1999年10月

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10/31(Sun) 平均律

日本からの友人がワイキキに滞在していたので、 私にしては珍しく午前中に起き出して一緒にブランチ。 休日に早く起きると一日が長くて良いなあ。 と思ってたら、昼寝をしてしまい元の黙阿弥。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Etude Op39-2, Esquisses 2, 5。

デジピで、オクターブの和音を連続して弾くときなんかに、余った中指がパネル (音色切替えだとか、メトロノーム機能だとか) に当たってしまうことがある。 フォームが悪いからかもしれない。 特に難所でそういうことが起こる。いきなり音色が変わったり メトロノームが鳴り出したりするので、壊したんじゃないかと焦る。

他の人はどうだか知らないのだが、私は感覚器の感度というのが日によってかなり 変わる。聴覚も例外ではないようで、たまにひどく敏感になることがある。 そんな日は、平均律のドミソの主和音がひどくグロテスクに聞こえて、 やっぱりデジピを壊しちゃったんじゃないかと焦る。

(ピアノというのはほぼ平均律で調律してある。 平均律というのは、いろんな調性の和音を限られた数の鍵盤で演奏できるように 誤差を分散させた調律法なので、ドミソの主和音は完全にはハモらない。 ある調で完全にハモるように調律すると、転調した時にガタガタになってしまうからだ。 合唱や弦楽器など、普段から純正律でやっている人は敏感なのだろうけど、 ほぼピアノのみでやってきた自分は、普段は平均律のこの歪みというのが全く 気にならなかったのだ。)

どういうわけか、小学校の時からピアノをやっているにもかかわらず、 平均律の3度が気になるようになったのはここ数年のことだ。 こういうのは、一度気付いてしまうとだめなものなのかもしれない。

10/29(Fri)

街はハロウィーンで浮かれてるけど、今年は仮装の準備を全然していない。 衣装を用意しても、ハロウィーンが週末と重なっていると、会社に着て行けないからなあ。


実家から妹の作品の載った雑誌が届く。今回は力が抜けてて良い感じだ。

はせぴぃさんが、 「プロ野球の選手がプレッシャーを感じたくらいで萎縮してもらっては困る」 と書いておられた。確かに、プレッシャーをはねのけて結果を出せることというのは どんな職種であれプロに要求される資質の一つだろう。 だが、そう期待されているが故に、プレッシャーそのものはアマチュアよりも遥かに大きい。 コンスタントに結果を出して、プロとして周囲の認識を得れば得る程、失敗も許されなくなる。 山に登れば登る程、道が険しくなり、一歩間違えば命にかかわる難所になってくるのと同じだ。

その危うさを自覚していることが、プロ意識というものだろう。 そんなふうに思っているので、私はプロ意識を持っている人というのは何であれ尊敬してしまう。

もっとも、プロ意識を持たなけりゃ駄目だ、ってことは無いと思う。 人生にはいろんな楽しみ方があるんだろうし。 ただ、遥か高みにそびえる山に登ってみたいのならば、それなりのリスクがついてくる。 登りたいのなら、その覚悟は必要だ。

10/27(Wed)

アクセスログに、一週間に一回くらい、会社からのアクセスが記録されていて、 かねてから誰だろうと思っていたのが昨日判明。 君だったのか。どうりで朝3時とかにアクセスしてくるわけだ。

まめに日記を更新しているのは、まとまった日本語を書く機会がここしか無いから、 という理由もある。日本にいた時は考えられなかったけど、簡単な表現でも国語辞典に頼る ことが格段に増えている。


蝸牛的ピアノ日誌:最近再びAlkan Op39-1の最初の方をさらいはじめた。 指使いをちょっと工夫して多少楽になった。それでも指定の速度の半分くらいで てれてれ弾いている。

10/25(Mon)

同僚と夕食に行って、デジタルコンテンツの未来像を実現するための技術的戦略 (ああなんて回りくどい言い方だ)について、口角泡を飛ばす議論になってしまった。 ゴールに関しては認識が一致していると思うのだが、 そこに至るパスに関して意見の相違がある。 そのゴールの実現は下手すると10年以上先の話になるので、 現在どの戦略を取るかは大きな問題なのだ。

