1999年11月

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11/30(Tue) ジャンク屋

今回の帰省では、わりとじっくり秋葉原に寄る機会があった。 だいたいいつもの帰省ではさっと見て回るだけなのだが、それだと相場の感覚を 取り戻せなくて、なかなか掘り出し物を見つけるのが難しい。

最近は円高だし、普通のパーツ類やPC周辺機器には秋葉原と言えどそれほど割安感は無い。 デジカメなんかはちょっと日本の方が安いけど。 むしろ秋葉原の利点はやはり中古品やバルク品等の怪しいパーツの類を扱う、 いわゆるジャンク屋だろう。こちらにもそういうのを扱う店は無いわけでは ないが、扱う品数が圧倒的に少ないのであんまり役に立たないのだ。

今回の収穫はオシロスコープ。日立の50MHz2現象のオシロがプローブ附属で3万円。 フォーカスもスイッチの接点もしっかりしている。いざという時に無いと非常に困るの道具なのだが、 新品(十数万円以上)を買わなければならないほど必要性があるわけでもない。 個人の趣味で使うなら、中古品を狙うのがベストだ---というわけで、すぐに決めて 買った。後でスーツケースに詰め込むのに苦労することになるとはその時は 考えていなかった。ジャンク屋にはそういう思考を麻痺させる効果がある。

ジャンク屋に並ぶものは、必ずしも中古品とは限らない。OEMで一括納入された 製品が何らかの理由で流れたものなどは基本的に新品と同じである。 メーカーの保障が無いこと、安定供給されないこと、等が価格の差となる。 逆に言えば、新品を購入する場合、我々は保障と言った無形のものに 価値を認めてより高い料金を支払っているわけだ。

あるいは、消費者はお金とリスクを引き替えにしていると言っても良いだろう (ジャンク品の多くは動作保障無しとか返品・交換不可と言ったものだ)。 ものの価値は値段だけでは計れない、ということを教えてくれたのも、 ジャンク屋であった。

11/29(Mon) 休暇明け/社会人劇団/シートのアップグレード

11/19〜21に友人が芝居を打ったので、それに合わせて日本に帰省していた。 その次の週、つまり先週は感謝祭で木曜から日曜まで連休であるから、月〜水まで 休みを取れば連続10日間の休みとなる。というか本当は芝居のある週末だけ帰ろうと 思っていたのだが、感謝祭前のホノルルへの戻りフライトが予約できず、思い切って この日程にしたのだった。かわりに、今年は年末年始は帰らないことにする。

夏休みという習慣が無いこちらでは、感謝祭とクリスマスに長期休暇が集中する。 今回の日程で日本に帰国した人もかなりいたようで、今朝ホノルルに戻って来る フライトでも何人かの同僚に会った。日本では師走というくらいで、年末にかけて急速に 仕事がたて込むというイメージがあるが、こちらではholiday seasonでむしろ のんびりしてしまうようだ。もっともプロジェクトのスケジュールはきついので、 休みで生産性が低下したぶんのつけは払わなければならないのだが。


友人の芝居は、東横線沿線の小さな小屋であった。面子は基本的に、学生時代に 同じ劇団に所属していた連中が再び集まったものである。普段はまっとうな社会人を していて今回だけ芝居に参加した者もいれば、役者を志して芝居漬けの生活を バイトで支えている者もいる。 小屋の入口にはずらりとあちこちのTV局のディレクターやらプロデューサーやらからの 豪華花束が並んでいて何も知らない人にはなんだか凄いように見えたらしいが、 彼らも要は一味のうちだということを知ってるので妙に可笑しかった。 一緒に飲んでみれば、みんなそれなりに実績をあげて、肩書きも立派になって、 頭が薄くなったり太ったり老けたりしてるけど、芯にあるものは変わってないのね。

芝居の方は、いささか厳しい言い方になるが、諸条件を勘案すればまあOKといった ところであった。やはり、芝居メインでやっていないと完成度を上げるのは難しい。 もちろん、趣味と割り切る楽しみ方もあるわけだが、どのへんにスタンスを置くかというのが 公演の方針として見えて来ないのが苦しかった。 割り切って内輪で楽しむことに重点を置くか、個人の生活を犠牲にしてまで良いものを作る ことにコミットするか、社会人劇団では多かれ少なかれ抱えざるを得ないジレンマだろう。


今回の帰省も格安航空券だったのだが、ホノルル→成田へのフライトが、エコノミーが 満席ということでビジネスのシートにアップグレードになった。年に2〜3回、日米間を往復するが、 そのうちだいたい1回はこの幸運にありついていると思う。8時間も飛んでいると、広いシートは ありがたい。しかしこれ、アップグレードされやすくする方法ってあるのだろうか。

多分、単独行であるほうが、グループで行くよりアップグレードされやすいというのは あるかもしれない。グループのうち一人だけ移すというわけには行かないだろうから。 Frequent Flyerに入っているのも関係あるのかもしれない。あと、チェックインは早い方が 良いのだろうか。ホノルルへの戻りのフライトでは、出発の3時間前にチェックインした同僚は ビジネスシートになって、2時間半前にチェックインした私はエコノミーであった。

なんか、どこそこのチケット屋で買うとアップグレードされやすいとか、チェックインの際に 尋ねてみることが出来るとかいう噂も聞く。今度帰るとき試してみようっと。

11/17(Wed) マインドコントロールの実際 (2)/明日から休暇

例のミイラ治療団体のマインドコントロール。 この話題は一回で打ち止めにしようと思って力入れて書いたのだが、 やっぱり書き足りないので補足する。 一昨日の日記も合わせて参照してほしい。 (なお、このトピックはあとで別ページに整理する予定)。

