無いから、毎回毎回 エミュレートするコードを自分で気付かずに書いているだけで。

C/C++プログラマのためのScheme入門みたいな ドキュメントを書いてみようかな。

12/13(Mon)

先週末に、ある機械が会社に届いて、珍しいので今日も皆で入れ替わり立ち替わり、 眺め回したり、触ってみたり、とりあえず電源を入れてみたり、 立ち上がりの画面を見て「おお」と言ってみたり、ネットに繋いでpingかけたりしてみている。 しかし、実は肝心のライブラリがまだ届いていないので、プログラムを走らせることは出来ないのだった。 きゅう。


プロダクションの方から、今運用しているデータベースサーバに SQLでアクセスできないかという質問が。ぐわー来てしまった。 確かにデータベースのインタフェース言語としてSQLは標準だ。 しかし、現在運用しているデータベースサーバは完全にオブジェクト指向なやつで、 インタフェース言語としても独自言語 (一応オブジェクト指向データベース(OODB)標準の OQLを参考にはしている) を使っている。 SQLは、表形式でデータを扱うリレーショナルデータベース(RDB)には向いているが、 オブジェクト指向データベースの良さは活かしにくい、というのが理由だ。 わざわざパフォーマンスを下げるような仕様の言語を実装したくは無い。 今のインタフェースは、若干の制限があるものの、CommonLispと同程度に強力な言語であり、 なぜ制約が多いSQLに「ダウングレード」しなければならないのか、というのが本音だ。

しかし、世の中でデータベースと言えばRDB+SQL。データベース経験者なら 少なくともSQLは知っている。知らない人でも、独自仕様の言語を覚えてもらうより、 SQLの本を買って来て自習してもらう方が楽。おまけに独自仕様の言語の方は Lispベースだから、Lispを知らない人はそこから始めなければならない。 だが、データベースを使う立場のスタッフは、 業務に必要だからデータベースにアクセスしているわけで、 コンピュータ言語の学習をしに来ているわけでは無い。うーむジレンマ。

12/12(Sun) ショッピングモールの都市機能

先週一週間は妙にぐずついた天気で、まあそれがハワイの冬なんだけれども、 こう降り続くと日本の梅雨のようだ。 雨の中を走ったおかげで車は綺麗になったが、 会社はあんまり降られると雨漏りするのでいけない。 ホノルルマラソンも雨の中の出発だったようだ。


こちらのショッピングモールは、小さなステージがしつらえてあることが多い。 小さなと言っても間口3〜4間くらいはとれるし、ちょっとした照明もPAもつけられる。 週末は大抵、何かしら催しものをやっている。最近はクリスマス一色で、 昨日映画を観に行ったKahala Mallでも、子供達による合唱みたいなことをやっていた。

子供を持つ身で無いのでよくわからないのだが、ああいう催しを主催するのは 日本でいう児童会とか地域のコミュニティセンターみたいなものなのだろう。 普段は何処で練習しているのかは知らないが、発表の場として、 ショッピングモールのように人が大勢集まれる場所を使えるのは良いことだと思う。

Kahala Mallのすぐ近くには野球場やバスケットボールコートを備えた公園があり、 そこも週末は子連れで賑わう。野球場はリトルリーグみたいなのが試合をしているし、 ホッケーのジュニアリーグもやっている。

こうして見てみると、アメリカの都市郊外のコミュニティの中心というのは、 ショッピングモールなんじゃないかと思えて来る。公園もあるし、ショッピングも出来るし、 催しものもあるし、映画館もある。但しバーやクラブといったものは注意深く排されている。 家族連れが週末を過ごすのに、いかにも機能的に作られているのだ。 そのぶん、どのモールも似たり寄ったりで詰まらなくもある。良くも悪くもアメリカ的だ。

日本ではこういうふうに機能を徹底した場所ってのは無いように思う。新興ベッドタウンの 駅ビルを中心としたエリアなんかは多少考えてデザインされているようだけれど、 やっぱりいろんな店が詰め込んであるし、多機能だ。もちろんどちらが悪いというわけでは無い。