とりあえず、現状の認識への違いがだんだん明らかになってきたので、 今後、プロジェクトの他の人も巻き込んで、認識のすり合わせとゴールの明確化を 行う必要がありそうだ。

そもそも我々はデジタルコンテンツに何を求めているのかって話はまたいろいろ 興味深いのだが、長くなりそうなのでまた日を改めて記すことにする。


昨日の日記に関連して、 Santa Rosaがりゅう日記 (10/25) さんが「『実在するものに名前をつける』という方がしっくり来る」と 述べておられた。

私も、現象そのものは人間が名前を付けた途端に魔法のように現われる わけではなく、人間が発見する以前からそこにあったのだろうとは思う。 純粋な観念論を取っているわけではない。ややこしいのは、人が「何か」について考え始めた途端、 それは何らかのシンボル---例えば「何か」という名が与えられたもの---として意識の中に形を取って しまうことだ。実在はするがシンボライズされていないものについていかなる考察も 言及も出来ない以上、どちらが先かという議論もできない。 (ここでは、実在はするがシンボライズされていないものに「実在はするがシンボライズされていない もの」という名前を付けてしまっているので、それは既にシンボライズされてしまっている。 ああややこしい。←このへんの議論、既に哲学で体系立てて議論されていると思うのだが、 勉強不足でよく知らない。ご存知の方、参考文献など教えて頂けると幸いです)。

10/24(Sun) 名付けたものが、実在する (2):説明を求めるココロ

昨日の日記を読んでも、抽象的な説明に終始して、 結局電流とは何か、電子とは何かわからないじゃないか、という声が聞こえて来そうな。 電流については、荷電粒子の運動ってことで勘弁してもらえるかもしれないが、 じゃあ電子とは何なのかとか、何で電荷には+と−があるのかとか、世の中には−の電子ばっかりで +の電子がほとんど無いのは何故とか、そういう話になるとお手上げだ。 物理学をやっている人ならもう少し詳しく説明できるかもしれない。 ただ、一つ言い訳しておくと、根源的な答えを人類はまだ手にしていないと思う。

理科の教科書は、これはこういう理由です、あれはああいう理由ですと何でも 説明されているように書かれていて、それに納得できないと何だか自分が悪いような気 さえしてくる。ところが、その説明を頭から信じていると、さらに進んだ勉強をしたとき、 「実はあの説明は正確ではなかったのだ」と聞かされてわけがわからなくなるのだ。

人類の知には限界が有り、わからないことがまだたくさんあるのだということは、 科学教育の早い段階で教えておくのが良いんじゃないかと思う。 そのほうがずっと夢が広がる。

* * *

北欧神話では世界が巨大な樹に例えられているそうだが、これは示唆的である。 我々は樹の幹に住んでいる小動物みたいなもので、ある範囲内で自分の上方と下方に何があるかを 知っているけれど、遥か上の葉っぱの先、もしくは遥か下の根の先がどうなっているかは よくわからない。 ミクロからマクロへと連なる鎖のほんの一部分を認識するだけで、 我々に取ってはオオゴトなのだ。

モノを認識するために、我々はそれに名前を与え、性質を定義する。性質は、 他の認識されたモノとの関連性に置いて定義される。 あらゆる知はそれに関連付けられた知のネットワークによって定義されるが、 その巨大な蜘蛛の巣の端が確かにどこかにつながっているのかどうかは誰にもわからない。 根の先まで見通せない我々にとって、あらゆる実在物の定義は、 突き詰めて行くとトートロジーにしか成り得ない。 我々に出来ることは、そのネットワークを少し離れたところから眺めて、無理の無い形であるか を議論することである。科学はそのネットワークの一部を体系化し、他人と共有できるように するためのプロトコルだ。