結構誤解されているように思うのだが、 マインドコントロールを構成する個々の技術には、何も特別なものは無い。 何か凄いことをされるというわけではない。どれも、 日常生活の中での駆け引き、議論、商談などでいくらでも使われている心理的なトリックだ。 (具体的には、「影響力の武器」誠信書房、等を参照されたい)。 従って、一つ一つの技術が心に与える影響はごく小さなものだし、見抜くのもたやすい。 「こんなんでひっかかるわけないじゃん」、そう思える程に。

それらの技術を、特定の方向に向かって継続して適用するところに、 マインドコントロールの本質があることは、見落とされがちである。

どんなに心理的技巧を駆使しようと、一回や二回のセミナーで、人に荒唐無稽な論理を 信じさせることはできない。 せいぜい壷を高価に売りつけることくらいはできるかもしれないが、それとて本人は後で おかしかったと気づくわけだ。 そのような一過性の効果では、ミイラを「生きている」と言い張る心理は説明できない。

少しだけ、本人の持っている価値観(ものの見方、スキーマ)を揺らす。 壊すのではなく、「そんな考えも あるのかあ」と匂わせるくらい。その揺れが戻らないうちに、そちらの考え方を 強化する方向でちょっとした経験をさせる。「ふーん、こういうこともあり得るかもね」。 好奇心をかきたてる。「もうちょっとやってみて、本当にこの考えが正しいか確かめてみようかな」。 時々、答えを得るためにコミットメントが必要な関門が設けてある (例えば高額のセミナーとか)。 「いや、別に全面的に信じてるわけじゃないんだが、その可能性を確かめるためにも 体験してみるしかないかな」。一回コミットしてしまうと、受ける前に感じた疑問は 忘れてしまう。「思ったほど変では無いな。半分は間違いだとしても、何か得るものが あるかもしれない。本当に間違いだと分かったらいつでも止められるし」。 そうやって、ごく僅かづつ、価値観をずらしてゆくのだ。

現実の社会に戻ってしばらくすれば、価値観のぶれは収まってゆく。 だが、マインドコントロールを行なう集団やそのメンバーに日常的に触れる機会があると、 価値観のぶれはなかなか戻されず、それどころかますます社会から離れて行く。 一回一回の価値観の揺らぎは誰もが日常的に経験することなので、本人は自分の価値観が 操作されていることに気づかない。あくまで、「自分は様々な可能性を考慮した上で、 こちらを選んでいるのだ」と思い込んでいる。

* * *

現在のミイラ治療団体のウェブページを見て、参加者は何故あんな支離滅裂な文章を 受け入れられるのか不思議に思われるだろう。最初からあの文章を見せて、人に信じさせる には、それこそ拘束して薬物を使うしか無いのではないか (これは「洗脳」と呼ばれ、 マインドコントロールとは区別される)。マインドコントロールとは、そういうものではない。

かの団体の主催者は、5年前までに3冊ばかり本を 出している。出版元はPHPやら読売新聞社だったと思うが、ごく普通の「生きがい本」だ。 5年前には彼の文章は、一般の出版社の編集が認識できる、普通の日本語だったのだ。

以降は想像だが、大筋で外していないと思う。ある日、彼はちょっと変な言葉を使い 始め、「これが正しいのだ」と言う。毎日のように彼の話を聞いている参加者は、 「変なの」と思いつつも、「まあこれまでの論理には納得して来たし、 もうちょっとつき合ってみるか」と思う。 しばらくして、変な言葉使いがさらに増え、論理もちょっとおかしいところが出て来る。 参加者は、「ますますおかしくなって来たなあ」と思いつつも、「本質的な主張は 変わってないから、表面的なことにこだわるのはよそう」などと自分を納得させる。 「サイババからのメッセージ」とか言い出すと、「またかよ、もうしょうがねえなあ、 ここまでついて来たんだから、とことん付き合うか」なんて思ったりする。 それを5年間続けると、ああなる。

* * *

マインドコントロール関連書の多くは、マインドコントロールの過程に 「既に持っている価値観(スキーマ)の解体」を挙げている。 何か強いショックや感動体験でもって、今持っている価値観を壊してしまい、 その上にカルトの価値観を構築する、と説明される。 だが、私の経験によれば、既存の価値観の解体と新しい価値観の導入はそんなに劇的に 行われるわけではない。むしろ、既存の価値観を温存したまま、新しい価値観を「もう一つの 可能性」として忍び込ませてゆく、という感じだ。同時に、既存の価値観を揺るがすような 軽いジャブを食わせておいて、基礎を緩めておく。そして、コミットメントが必要な場面で、 既存の価値観と、カルトの価値観のどちらかを本人に選ばせるのだ。 マインドコントロールがうまくいっていれば、本人はここでカルトの価値観を選ぶ。 本当は「選ばされた」のに、本人は自分から古い価値観を捨てたと思い込んでしまう。

* * *

自分の参加している団体がマインドコントロールを行なっているのではないか、 そう疑ったら、その団体から距離を置いてみる必要がある。 日常的に団体のメンバーと接触している限り、本人がマインドコントロールかどうかを 検証することはほとんど不可能だからだ。 本当にマインドコントロールされていたとしたら、一説によると、その効果が抜けるには 団体にかかわっていた期間と同じくらいの期間が必要だと言う。

メンバーに何と言われようが、少し時間をくれと言ってとにかくしばらく関係を完全に断とう (破壊的カルト関連書には、ここでカルトは猛烈に引き留め、脅迫も辞さないようなことを 書いている。そういう団体もあるかもしれないが、そうでない場合もある。「いいよ、2〜3日 ゆっくり考えな」などと気楽に送り出してくれたから、あの団体は破壊的カルトじゃないんだ、 と結論づけてはならない)。 そして、その団体に関わる前と後で、自分の考えがどのように変わったか、 自分はどのような選択をして来たかを冷静に振り返り、それを色々な立場の人に話して意見を聞く。 その団体の主張が特定の科学理論を参照している場合は、その道の専門家の人と話ができるとなお良い。 人と話さず、自分の中だけで処理しようとしてはだめだ。それでは、ずれた価値観が戻らない。