蝸牛的ピアノ日誌:かなり久しぶりにアコピで稽古。体力が無くなっている… Chopin Etude Op10-1, 10-3, 25-12。Alkan Etude Op39-2, Esquisses 2, 5。 Debussy Suite Bergamasque。

12/11(Sat) The Green Mile

"The Shawshank Redemption (ショーシャンクの空に)" から5年、 再びStephen Kingの原作をFrank Darabont監督が映像化した。 "The Green Mile"。1930年代、大不況下のアメリカの、南部にある刑務所の死刑囚監房で起きた奇跡と、 それにまつわる人間の運命。生きることの意味、罰と救済とは何かを問う。

希望というテーマがAndyというキャラクターによってストレートに表現されていた 「ショーシャンク〜」に比べると、この作品はずっと複雑で微妙に構成されている。 表面に表れる幾筋かのストーリーは、それぞれ個別に見た場合さほど強くは無いのに、 全てがCold Mountain Prisonという舞台を中心にして織りなされた時、 人生の根幹への衝撃的な問いかけが明らかになるようになっている。

Darabont監督はこの複雑な原作のエッセンスを、死刑囚官房そのものを主役に 据えることで表現しようと試みた。多くのキング作品の映画化のように、 原作の一要素に注目して映画を構成する方法では、原作の「問い」が見えて来ない。 物語の基盤は、電気椅子 Old Sparky と緑色の床 The Green Mile を持つ Cold Mountain Prison E官房であり、登場人物はその中に配置され、 自分に与えられた役割/運命に翻弄され、抗う。

ぐいぐい引っ張り込んでくれるストーリーを期待していると、3時間という上映時間は 少々長く思えるかもしれない。そういう映画では無いのだ。観客は、E官房のGreen Mileを 自分の中に取り込み、その中に生きるのである。E官房の看守と囚人達が生きた時代と 匂いを自ら感じるのだ。そして、最後に大きな問いかけを食らって、映画館を後にする。 この映画のインパクトは、観ている時ではなく、その後にやって来る。 ベッドに横になって窓を見上げる頃になって、 観客は自分自身の「グリーン・マイル」に向き合うのだ。

主役のTom Hanksを始めとして、ベテラン俳優と有望な新人でがっちり固めたキャスト。 誰かが突出するのではなく、全員のアンサンブルで舞台を作り上げる。 Gary Siniseがちらっと出演しているが、これはやっぱり "Of Mice and Men 二十日鼠と人間" つながりか ("The Green Mile" と "Of Mice and Men" の類似点に関しては キング掲示版 でも以前議論になった)。 重要なキャラクタである鼠のMr. Jinglesのエフェクトもソツ無く作ってある (エフェクトにはILMと Rhythm&Huesがクレジットされていた。まあ鼠はR&Hの十八番だろうから)。

敢えて不満を述べれば、少々真面目に作りすぎている感じも受けた。 Kingのビジョンは非常に忠実に再現されているが、Darabont監督独自のビジョンも もっと観たかったと思う。

12/10(Fri) 個人と所属組織の話の続き/Toy Story 2

一昨日の日記はちょっと一般化しすぎたかも。 ちはるさんはせぴぃさんから Webpage上でコメントを頂いたが、 お二人のように大学教員という立場であるのなら、あまり個人としての発言と所属する組織の一員としての 発言にセンシティブになる必要は無いのではないかと思う。 ちはるさんが「教員ひとりひとりは個人営業的なところがある」と書かれているように、 大学教員ならば自分のところから発信する情報を制御し、責任を持てる場合が多いと思うからだ。

企業においては、開発中の商品の情報をいつどのように出すかという戦略はプロデューサーの 責任であるし、どういう方向で開発を進めて行くかという戦略は経営陣の責任である。 そういった戦略のデザインと実行も一つの重要な創作物と思うから、 たかが一個人のマイナーサイトと言えど、その創作物を乱すようなことはしたくはない、 という考えが私の根底にある。書いていて気がついたのだが、むしろ私が所属組織との関連で 発言に気をつかうのは、スタッフがお客さんの前をちょろちょろしてはだめだ、という感覚を 持っているからなのかもしれない。