主観的な世界とは、ほとんどこの知のネットワークと同義である。 この蜘蛛の巣にかからないものとは我々にとって、全く認識されないものか、 もしくは得体の知れない理解不能なものだ。得体の知れないものが 知の蜘蛛の巣を揺らす時、巣の主たる人間は非常な不安に襲われる。それは、これまで 築きあげてきた巣を根こそぎ壊してしまうものかもしれない。 不安を解消するために、人はその何かに名前を与え、何が何でも知のネットワークに取り込もうとする。

* * *

神話や伝承に、「名を呼ぶことをタブーとされている悪霊、悪魔」が語られることがある。 何故名を呼んではならないのか。それは、名を呼び性質を議論することによって、 そのものに実在を与えてしまうことを怖れたからではないだろうか。

William Goldingの「蝿の王」の中で、無人島に閉じ込められた子供達が 「蛇」「獣」の影におびえる描写がある。実体の無い不安や恐れと言ったものが、 名前を与えられることで独り歩きを始め、ついに子供達の行動さえコントロールするように なる。その描写は、現実の社会を鏡で写しているかのように生々しい。

悪魔の実在も神の実在も、観念によって作られるが、それらを只の妄想と かたづけることは出来ない。「敵国」という抽象概念が実在したからこそ、 世界中で人々が傷つけ合って来たのだ。 名付け得ぬ不安を知の蜘蛛の巣に取り込もうとする圧力は、しばしば理性を狂わせる程に強い。

科学を知り、芸術に触れる意味は、知の蜘蛛の巣の構築作業を意識的に行えるようにする ことなんだろう。見境無く事象を取り込んで無秩序なネットワークを作りあげることに 待ったをかけて、なるべく皆と共有できる形に整理してゆけるようにすること。 その作業を怠ると、また悲劇を繰り返すしかない。

10/23(Sat) 名付けたものが、実在する。

はせぴぃさんのところで、電流とは何ぞや? という話が 出ていた。私も家庭教師をしてたときに、水の流れに例えた絵を一所懸命書いて 説明したなあ。中でも、何で電流は+極から-極に流れるのに、電子は-極から+極に流れるの、 って質問は手強い。

* * *

まず、「電流とは、電子の流れのことである」とか、「電流はそもそも存在しない、 電子の流れを便宜上そう呼んでいるにすぎない」とかいう説明は忘れよう。混乱のもとだし、 不正確でさえある。電流はちゃんと実在し、抵抗を通れば熱を出し、 磁場を通れば力を生ずるものである。 電流・電圧・抵抗・熱の関係や、電流・磁場・力の関係は、それらが何であれ 定量的に成り立つ。従って、誰がいつどこでやっても電流の存在を確認する方法と いうのが構成できるし、(モデルが適用出来る範囲内で)計算通りに回路を組めば、 計算通りに動く。

では電流と電子の関係は。電流は、電子の移動によって生じる現象である(*)。 両者の関係は厳密に定められるが、異なる概念と考えたほうが良い。 気圧が空気分子の運動によって生じる現象であり、 水面の波が水の楕円運動によって生じる現象であるのと同じようなもの。 「水面の波は存在しない、水の楕円運動の伝搬を便宜上そう呼んでいるだけだ」という 説明は普通されないでしょ。

(*)正確には、荷電粒子が動くことによって電流が生じる。 プラスの電荷を帯びた粒子(原子核なり、陽電子なり)が動けば、電流は同じ方向に 流れる。

オームの法則を理解するには、電流という現象と、電子の運動という説明を分離して、 前者も実在するものと捉えることが重要だ。人間は、実在感の無いものに対して 考えを巡らせることができない。自作の回路で抵抗値を読み間違えて、電源を繋いだ途端に 煙を出してしまい、そこに流れた「何か」を実感した時、オームの法則は公式を越えた、 世界を解読する鍵となる。

電子による説明は、電流を実在するものとして感じることが出来た後になされるべき だと思う。それは現象に対する説明を与えるが、現象自体が存在しなくなってしまう わけではない。オームの法則で説明がつく場面では、実在感を得た「電流」をそのまま 使えば良く、それで説明がつけられない時に下位の概念にスイッチするのだ。 例えば、12Aまで流せる延長コードに1000Wの電気ストーブと600Wのコタツを繋げられるか とうかを考える時に、電子の流れをいちいち考える必要は無い (電子にこだわりすぎると、交流になったところでわけがわからなくなる)。