自分の心が操られていたことを認めるのは、かなり抵抗がある。 他に影響されず自分の人生を自分で決めて行動できる人は「強い人」であり、 他人に心理的に依存しなければ生きてゆけない人は「弱い人」である、という価値観は 広く受け入れられているからだ。 人をマインドコントロールの罠に捉えるのは、まさにその価値観なのに。


ところで、明日の午後からちょっと気の早い感謝祭の休暇を取る。繰り越していた有休を消化しないと、 これ以上貯められないのだ。そんなわけで、ここの更新はしばらくお休み。

しかし、これから準備をせねばならない。明日は早くに出社しなけりゃならないのに。 いつもこれだ。

11/16(Tue)

ハロウィーンが終わると、アメリカ人のマインドセットはすぐにクリスマスに切り替わるのだが、 うちのアパートメントのロビーの飾り付けが日に日に派手にやってゆくのが楽しい。 昨日はモミの木っぽい装飾で壁にふちどりがついたと思ったら、今日は電飾である。 例年だと、もうすぐ巨大なツリーが出現し、それにどんどん飾りが増えて行くはずだ。


先日、「もののけ姫」英語版で、ジゴ坊の声(Billy Bob Thornton) がうまくはまっていると書いたが、米国人の反応は「彼の南部アクセントと誇張した演技が、 中世日本の雰囲気に合わない」というものが多いようだ。うーん、そういうちょっと外した キャラクタでいいんじゃないかと思うんだがなあ。

もっとも、私は英語を聞いてどこのなまりかなんてほとんどわからないし、 分かったとしてもそれが喚起されるイメージまでは想像がつかないんだけど。


同僚がGeForceのカードを入れたんで見てみる。なるほどぅ。これはなかなか。

11/15(Mon) マインド・コントロールの実際

先週末あたりから日本で、ある集団が報道を賑わせている。 自らをグルと称する人物に率いられ、遺体を治療中と強弁し、 ウェブページにその「治療記録」を載せている集団だ。 その集団の中に、かつて私が最も親しかった友人の一人が居る。

数年前、その集団に参加しはじめた友人を理解しようとして、 私もその集団に飛び込み、断続的に関わりを持ち、 一時はマインドコントロール下にあった。 最終的に私は友人を諦め、その集団を離れた。今にしてふり返れば、それは 集団が閉鎖的/排他的なものへと変質する直前のことだったようだ。 以来4年以上、その友人とも集団ともコンタクトしていなかったのだが、先日 集団のウェブページを見つけ、異常な文章の中に友人の名を発見した。 マウスを持つ手が震えた。

今回の事件に対する一般の反応として、感情的なものを別にすると、 宗教や自己啓発セミナーというものに「すがる」心理を議論するものが多いようで、 マインドコントロールの問題にはあまり言及されていないようだし、誤解も多いようだ。 自分の経験から、いくつかの考えを書いてみたい。 なお、専門家によるドキュメントとしては、 「マインドコントロールとは何か」がわかりやすい。

●新宗教や自己啓発セミナーに「救い」を求めるということと、マインドコントロール の問題は別個に考えるべきである。

特定の集団が暴走すると、その集団に取り込まれる参加者の心の問題に理由が求められる ことが多い。それは確かに、きっかけのひとつであったかもしれない。しかし それだけを見ることは、マインドコントロールの危険性を軽視することになりかねない。

マインドコントロール自体は特定の宗教等とは独立した、普遍的な技術である。 「怪しげな宗教なんか関係無い」と思っていても、自分が属する社会集団、例えば 国家がその技法を悪用しようとしたら、そこから逃れるのはかなり難しい。 その例は歴史の中に見ることができる。

きっかけが何であろうと、その集団の中でマインドコントロールが行われていれば、 いつか暴走する可能性がある。マインドコントロール下であっても、暴走行為には 責任を取らねばならない。そうなる前に呪縛を解く必要がある。

●「強い心を持っていればかからない」ということは無い。 マインドコントロールは、誰もがはまり得る罠である。

マインドコントロールは、心の問題の有無にかかわらず、誰もがかかり得る。 マインドコントロールを、単に人を煙に巻いたりだましたりするようなものと 考えてはならない。それは、心そのものが本来持つメカニズムを利用する技術だ。 細胞自身が持つ複製のメカニズムが暴走することで癌が生じるようなものだ。 社会的生活を送ることが出来る人は誰しも、潜在的にマインドコントロールにかかり得る 可能性がある。身体を鍛えても癌が防げないのと同様に、いくら心を鍛えても コントロールされ得る。

人間の行動は、外部から与えられる事象と、自分の中に確立された価値の重み付けによって 決定されている。性格とか、信念とか、自己とかいうものはその重みづけのことだ。 重みづけのほとんどは、経験によって獲得されたものだ。行動とその結果によって、 人は重みづけを変化させ、新しい環境に適応してゆく。このメカニズムが無ければ、 成長は有り得ないし、未知の経験をした時に適応できずに心理的にダメージを受ける。

ここでもし、特定の方向に重みづけを促すよう、外部から与える事象を制御されたら。 しかも、それと気付かぬ程度に少しづつ。マインドコントロールの技法は、理屈よりも まず行動させ、その結果感じたことを内省的に分析させるものが多い。これは、この 重み付けのフィードバックループを加速させているのだ。そのこと自体は悪いことでは 無いが、そのフィードバックループが閉ざされた環境下で与える情報を制御しながら 行われた時、人の心は比較的容易に変化し得る。しかも、本人は自発的に変わったと いう意識しか持たない。