さて、本日12/10は "The Green Mile" の公開日だが、キングファンにあるまじきことか、 友人にひきずられて "Toy Story 2" を観てしまった。

はぁ。やっぱ凄いよPixar。 よく出来ている。ものすごく良く出来ている。細かい所ではまだ質にムラがあるけど、 エンターテインメントとしての完成度は前2作より格段に高い。 確かにToy達や風景のレンダリングがかなりの現実感を持っているのに対し 登場する人間達は妙に不自然だが、そこはそもそも観るところでは無いから良いのだ。 難しいことを考えずに気楽に観て、十分に楽しめる作品。

Pixarの強みは、オリジナルのスタイルを持っていることだろう。ストーリーや演出から、 モデリング、テクスチャ、アニメーション、ライティングまで、作品中でひとつのスタイルを 確立し、全てをそれに向かって集束させる。 本編の上映の前に、Pixarが15年近く前に製作したショートフィルム "Luxo Jr." が 上映され、昔からのPixarのスタイルが最新作である本編にも引き継がれていることを 際立たせていた。

12/9(Thu) ハッカーの掟

いつも行くスーパーで韓国産梨を1/3くらいの値段で安売りしていたので買って来てみる。 品種としては二十世紀梨か、それに近いもののようだ。スーパーの商品表示は "Korean Apple Pear" で、なるほど、という感じ。こういう輸入物の果物は ことに高い。梨も平常価だと一個$4する。味は良い。


待望のLinux版Java2がSunから発表になったが、 それに関してSunはとんでもない失敗をした。 オープンソースを支える「ハッカー文化」と企業文化との間にまだ大きな差が有ることを 示しているような事件だ。

LinuxへのJava2の移植は、Blackdown という有志のプロジェクトによって行われてきた。その成果はSunに還元され、 今回の発表の運びとなったわけだが、SunがInpriseと共同で行った発表では Blackdownの貢献には一言も触れられなかったのである。詳しい経過は日本語で ChangeLog で読める。

オープンソースのソフトウェアの多くは、誰もがネット等から無料で入手できる。 それでいて、高額なソフトウェアより品質の良いものさえある。 当然、そのソフトウェアを書いている人々は金銭的な報酬を受け取っていない、ボランティアである。 無償て他人に奉仕するなんてのは夢物語ではなかったか、一体何故彼らは貴重な余暇を潰してまで コードを書くのか、多くの人が首を捻った疑問に、わかりやすい解答を与えたのはEric Raymond の論文、 ノウアスフィアの開墾(リンクは山形浩生氏による日本語訳)であった。 オープンソースに貢献する人々は、なにも超越的な聖人君子というわけじゃなくて、 普通にものを生産し売るというパラダイムとは別のパラダイム(贈与の文化)に 基づいて行動しているのだ、というものだ。 いくらでもコピーが可能なソフトウェアにおいて、ソフトウェアそのものを所有することには 意味がない。むしろ、そのソフトウェアの開発に貢献したんだという名声、評判を 得ることが何よりの財産であり、報酬となる (私の下手な説明よりは、上記リンクの論文を 読んでもらえると有難い)。

したがって、Sunからのクレジットが無かったことは、 ハッカー文化に支えられたBlackdownの無償の貢献に対する重大な支払い不履行であったわけだ。 むろんSunはあわてて謝罪に回っているし、経過を読んでいるとどうも最初にクレジットが無かった のは単なるミスのように思える。従って、ここでSunを責めるつもりは無い。 興味を惹かれるのは、そもそもそういうミスが生じた理由だ。