電流の向きと電子の向きが逆になってしまったのは確かに混乱のもとなんだが、 だからなおさら、両者を別にして実在感を与えることが必要なんだと思う。 電流が実在している人にとっては、たぶん「電子はマイナスの電荷を持ってるから、 電子が走る向きと逆に電流が流れる」という説明が一番わかりやすいと思う。 歴史的には、電流の向きが逆だとわかったから電子にマイナスの電荷を与えることにしたのだけれど。

* * *

正孔(ホール) という概念がある。電子が無い場所のことだ。ほとんど電子で満たされた 場所に穴があると、隣(+側)の電子がそこを埋めるように動く。電子が動いた後には穴が出来る。 見方を変えると、穴が-側から+側に動いて行っているように見える。

正孔の概念は現在の電子機器の基礎となっている半導体を考えるときに 無くてはならないものだ。半導体を構成するときに、 電子が普通の状態より余分になっているものと、普通の状態に足りないものとを作ってやる。 前者では余分な電子が動き回って情報を運ぶ。後者では電子の足りない場所=ホールが 動き回って情報を運ぶ。余分な電子とホールが出会うと、空いた穴に電子がすっぽりはまる= 両者が消滅する。ただの巧みな言い替えのようだけど、ホールに実在感を持たないと 半導体工学の講義がわけわからなくなる。

ドーナツの穴が実在すると思えれば、正孔が実在するという事実も受け入れられるだろう。

* * *

何十メートルもある電線のペアを用意して、片方に乾電池をつなぎ、もう片方に豆電球をつなぐ。 つないだ途端に豆電球は点灯する。つまり、電気信号は導体の中を高速で伝わる。 銅だと真空中の光速の2/3、つまり秒速20万キロメートルくらい出るんじゃなかったかな。

だから、電子がその速度で動くものだと思ってしまう人も多いようだ。 現実には、電子の移動速度はそれより何桁も小さい (毎秒数センチメートルとかそんな オーダーじゃなかったかな。忘れちゃったけど)。伝わっているのは電場、電子を移動させようと する力である。

すし詰めになった満員電車を考えて欲しい。端の人をぐっと押すと、その人は隣の人を押して、 隣の人はまたその隣の人を押して…という具合にして、程無くもう一方の端の人がきゅうと つぶされる。これが電気信号が伝わったということ。それぞれの人はほとんど動いていなくても、 信号は高速に伝わる。

正確には、電場は媒体が無くても伝わる。つまり、がらがらの 電車でも同じことが起きる。電磁波の正体がそれである。

さて、電気信号は実在するか。それとも便宜上、電場の変化が伝搬することを そう呼んでいるだけだろうか。しかし電場の変化とは、電子が動くことによって 作られているにすぎない。では伝わっているものは何なのだろう。

* * *

「電流は存在しない。電子の流れを便宜上そう呼んでいるだけだ」と言われ、電子を 粒のように描いて勉強してると、大学に入って「電子は粒子だが、波でもある。」 と言われた時にまたわからなくなる。電子さえも、更に根源的な何かによりもたらされる 現象のひとつにすぎない。実在するものとは、 現象に名前をつけて操作可能にしたものだ。便宜上そう呼ばれているだけでない ものなど無い。迂闊に「〜は存在しない」と言ってしまうのは危ない。 議論できるのは、あるものに名前をつけて性質を定義することの合理性だ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2, 5, 9, Etude39-2。 Bumble Bee。Chopin Etude 10-1, 10-3。

10/22(Fri) Bringing out the dead

ホッケーでこけて腰を打った。立ち上がる度に「うっ」と呻き、 前かがみにそろそろとじいさんのように歩いている。


Martin Scorseseの新作「Bringing out the dead」。 ニューヨークで夜間救急隊員を勤める男Frank (Nicolas Cage) の話。