また、心には「一貫性のある行動を取る」という強い働きがある。 そのことを利用するマインドコントロールの技法もある。この場合は、 「強い意志を持っている人」のほうがかかりやすい。 マインドコントロールから逃れるには、自分の前言を翻す勇気も必要なのだ。

●マインドコントロール下にある人が、自力でそれに気付くのは非常に困難である。

私は今でこそ、自分がかつてマインドコントロール下にあったことを認められるが、 当時はそんなことは無いと信じていた。当時既に、マインドコントロールに関する文献 (ハッサンのとか、「影響力の武器」なんかのメジャーどころから、「洗脳体験」系の本、 また集団心理療法なんかの系統まで)を色々読み、理論武装していたのに、である。 ハッサンの本にあったカルトチェックなんかもやってたし、「影響力の武器」に 沿って分析してみたりもしていた。不思議なことに、マインドコントロールの 影響下にあると、本に書いてある例と自分の属する集団との差異ばかりに目がいって、 自分のところは違うと結論づけてしまうのだ。だから、はまっている人に、他の カルト集団の事例をいくら説いて聞かせても効果は無い。

マインドコントロール下の心理状態というのは、外から見れば非常に特殊で、 理解されにくいものだと思う。まず、論理的思考能力は失われない ←これホント。 常識だとか言葉の指す対象だとか、論理の前提となるそういったレベルでの基本的な 世界観が置き換わってしまうので、自分から見れば全てが整然と秩序立って見えるのだ。 だから、マインドコントロールの影響下にある人は、自分はごくあたりまえのことを 自然にしているだけで、何も特別なことはしていないのだ、と考える。 「マインドコントロール? ははは、冗談でしょ。あの教団とかこの教団とかの やっていることは知ってるけど、うちじゃそんなことはやって無いよ全然。 ま、世間から見るとちょっと変わってるかもしれないけど、自分には目的が あって、それを成し遂げるために好きでやってるだけだからね」と言うのが、 内部から見た状態である。

また、マインドコントロール下にあっても、自分がやっていることが一般常識 から見たら異常なことだろうな、ということは認識できる。のみならず、救出のために 説得された時、相手の言っている論理も理解できる。理解はできるのだが、 自分の世界観のほうにより価値を置いてしまっているため、行動を変えようとは思わないのだ。 ひとたびはまった人を救出するのが極めて困難なのは、こういう点にある。

世界観の歪みは、マインドコントロールの過程でごくわずかづつ導入される。 自己啓発セミナーに関する書籍などでは、セミナー中に「劇的な体験」をすることで 価値観を変えるような記述もあるが、実際のマインドコントロールの過程では、 そのような大きなショックというのはあまり導入されない。そういう体験は一時的 な効果は大きいが長続きしないのだ。マインドコントロールの本当の怖さは、 ごく普通の日常生活を送っているつもりなのに、いつの間にか世界観が歪んで行くという ところにある。

マインドコントロールを続ける集団は、 時間が経つにつれ、一般社会からの解離が明らかになってくるのだが、 上に述べた内省のフィードバックサイクルにはまっていると、なかなか気付かない。 一歩下がって検証すれば分かることなのに。 もっとも、ある程度以上に解離が進めば、もはや正常な社会生活を送ることは 難しくなるので、集団は閉鎖的、排他的になってゆく。

●マインドコントロールする側の悪意の有無は関係無い。

マインドコントロールする集団というと、何か非常な悪意を持って人々の心を 操るような印象を持たないだろうか。この思い込みも、落とし穴になり得る。 集団の内部にいて、それを率いる人々を良く知っていると、「彼らが悪意を持って そんなことをしているとは思えない」と思ってしまうからだ。

集団を率いる側が、悪意を巧妙に隠しているのかもしれなし、それとも自分達も本当に 掲げる理想を信じて自らが作り出した罠にはまっているのかもしれない。そのことは実は 問題では無い。人の心を操作しようとする意図の有無とは関係なく、 マインドコントロールは成立し得るのだ。

●マインドコントロールにかからないためには: とにかく逃げる。あとは、社会とのかかわりを広く、深く持つこと。

三十六計逃げるに如かず。この問題に 関しては、可能ならばそれが賢明な態度だ。たとえ卑怯に見えようとも、 尻をまくって逃げ出せ。正面から立ち向かおうと思ったその時点で、 既に術中にはまっているのだ。立ち向かわざるを得ないなら、搦手から攻めるしかない。 相手の土俵に乗ってはいけない。

それでも、巧妙な罠は存在する。その場合に救いとなるのは、 現実社会との接点だ。私が戻って来れたのはそのおかげだし、常に 社会との接点を確保しようとしてくれた家族、友人にはいくら感謝しても足りない。

上に書いたように、マインドコントロールには一度はまると、 まず自分一人で脱出するのは無理である。しかし、マインドコントロールを行う集団 以外の場所で人と多く接し議論する場があると、集団の方針を検証することができる。 内省のフィードバックサイクルとは別に、「この行為によって、社会にどのような 影響を実際与えたのか」を考えることができる。いくら理念が崇高でも、結果が出なければ 空論に過ぎない。そこに気づけるかどうかが運命の別れ道のように思える。

●マインドコントロールから救出するには:私も教えてほしい。

今なら、マインドコントロールは素人の手に負えるものでは無い と言える。専門家に相談し、対策を練るのが良いのだろう。決してあなどってはならない。 議論や説得でどうにかなる問題では無いし、 自分も受けてみようなんて絶対に考えない方が良い。

しかし、マインドコントロールによる世界観の置換がごくわずかづつ行われる 場合、初期の段階でそれを判断するのは難しい。マインドコントロールと同じ技法が、 役に立つ目的を持って使われることだって多い。技法の中には、例えば芝居の稽古と だぶるものも多くある。

ただ、もしもう一度、今ある知識を持って数年前に戻れるのなら。 私は友人がその集団に参加する最初の時点から、何が何でも止めただろう。 たとえ理性的で無いと言われようが。止めることによって信頼関係を損なおうが。 今となってはもうどうにもならないことではあるが。