金銭の所有が大きな意味を持つ通常の社会において、支払いの不履行は企業にとって重大な ダメージを与える。どんなに混乱しても、その部分は何重にもチェックされ、 そこでミスをする企業はほとんど無いだろう。 ハッカー文化にとってそれと同じくらい重大なことがミスで起きてしまったというのは、 企業の中にはまだそういう文化が無いということだ。形だけオープンソースを真似てはみても、 文化そのものがシフトするまでには至っていないということだろう。

人の頭のソフトウェアというものは、通常の社会では、物(ハードウェア)よりも 硬いようだ。目に見える物が次々変わって行ってようやく、考え方そのものがそれに合わせて 変化する。マクロな意味では、やはり生産手段の変化が社会構造の変化をもたらすということか。

12/8(Wed) ネット上での個人的発言と所属組織の関係

昔、と言っても10年くらい前、日本ではインターネットにつながっていたのが大学や企業の研究所だけ だった頃、ネット上での発言に際しては、こんな暗黙の了解があった。 発言は実名と所属を明らかにする。発言の内容は個人としてのものであり、 所属する組織の見解を代表するものではない。 (もちろん、まだWebというものは無かった。ここでの「発言」とはネットニューズを指す)。

ネットそのものがまだ学術研究の対象という性格が強く、参加者も研究者(およびその卵) が圧倒的多数であったこの時代には、これらの暗黙事項も妥当なものであったと思う。 学会での研究者同士のオープンなディスカッションの雰囲気が持ち込まれていたと言えるかもしれない。

しかし、ネットが一般化してあらゆる人々が参加するようになった現在では、 読み手に対して何かの暗黙の了解を期待することは難しい。 所属組織を明らかにして情報を発信している場合、自分の発言が所属組織の何らかの 見解や体質を表現しているのではないかと想像する人も当然出て来る。 また、所属組織が明らかにしていない戦略を、個人の発言から読み取ろうとする人が いても不思議ではない。

私の場合だと、スクウェアというゲーム会社として一般に認知されている企業に 属する以上、やはりゲーム業界に関する発言はやりにくい。一つには、ゲーム会社に居るからって ゲーム業界の全貌を知っているわけでは無いにもかかわらず、その所属によって 読み手がバイアスを持ってしまう可能性があること。もう一つは、 守秘義務には抵触しなくてもメタな情報を与え得る場合があること。 まあ、あと、技術者として自分の分野ではいろいろ言うより作って見せるのが一番、 というへんなこだわりが無いわけでは無いというのもある。

実はうちのようなマイナーなサイトで気を使ってもあんまり意味は無いのかもしれないが、 転ばぬ先の杖である。

12/7(Tue) in escrow

受取証明付き手紙が届いたので、何かとどきどきしたら、今借りているアパートメントが とうとう売られたという通知であった。本日から45日以内に出なければならない。

その通知の中に、"[the unit] is currently in escrow" という表現があった。 escrow という単語は、確か暗号化アルゴリズムの話で見たことがあるが、 正しい意味を知らない。しかし、Longman Contemporary English Dictionary にも 研究社英和中辞典にも出てない。別の辞書で調べたら、「条件付き譲渡証書」とあった。 これではなんのことだかわからない。

こういう時はネットで検索。これかな→ What is an escrow?。 不動産譲渡の際に、公平な第三者を立てて、書類やら譲渡にかかる経費やらの管理を行うことらしい。 不動産の代金もEscrowが一時的に預り、譲渡に関する条件が全てクリアされてから売り手に 渡されるらしい。 なるほど。不動産ともなると、ぽんと金を払って品物を受け取るというわけにはゆかないのだな。

譲渡の際に壊れたところや痛んだところを調査したり修理したりするのはEscrow期間中に 行うべし、とあるから、これから年末にかけてばたばたしそうだ。早いとこ次に住む所を探さねば。