Frankは半年前から、仕事にやりがいを見出せなくなった。 人を救っているという充実感が得られない。 ホームレス、ドラッグ中毒者、銃弾にやられた人々。運んでも運んでも 切りがない。病院は廊下まで患者で溢れ、スタッフも殺気だっている。 そして、半年前に救えなかったホームレスの少女---町中で人とすれ違う 度に、彼女の顔がちらついてぎょっとする。病んだ街で、彼は癒しを得られるのか。

映像的にはっとするシーンがいくつもある。精神崩壊しかかってにやりと笑う Nicoral Cageが気味悪くて良い。しかし映画としては、Frankが行き先を求めて ふらふらと2時間さまよい続けるのは観ていてつらい。 それに、これは「Taxi Driver」の自己模倣じゃないの?という気がした--- 原作者も同じだし。

10/20(Wed) CGIの安全性(2)

昨日、本日の激しい雨のおかげで車が綺麗になってラッキー♪ 実はわたくし、 一度も洗車したことが無いのだ。


10/17の日記でCGIの安全性に関してちょろっと書いたが、その後、 フリーCGIを提供しているわりと大きめ(だと思う)のサイトで、セキュリティ上 非常に危険なスクリプトがサンプルに挙げられているのを見付けた。ひょっとしてこの問題は 軽視されてるんじゃなかろうかと思い、 CGIの安全性なる 文書に整理してみた。まだまだあると思うが、とりあえず思い付いたのだけ。

10/19(Tue) 嵐

昨夜、というより今日の明け方、オアフ島に来て初めて雷を見た。

昼間は強烈な日射しにさらされるオアフ島だが、おそらく島の面積が小さすぎて 強烈な上昇気流というのを作るに至らないのだろう。午後に山に低い雲がかかることは あっても、日本の夏によく見るような雷雨というものはついぞ見たことがなかったのだ。

昨夜は夜半から風が強くなり、断続的に大粒の雨が叩きつける ように降っていた。4時頃、ベッドに入ろうとした時、西の空一面が フラッシュを焚いたように光った。

うちの西側は港を越えるとすぐ海なので、雲がかかっていると空は真っ暗になる。 その闇を割くように地平線の彼方で稲妻が閃き、雲の底と海面を白く照らし出す。 光の照らし出す範囲は今まで見たどの稲妻よりも広い。まるで、 地平線がつくりものの書き割りで出来ているような、非現実的な感覚に襲われる。 妙に暖かい湿った風の吹き付けるベランダで、 核戦争を遠くから眺めてるとこんな感じなのかなあなどと考える。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2。Etude 39-2。

10/18(Mon) 失うものしかない核抑止力

帰宅したら不動産屋からメッセージが。このアパートメントユニットを買うと 言っていた人がキャンセルしたそうで。もうしばらく住めるということか。


西村防衛政務次官の核武装発言 (http://www.asahi.com/1019/news/politics19007.html)。 核の抑止力議論以前の問題でひっくりかえった。 「強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん」 じゃあアンタ、お咎め無しの場所に行ったらやるんかい。 相手の立場を想像してみるくらいの理性は無いんかい。 罰が抑止力になっている面は確かにあるが、当然それだけでレイプが防止できている わけでもない。例えとして持ち出すにはあまりに不適切だ。

敢えて抑止力論議につなげてみる。 確かに、人間の理性なんて脆いもので、戦争状態で秩序が崩壊したりしたら 何をやらかすかわからない。目の前のレイプを止めるのにはすぐ使える力が必要だ。 が、だからと言って普段から拳銃を持ち歩くというのもおかしい。 暗黒面ばかりを見て対策を練っても、lose-loseモデルしか生まれない。 どちらもマイナスにしか成り得ないモデル。しかもそれは、 相手に「もう失うものは無い」と開き直られたら無力なのだ。

抑止力としての武装は敵に対して向けられているのではない。 それは、「人間が何か恐ろしいことをしでかす可能性」に対して向けられているのだ。 「敵国」が攻撃をしかけてくるかもしれないというのなら、 あなたの隣人だって攻撃をしかけて来る可能性を持っている。 今日「敵国」に向けていた刃は、明日は隣人に向けられるかもしれない。