11/13(Sat) Princess Mononoke/Bullet in the Head

ハワイ国際映画祭の「もののけ姫」先行特別上映のチケットを買い損ねて くやしい思いをしていたのだが、なんだ、今週末から一般公開されているではないか。 何だって全然宣伝してないのだ。 Kahalaのモールで5時からの回に行く。入場前に15人くらい列が出来てた。 劇場への入り具合は4割というところだろうか。 レーティングはPG-13で、子連れの家族もちらほら見かけた。 ちなみに隣の列は同じく今週末公開のポケモンで、そちらはものすごい人気である。

気になっていた英語版の完成度だが、非常に良く出来ていると言えるだろう。 日本語版を観た時と同じようにどっぷりと引き込まれて楽しめた。 翻訳は自然で、吹き替えもほとんど違和感が無い。 コーロクとトキの掛け合いや、ジゴ坊のセリフなんかは特に、英語でリズム良く流れる。 タタリ神が "demon"、シシ神が "the great forest spirit"、 デエダラボッチは "nightwalker" になっていたが、これらはこうでもしないと通じないだろう。 サンの声 (Clair Danes) はもうすこし幼い感じのほうが良かったかもしれない。

ほぼ2年ぶりに観ての感想。シシ神がやられてから後の展開が迷走気味に感じた。 以前はそんなに気にならなかったんだけど。もっとも、ナウシカ(コミックス版)から 進歩していないとかむしろ後退しているとか評されるラストに関しては、私は良いと思っている。 独立した作品として完結していないと言われればその通りだろうが、 宮崎駿は、とにかくあそこまでやった、ということだ。続きは、彼のメッセージを受け取った 人が創るのだ。


今日は映画のハシゴ。夜は、ハワイ国際映画祭でリバイバル上映された "Bullet in the head" (ディレクターズカット) を観に行く。 人によってはJohn Woo監督のベストと評する作品だ。 映画の9割が何かしらの銃撃戦で構成され、残りの1割は男の友情。 そういうのが好きな人にはいいかも。

1967年、香港。ギャンググループでいつもつるんでいる3人の若者Ben, Frank, Paul。 Benが結婚することになり、その費用を調達しようとしたFrankは途中で対立するギャンググループに 襲撃され大怪我をするが、それを隠して式に出席する。その夜、Frankの様子をいぶかったBenは 真相を聞き出し、相手ギャングの本拠地に殴り込みをかけて、勢い余って相手を殺してしまう。 と、West Side Storyばりの展開が、最初のほんの15分。 このあとBenの新婦を置いて3人は戦争さなかのベトナムへ高飛び。華僑の大親分をバラしたり ベトコンに捕虜になったりとそりゃあもういろいろな状況下でドンパチが繰り広げられる。

アクション、戦争、信頼と裏切り、いろんな要素が詰め込まれているが、ちょっと詰め込み 過ぎたように感じた。私はもちっとドラマが観たかった。 特にタイトルになっている "Bullet in the head" のひきおこした悲劇と葛藤の部分、 そこだけでも十分に良いドラマが見せられたんじゃないかなあ。 第一、Benはあれだけ戦場の不条理性を眼のあたりにして、何を学んだのだ?

ただし、監督と役者の熱い心意気は買える。例えそれが感傷的に流れすぎていたとしても。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 5の暗譜はOK。9と14も覚えようとしているがなかなか。

11/12(Fri) The Insider

またもやすごい映画を観せてもらった。"The Insider"。 人間の内面のドラマのみで2時間半、文字通り手に汗握る経験をさせてくれる。 予告編を見たときは、正直言ってテンションが高くてくどいんじゃないかと思ってたのだが、 ごめんなさいと謝らなければならん。 作られたドラマではなく「もしその状況にそのキャラクターが置かれたらどうするか」 から出発した、内面からあふれてくる演技。 派手さは無いが、ものすごくリアル。その場の空気を観客が共有するのだ。

物語は実際にあった事件に基づいている。あるタバコ会社の技術部門副社長まで勤めた研究者Dr. Wigand (Russell Crowe)がクビになった。彼は科学者として、タバコ会社がニコチンの中毒性を認識しそれを 利用していること、しかし公式にはそれを否定し続けていることのギャップに悩んでいた。 CBSのドキュメンタリー "60minutes" の敏腕プロデューサーLowell (Al Pacino) が、 彼の番組で証言しないかと出演交渉をしてくる。もしインタビューに答えれば、Wigandは 会社と交わした機密保持契約を破ることになり、それはまた、家族と自分の生活を危険に晒すことを 意味していた…

前半、カメラがちょっと気取っていてうるさいと感じたが、そんなことを吹き飛ばしてしまうのが Russell Croweの演技。彼が追い詰められて行く過程は物語としてはほとんど語られないのに、 表情のアップ、目のアップによって彼という人間のリアルな葛藤、苦悩がスクリーンに切り取られてくる。 対するAl Pacinoも、太い存在感を見せる。優れた演技と演出の前には、一切の説明は必要無いのだ。 型にはまった演技は決して持ち得ない、真実の力にひたすら圧倒される。

そして、映画ならではの技法によるリアリティ。例えば、ミシシッピー州がタバコ会社に 対して起こした訴訟に関して証言しようかしまいかWigandが最後まで迷うシーン。 法廷の中の緊張したざわめきと、海辺にたたずみ考え込むWigandのカットバック。 前者の閉ざされた空気と、後者の開かれた空気。真実を貫くには、人はしばしば後者を捨てて 前者の中に自ら飛び込まねばならない。その空気を、肌で感じることができる。 海辺と室内の対比は映画後半にも出てくる。その海辺の暗さ---一見自由な海辺には 空虚さしか無いことが痛いほど伝わってくる。時には、自由になるために、極めて多くのものを 犠牲にしても虎の穴へ入ってゆかねばならないのか。