ちなみに、暗号化アルゴリズムではこの単語は "key escrow" というふうに使われる。 普通、暗号化された文書を解読するためには秘密の鍵が必要だ。もしその鍵が失われて しまうと解読は出来ない (出来てしまったら暗号でなくなる)。"key escrow" とは そのバックアップとして、特別な鍵を信頼できる第三者に預けておく方法。 この特別な鍵は、例えば複数用意して、その全てが揃って始めて秘密の鍵が復元できるようなものだ。 以前アメリカ政府が、あらゆる暗号化文書に対してこの特別な鍵を政府で管理するような 法案を通そうとして大騒ぎになった、と記憶している。 検索で見つけた説明はこちら→ A Taxonomy for Key Escrow Encryption Systems

12/5(Sun) 卍騒動

ポケモンカードに記された卍マークが、ナチスのハーケンクロイツに似ていると抗議があり、 任天堂がそのカードを生産中止にするとかどうとか。 そういえば、昨年2/8の日記で触れたが、長野冬季オリンピックで CNNが長野市内の寺院の映像を写した時も、すぐに抗議の電話がスタジオに行ったらしい。

日本人にしてみれば、お寺のマークは ずーっと昔から使って来たわけで、ナチスが勝手に似たようなマークを使っただけだから とやかく言われる筋合いは無い、と言いたいところだが、鈎十字の下にナチスが行った事を 考えると、慎重にならざるを得まい。単なる感情論に留まらず、もしナチの行為の記憶が鈎十字と 分かち難く結び付いているのなら、マークだけで大きな心理的なストレスを生じる可能性も あるのだろう。

鈎十字に対してこれだけ拒否反応が有るということは、日の丸に対してアジア諸国から 拒否反応があっても不思議では無い。欧米市場はでかいから、反対の声が上がれば企業は対応する。 これまで、アジア諸国からの声はどれだけ届いていたのだろう。 (太平洋戦争シミュレーションゲームを中国に下請けに出して猛反発を食らったメーカーはあったけど。)

12/4(Sat)

洗濯して、ホッケーして、読書して、日が暮れた。

時々、絶えず何かを生産していないといけないような気分になることがあって、 そういう気分の時は、こんな休日は無駄に感じられる。一方で、人生を楽しむという立場 からすれば、理想的な休日ということになる。ちょっとアンビバ。


マインドコントロール関係の記述を雑記 のほうにコピー。読み返してみると全然整理されていないが、とりあえず出しとく。

12/3(Fri) Paul Auster/End of Days

友人に薦められてPaul Austerを読み始めた。 6月に帰った時に「偶然の音楽」の邦訳を買って来て、その後ニューヨーク三部作 ("City of Glass", "Ghosts", "The Locked Room") を先日飛行機の中で 読み終えたところである。

彼の文体はちょっと硬い感じだが読みやすい。すっと話に入っていって、適度に好奇心を刺激されるから、 どんどん読み進める。と、ふっと物語が終わる。唐突な感じさえする。 後に、何か「気になる」ものが残る。まるで、登場人物が読者の心の中に部屋を 作って住み着いてしまったような。どうしようもなく気になって眠れないという ようなものではなく、普段は忘れているのだけれど、なにかのはずみにふっと思い出す記憶のような。

良かったか、と聞かれると困ってしまう。スカッと爽やかという読後感を与えてくれるもの でもない。けれど、妙に後を引く。悪い感じではない。この不思議な感覚はどこから来るのか、 ますます好奇心を刺激されて、次は "Moon Palace" あたりを読んでみたいと思い始めた。 既にはまっているのかもしれない。


千年紀の終わりってことで、このテの映画は氾濫しているのだけど、 友人間でまだ観ていない映画ということで選んだのは "End of Days"。 シュワルツェネッガーが、復活を企む悪魔と闘う話。と言えばもう大体中身は想像がつく。

ただ、予想した程悪くは無かった。特にミニチュアを使ったエフェクトにはかなり 力が入っていて、エフェクト屋の意地を見せてくれる。CGオンリーじゃ多分 まだ出せない迫力だろう。