今はまだ、「目の前のレイプ」程に切羽詰まった事態には発展していないのだから、 より良い方策を選ぶチャンスがある。何故、隣人や、隣町や、隣の県が 攻撃をしかけてくる可能性より、「敵国」が攻撃を仕掛けて来る可能性のほうを心配するのか、 という問いが糸口になるだろう。何が本質的に違うのだろう。 経済と、情報と、人の交流によって、攻撃を仕掛けても意味が無いようにしてしまったら どうなるだろうか。今や情報が一瞬で世界を巡り、一国の経済の変動が世界経済に影響を もたらす時代である。何ゆえに国という単位で敵対しなければならないのか。

10/17(Sun) CGIの安全性

PCWeekがハッカーの挑戦を受けて立つ セキュリティ評価サイトを立ち上げて いたが、Linux側のセキュリティが遂に破られたようだ。 CGIの穴を利用したクラッキングの過程を示したドキュメントを読んで、 慌てて自分とこのCGIをチェック。このくらいの穴はうっかりすると簡単にCGIに入り込んでしまいそうだ。 このケースから学べるチェックポイントは:

ってとこだろうか。どれも基本的なことだけど、適当に作ってると こういうこと無しでも動いちゃうからなあ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses。Bumble-Bee。

10/16(Sat) 引っ越し考

今借りているアパートメントユニットの売却先がほぼ決定したそうで、 新しいオーナーがユニットの再チェックに来た。当初はこのまま借り続けられるかも しれないとのことだったのだが、新オーナーはこのユニットをいたく気に入り、 結局自分達で住むことにしたらしい。ああ、この部屋気に入ってたのに。


引っ越しは面倒くさいけれど、それまでの生活の中で惰性に流れてしまって いたものが一回リセットされるのでわりと好きだ。だいたい、ひとところに長く 暮らしていると要らないものがたまってくる。「いつか使うかも」と思って 押入や戸棚の片隅に仕舞っておいて、気付くとその存在すら忘れてしまっている、 そういったものを一掃する良い機会だ。

初めての独り暮らしは、初めての異国暮らしでもあった。何もかもが違うので、 それまでの生活を持ち込むことを諦めた。持ち物一切合財は実家に残して、 最低限の着替えと寝袋、パスポートにノートPCをスーツケースに詰めて、 がらんとしたアパートメントに移ったのだ。何もないアパートメントはやけに広く、 寂しいような、しかしこれからこの空間を埋めて行くのだと考えれば嬉しいような、 ちょっと胸が苦しいような気分がした。

そのアパートメントには1年半住んだ。ハワイに移ることになり、荷物を搬出 した最後の夜、再びがらんとしたアパートメントで、寝袋にくるまって横になった。 この1年半で、何を得たのだろうと考えた。 このまま荷物が何かの事故でどっかに行ってしまったとしても、また以前のように、 スーツケースひとつから始めればいい。1年半の間にモノは増えたけれど、 それは結局おまけみたいなものだ。無くなったとしたって、ここで過ごした 1年半が無駄になるわけじゃない。その間の経験が自分の中にある限り。

それは人間の一生にも似ていると思った。 どこからか、がらんとしたアパートに引っ越して来て、そこで暮らし、 最後にどこへともなく引っ越して行く。 始めの頃、何も無くても可能性に満ちていた空間は、生活に便利な モノによってどんどん埋められてゆくだろう。 けれどモノは墓の中まで持って行けるわけじゃない。 ならば最後は、全てを手放してがらんとした部屋の中に横たわり、 その空間の可能性をもう一度感じながら、最後の眠りにつきたい。


蝸牛的ピアノ日誌:とりとめもなく、Alkan Esquisses 2とか。

10/15(Fri) Illuminata

ボトムアップ的学習に関しては、触れた例を帰納的に整理してゆくもととなる 抽象的なスキームってのが学習者の内部に無いとだめなような気もするが、 このへんは良く知らないのでパス。チョムスキーとかちゃんと勉強してないし。 院にいた時、同じ学科の上の人が、計算機に例文を大量に食わせて文法構造を抽出するって 研究してたけど、どうなったのかなあ。