まあ、巨悪を相手にしてるときに自宅の普通電話を使ったらいかんだろ(盗聴の可能性は 常に考えないと)、とか細かいところはちょっと気になったけど、それは本質ではあるまい。 "Storm of the Century" 以来ファンになったColm Fioreもいい味を出していた。 とにかく、ドラマが見たい人には是非おすすめだ。

11/11(Thu)

本日はVeterans' Dayでお休み。ゆっくり起き出して、何をするかといえば ピアノひいたりプログラム書いたり。3時頃、空腹に耐えがたくなりWard centerの バーガーショップKu'a ainaへ。夜はパスタを茹でてスパゲッティペペロンチーノに 挑戦するが、辛くしすぎて味がわからん。と、今日は身辺雑記風。

蝸牛的ピアノ日誌:Chopin Etude Op12-1, 25-12。

11/10(Wed) サービスの料金

国際電話の値下げ競争にはすさまじいものがある。確か、私がハワイに来て最初に 契約したSprintは当時日本まで25¢/分であった。そのあとGTEの22¢/分に乗り換えたのだが、 程無く19¢/分になり、今日はそれが13¢/分になるという通知が入っていた。 探せば9¢/分くらいの業者もあるらしい。 日本で東京から大阪にかけるよりも安いのではないか? もっとも最近はNTTも競争相手が 出来て下げているのかもしれないが。

もうひとつヘンなのは、こちらから日本の携帯にかけても同じ値段なんだそうな ---日本で携帯同士で話すより安いんではなかろうか。 消費者として安いのは歓迎だが、無理して値下げしてサービスが悪くなったりしないんだろうか と心配してみたり。必要なのは限りなく安くなることではなく、価格に見合ったサービスが提供 されることなのだから。

独占による価格コントロールは論外として、消費者が求めるのは 適正な競争のもとでの、価格に応じたサービスの選択肢だろう。 例えば、今私がダイアルアップに使っているプロバイダは、 料金は相場より若干高いが、ほとんどbusyにならないので満足している。 月5ドル節約するより、思い立った時に確実につなげることの方が私にとっては大事だからだ。

アメリカのコスト意識に関してわりと有名なジョークがある。 確か、具合が悪くなったので医者をしている友人に相談してアドバイスをもらったら、 料金を請求された。そんなんありかとおもって弁護士をしている友人に相談したら、 後日そちらからも請求書が送られて来た、とかいう話。 友人同士なのになんて世知辛い、という文脈で紹介されることもあるが、 私にはこの話、当然のことのように思える。

友人だろうが何だろうが、してもらったことに見合うコストは払うべきなのだ。 ただし、コストと言うのはお金そのものとは限らない。自分の時間を割く場合もあれば、 モノであってもよい。むしろ友人同士なら、自分が成功するなり幸せになることこそが 恩に報いる方法だという考え方もできる。自分がかつてしてもらったことを、 今それを必要としている他の人に提供するって支払い方もできる。

料金とはそのような無形なコストを特定の方法で形にしたものだ。 料金が安いのは、その分のコストを目に見えない形で支払っているからかもしれないのだ。


蝸牛的ピアノ日誌:ホッケーでシュートを手に受けて、親指が腫れてうまく弾けない。 Alkan Esquisses 5をちょっと。詰めが甘い。

11/9(Tue) ビジョンを語るのは楽しいが/The Lottery

今日も日がないちにちミーティング。そんなにストレスフルでないのは、 明るい未来を想定した前向きな話だからかな。夢も多少折込んで。 この段階での話というのは楽しい。実に楽しい。もちろんここで盛り上がって 勢いをつけるという効用はある。しかし、あんまり浮かれすぎると、実装の段階での 数々の妥協、どちらを選ぶかという議論、に疲れてしまう。

地に足をつけたまま、頭を雲の上に出して空を眺めることが必要なのだろう。 方法はふたつある。巨人になるか、あらかじめ高い山に登っておくか。 そして常人の取り得る方法は後者のみであろう。


しばらく前から準備していた Schemeのページ をぼちぼちアナウンスすることにする。 今はまだ、公開できそうなSTkの拡張モジュールを置いておくだけだが、 将来はいろんな洗脳ドキュメントも用意して、Scheme言語布教の総本山とするのだはっはっは。 ライブラリさえ揃えば、SchemeもPerlに遜色無い使い勝手になると思うんだよな。


メモ。Shirley Jacksonのホラー短篇 "The Lottery" は、 旧約聖書ヨシュア紀7章の「アカンの罪」の話に関連している?

11/8(Mon)

某S社のエンジニアさんたちとミーティング+会食。むむむ、同じようなニオイがするぞ。 エンジニヤのニオイ←クサいわけではなく、物のとらえ方の感覚とか。 それにしても、他よりも一歩先のものを考え作ろうとするセンスは見習いたい。 今あるものからの発想ではなく、これから有り得るものをベースにして発想するセンスだ。

11/7(Sun)

蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Etude Op39-2, Esquisses 2, 5。 久々にChopin Op10-1, Op25-12…疲れた。この二つはさっぱりスピードが 上がらないのだが、こんな練習量では限界があるのだろう。他にOp10-3。

11/6(Sat) もうひとつの反トラスト訴訟/Being John Malkovich

Kahalaにある公園で、夕方から暗くなるまでホッケー。その後そのまま公園で、ビールなど飲みつつ だらだらと。なんて気持がいいんだろう。


マイクロソフトの反トラスト法訴訟はクロということになりそうな流れだが、 こちらハワイでは別の反トラスト訴訟が始まっている。

ハワイには日刊の地元紙として、Honolulu AdvertiserとHonolulu Star-Bulletinの 2紙がある。このうち、一世紀以上の歴史を持つStar-Bulletinが、 経営不振を理由に 10月末で廃刊になることが突然発表されたのは9月の半ばのこと。 これに対し、州政府は 反トラスト法違反の疑いありとして連邦裁判所に提訴したのだ。