12/2(Thu) コンソール切替え器/鼻濁音

今、自宅ではサーバー用と普段使うためのと、常時2台のPCが立ち上がっているのだが、 キーボードとディスプレイは普段使うクライアントマシンの方にしか接続していなかった。 どちらもLinuxなので、サーバ側でのほとんどの作業はリモートで行える。Xを立ち上げて いればGUIを使う作業も完全に透過だし。 ただ、たまにリブートしたい時やBIOSの設定をいじりたい時があって、 サーバのコンソールが見えないと不便であった。もちろんキーボード無しでブートするようにしてあり、 普段は何もしないでも待っていれば立ち上がるのだが、BIOS設定の変更なんかは キーボードとディスプレイをつながないと話にならない。 というわけで、前からキーボード/マウス/ディスプレイを複数台のマシンで切替えて使うことが できる装置が欲しかった。

しかし、高いのである。値段が。近所のCompUSAに置いてあるやつは$250とかする。 たかがコンソールの切替えだけで何故こんなに高くなるのか謎だ (ディスプレイ信号に関しては 帯域が広いからちょっと面倒だろうけど)。そんなわけで、先日帰省した際に¥16,000くらいの切替器を 見つけて買って来たのだった。そんでも高いよなあ。実は、その後でメカニカルスイッチ式の 切替器を¥5,000くらいで見つけて悔しい思いをしたのだが。

どういうわけか切替器を通すとLogitechのホイールマウスがX Windowsでちゃんと動いて くれないので、マウスだけはクライアント側に直結したが、キーボードとディスプレイは 無事使えた。実際に使ってみると、いつでもコンソールを見られるという安心感は結構良い。 精神的なものなんだけどね。

もうひとつ欠点があって、この切替器、キーボードのCtrlのみを2回素早く叩くことで 切替器まで手を伸ばさなくても切替えができる機能がある。Emacsを多用していると Ctrlキーに触ることが非常に多く、何かのはずみでコンソールが切替わってしまうことがあるのだ。 まあ使えない程度では無いので我慢してるが。いや、これって高い金を払ったことを 正当化しようとする心理なのかもしれない。


鼻濁音(か゜き゜く゜け゜こ゜)を使えなくなっている人が増えているとの記事を Webで読んだが、そもそも鼻濁音って普通の教育過程で教えられていたっけ? 私は演劇部に入ってはじめて具体的に知った覚えがあるのだけれど… 普段の会話では気にならないってことは、自分も結構雑に発音してる可能性が高いなあ (もっとも、助詞の「が」なんかはさすがに鼻濁音でないと気になる)。 逆に日本語を学んでいる非日本人のほうがちゃんと鼻濁音を使えたりするのは事実。 もともと、教える方も言葉にセンシティブだから日本語を教えるようになったのだろう。 そういうところもきっちり教わっているらしい。

12/1(Wed) Dogma

雷雲が発生している。西の空全体が「ぱっ」と光る。壮観だ。


宗教をネタにしたコメディ映画 "Dogma" を観て来た。 これ、初日に映画館の前で、カトリック教会とおぼしき人々が上映に反対する看板を 持って立ってたんで、どんなものか気になっていたのだ。

カトリックの教義の欠陥を利用して天界に帰ろうとする堕天使達と、それを阻止すべく 選ばれた人々。天使も正義の使者も、妙に冴えない人物なのがおかしい。 "Good Will Hunting" で共演したMatt DamonとBen Affleckのコンビが、 ここでも、いかにも昔からつるんでいますという雰囲気を出してて良い。 全体にB級テイスト漂う演出と、立て板に水のごとく繰り出されるギャグも良くできている。 硬直したドグマティズムを皮肉って、もっとおおらかに神の愛を考える、という意味では、 そんなにoffensiveでは無いと思うけどなあ。

だが残念なことに、これは私の問題なのだが、かなりの部分のセリフが聞き取れなくて ジョークでなかなか笑えなかった。速いのと、やっぱり語彙力が足りない。


蝸牛的ピアノ日誌:リハビリ。Alkan Etude Op39-1。Esquisses 5。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net