実際の訴訟はこれからだが、仮執行 (preliminary injunction) として10月いっぱいでの 廃刊は撤回されることとなった。普通仮執行というと、出荷を差し止めるなんてことが多いと 思うのだが、逆に出荷し続けることを仮執行するというのはちょっとおもしろい。

反トラスト法にひっかかりそうなのは、AdvertiserのオーナーがStar-Bulletinの オーナーに、Star-Bulletinの廃刊と引き替えに資金援助をしたことだそうな。 州の主張は、Star-Bulletinのオーナーは一方的に廃刊を決める前に売却先を探すべきで あった、ということらしい。

政府がどこまで自由な経済活動に介入すべきかということはよくわからないが、 こういう形を取ってまで多様性を保持しようとする姿勢ってのはある意味すごい。


いやー、良いものを観せてもらった。映画 "Being John Malkovich"。 イマジネーションあふれる脚本を、絶妙のスタッフワークと役者の演技で 極めて高い完成度で仕上げた作品。観終ったあと、思わず映画のワンシーンを 思い出してニヤリとしてしまったり、バスルームに行った時に真剣に鏡を 覗き込んでしまったり、本棚の裏側が気になってしまうこと請け合いだ。

Craigは売れないあやつり人形師。誰も彼のスキルと芸術を認めてくれないのに 嫌気がさして、求人情報誌を見て応募したのはニューヨークのオフィスビルの 7と1/2階にある会社。そこでファイル整理の仕事をしていたある日、 ひょんなことからファイルキャビネットの裏側に、60cm程の小さな扉があるのを見つける。 扉の奥の暗い通路を潜って行くと、そこは何と…

すべてが超現実的で、しかし力づくで観客を引き込んでしまう 説得力。張り巡らされた象徴と暗喩。 次にどうなるのか気になって仕方がない展開 (ラストは途中で有る程度 読めるんだけど、それでも続きがみたい)。全力でつっ走る演技陣。 挿入されるパペットショーや、その人形も非常に良く出来ている。 そして何と言ってもMalkovich。これは彼でなければならなかった。 ♪マルコビッチ、マルコビッチ、マルコビーッチ (←観ればわかる)。

自分的に、今年のイチ押し映画に決定。とりあえずまた観に行こう。

11/5(Fri) The Bone Collector

痛恨。ハワイ国際映画祭で米国先行上映される「もののけ姫」のチケット、今日チェックしたら 全上映分完売だそうな。上映予定が増えるかもしれないとのことなので、それに賭けるしかない。

本日の映画 "The Bone Collector"。犯罪捜査に天才的な勘を持つ刑事 Lincoln (Denzel Washington) は捜査中の事故でほぼ全身麻痺になる。そこに発生する連続殺人事件。 現場に残された犯人からの挑戦を見つけた美人警官Amelia (Angelina Jolie)を目と足にして、 Lincolnは犯人に迫って行く、というYet another serial killer thriller movie。

ハリウッド的お約束展開がてんこもり。一応テンションは高いので、途中「おいおい、 そんなわけねーだろ」と突っ込みながらも最後まで見られる。

11/4(Thu) 同業者との結婚

同業者との結婚(11/2) っていうのは、自分の場合、ちょっときついんじゃないかという 気がする。

友人に聞いた話。友人の友人は、男性のほうが企業勤務の研究者、女性の方が修士の学生 というカップルだったのだが、彼女の方が修論も大詰めの頃に彼氏に論文を見てもらったところ、 「君のは研究になってない」と評されてかなりがっくりきたんだそうな。 その話をしてくれた友人の主張は、「そんなふうに言うなんてひどいよね」ということだったのだが、 言い方はともかくとして、自分なら相手の研究の手法なり論旨がおかしいと思ったら 黙っていることは出来ないだろうなと思う。 お互いのレベル及び成長の速度が同じで、peer to peerとして議論が出来れば良いんだが、 実力差がありすぎると難しいことになるのではなかろうか。

一人で先に行くより二人でゆっくり進む方が良い、という考え方も有りだと思うが、 それはつまり、自分の道(研究なり芸術なり職人なり)関して妥協するということになる。 もっとも、うまくいってるカップルも居るので、 必要なのは正しい相手を見付けることかもしれない。

今の私の相手はおよそ私のやっていることとは縁もゆかりも無い職業で、 私と思考パターンもかなり違う。だからこそ違う視点を提供してくれて学ぶことが多い。 そもそも、コンピュータのことなんて何も知らないし興味も無い、という人の生活を シアワセにすることが私のやりたいことなんで、今の相手は良い被験者であったりもする。

二人の間に必要なのは、やっていることへの理解よりも尊敬だという気がする。 自分が価値を見出していることを 相手がしているから良い、のではなくて、たとえ自分には完全に理解出来なくても 相手がそれに懸けているからこそそれに価値があるとする。 まあ、行きすぎると恋は盲目ってことになってしまうかな。 だとすると程度問題ってことなのかな。

* * *

カール・セーガンの「コンタクト」(小説の方)に、主人公エリーに母から宛てた手紙 というのが出てくる。初めて読んだ時、この手紙の中の一節でぶわっと感動してしまった。 後に天才天文学者となるエリーは、子供の頃からその片鱗を覗かせていた。 母親には、エリーが考えていることは理解できない。しかしその一節には、 理解するしないを越えた、無条件の受容があふれていたから。

I look out the window right now and I see you in the backyard. You're sitting there thinking about starts and things that I never could understand and I'm so proud of you.

11/3(Wed) 事故

人生何が起こるかわからないので、自分に災難が降り掛かって来ることに対しては 気持の準備が出来ているつもりでいる。が、自分以外の人が負傷する事故の当事者になった場合、 気持の落ち着けどころに困る。

事故は、朝のホッケーのミニゲームで起きた。 相手フォワードのJが左サイドのディフェンスラインを突破した時、 私は逆ウィングの相手ゴール側にいた。 Jがすばらしい速さのスケーティングで向かって行く先には、キーパーのTまでディフェンスはいない。 止めるために全力で追いかけた。一瞬、そのままJをボード側に押し出せるかと思った時、 Jがセンターに入って来た。

ゴールに向かっていた私の右前方にはキーパーのT、左からJ。 どちらに避けるか一瞬迷ったのを覚えている。その迷いによって、避ける機会を失った。

Tと接触してゴールへ向かって倒れ込んだ。 倒れた瞬間、背中の下にTの感触があった。私はそのまま一回転して、無傷。 振り返ると、Tが顔を歪めて倒れていた。

最初に思ったのは、胸を打って息が出来ないんじゃないかということだった。 それから、Tが左肩を押えているのに気づいた。左手は投げ出されて小刻みに痙攣していた。 指を動かせるか尋ねた。Tは頷いたが、指はまだ痙攣していた。 その状態がどのくらい続いたのかは覚えていないが、なんだか全てが芝居の中の出来事のような、 非現実的な感覚がした。

程なくTは呼吸を取り戻し、指も動くことを確認したが、肩の痛みが激しく腕を動かすことが できなかった。ありあわせのジャージで腕を吊って、以前私が顎を切った時にもお世話になった Queen's Medical CenterのERへ車で運んだ。途中Tさん宅に寄って、奥さんに着替えと 保険証(こちらのは小さなカードだが) を持って来てもらった。

診断は、鎖骨2箇所骨折、全治6週間。レントゲンには鎖骨が見事にZ字型に折れているのが写っていた。 ERでは本当に応急処置しかしてくれない。ギプスではなくて、細いバンドをタスキがけのようにして 仮固定。本当の治療は、改めてbone doctor (接骨医、になるのかな) にアポイントを取って 受けることになる。

スポーツにこの手の事故はつきものだ、気に病むことは無い、とみんな言う。 それは分かっているのだけれど、衝突の前のコンマ何秒かの迷いの記憶は苦い後味を残した。


昨日のshootingの続報。 兄弟でも他人、ってことか。

11/2(Tue) ハワイもやっぱりアメリカだ

The worst mass murder in Hawaii state history。 今朝8時頃、会社から車で5分程のところにあるXeroxのオフィスで、男が短銃で 元同僚7人を射殺し逃走するという騒ぎがあった。一時、会社のすぐ前の道路も封鎖 するなどものものしかったらしいのだが、私はその時間はまだベッドでうとうと していたのだった。出社する頃には男は山のほうで包囲されていた。 「犯人、車で逃走」のニュースに、同僚のemail: 「この狭い島のどこへ逃げようってんだ?」、 結局、昼すぎには逮捕されたようだ。辞めさせられた腹いせという話だが、 "They fired him, so he fired at them" ということだろうか。

不謹慎だが「これが大ニュースになるんだからハワイって平和だねえ」などと同僚と話していた。 ロスでは発砲事件だの逃走した犯人と警察のカーチェイスだのってのはかなり 頻繁にあったのを覚えている。やっぱ米国はどっかおかしい。 銃規制で問題が解決するとは思わないが、 こんなふうに切れた犯人にいきなり撃たれるなんて場合を考えると、 護身用としての銃の有効性は疑問だなあ。

Webでチェックした日本の報道では、犯人が「日系人」であることがことさらに述べられていた。 被害者も名前からして過半数が日系のようだ。しかし、ハワイでは人口構成比で日系人が 一番多いわけで、確率的に珍しいというわけでもない。 それに、アメリカ市民権を持っていればアメリカ人だし、 三世、四世になれば日本語より英語が得意な人が多いだろう。 「日系人」という分類にどれだけ意味があるのだろうか。 そんなところで「血のつながり」に言及されても、言及された当人は戸惑うばかりなんじゃないかと 思うんだが。

11/1(Mon) キングのインタビュー

スティーブン・キングが、自動車事故で重傷を負ってから初めてTVのインタビューに 出演するというので、いつもより早起きしてNBCの"Today"を見て、さらにいつもより 早く帰って来て同じくNBCの"Dateline"を見た。 痩せていてびっくり。さらに、10歳くらい老け込んだように見える。 インタビューの内容はキングの ページに簡単にまとめておいた。

瀕死の重傷を負わされ、しかもはねたドライバーはこれまでに何度も交通違反を重ねていた。 8回に及ぶ手術ときついリハビリ。しかし再び歩けるようになるかどうかもわからない。 それでも、キングはドライバーを恨んではいないと言う。そんなことは問題では無いのだと。

キングの小説では、登場人物に突然不条理な災難が降り掛かることが多い。 悪者が最後に滅びるとは限らないし、良い人があっけなく死んだりする。 残された人々はそんな不条理な現実を、なんとか乗り越えてゆこうとする。 今のキング本人の穏やかさは、まるで彼の小説中の、困難を乗り越えた後の登場人物のようであった。 またそれが彼には似合っているようで。

「書けなくなるかも?」という質問に、「それ(書けるか書けないかということ)は大事なことじゃない」 と答えられてしまうとファンとしては寂しい限りなのだが、彼の生き方にとやかく言えるわけでもない。 それにしても、生と死の境界をまたぎかけた一瞬に、 「もしこれで終りだとしても、いい人生だった」と思えるような生き方はぜひしたいものだ。 (なおこのキングのセリフ、彼のある作品のラストを彷彿とさせる。やはり登場人物は 作家の一部なのであろうか。)


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Etude Op39-1。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net