舞台と映画はやっぱり違うよ、と認識させられた映画 "Illuminata"。 20世紀初頭のニューヨークの劇場で芝居"Illuminata"を完成させるまでを 描いたバックステージもの。もともとは舞台作品。 しかし、舞台ではおそらく効果を 挙げたであろう様々な演出、演技、せりふは、カメラに収められてツギハギしたら 無惨なまでに色褪せてしまった。 おまけに、役者達は演技と人生がオーバーラップ するさまを得々と語り続ける。説明は要らんから、演技で見せてくれよ。 そんなに説明したけりゃ本でも書いてりゃいい。カメラの前でやるべきことは、演技だろ。

あまりけなすのは不公平かも。だって途中ちょくちょく寝てたから。 「Dead Zone」のChristopher Walkenがアヤしい役で出てて、それは面白かった。


蝸牛的ピアノ日誌:さぼり。

10/14(Thu) OSの難しさとは

遅ればせながら、Microsortによる 「Linux神話文書」を読む。色々な意味で楽しめるものになっているなあ。 こんだけ真剣(に見えるけど穴だらけ)な反論文書を出さねばならぬところにMSの苦悩が見えるというか。 系統的な反論は ChangeLogあたりから色々辿れるので、ここで触れることはしない。

私にとって興味深かったのは、OSに対するMicrosoftの見方の違いである。例えば次のくだり:

Linux is a UNIX-like operating system and is therefore complex to configure and manage. Existing UNIX users may find the transition to Linux easier but administrators for existing Windows-based or Novell environments will find it more difficult to handle the complexity of Linux. (...) Linux is a higher risk option than Windows NT. For example how many certified engineers are there for Linux?

これ自体には別に事実に明らかに反することは書かれていないが、とてもちぐはぐな印象を 受ける。Microsoftの考える「OSの難しさ」が事実と解離しているからだ。

サーバOSの設定が一見複雑なのは、OSの問題というよりも、その下層にあるネットワーク 技術が複雑だからだ。IPの設定、DNSの設定、メイルの設定等々、これらの設定項目の多くは 現在のネットワークプロトコルを使う限り避けては通れない。OSにおける設定と管理を 理解するということは、大部分は現代のコンピューターネットワークがどのような原理に 基づいて動作しているかを理解することであり、したがってOSには依存しないのだ。 Windows NTが簡単に「見える」のは、一見複雑なものに無理矢理蓋をしてみせている だけで、根本的な複雑さに変わりは無い。むしろ隠してあると、トラブルが起きた時の 対応が面倒なだけである。現行のインフラストラクチャを使う限り、OSを簡単に 扱うには基礎を理解する以外に無い。

だから、Certified Engineer云々のくだりが滑稽なのだ。 "Certified Engineer" なる者が、きちんと基礎を理解しているのであれば、 Micorsoft製品と言わずマルチOS環境の面倒を見れるだろう。 しかし、Microsoft製品だけ理解して基礎を理解していないのであれば、 何人居ようが現場ではたいして役に立たない。

例えば車に置き換えてみる。ここではサーバOSの管理の話をしているので、 サーバ管理者のスキルというのは車の修理やメンテナンスが出来るというスキルに対応するだろう。 「私はA社の認定技術者なので、B社の車はさっぱりわかりません」ってエンジニアはいないよね。

あ、これはサーバOSの話ね。クライアント側には、下層のごちゃごちゃは十分に 隠されているべき。一般のドライバーがエンジンの調整を気にする必要が無いのと同じ。


今まで見た2000円札ネタの中で秀逸→ 新しい紙幣の発行について


蝸牛的ピアノ日誌:さぼりっぱなし。

10/13(Wed) Mystery, Alaska/ボトムアップ学習とトップダウン学習

毎週水曜の朝は葛藤の時間。8:00からのインラインホッケーに参加するため、2時間早く目覚しが鳴る。 ベッドのふちに腰かけて、虚空を睨む。宵っ張りにはあと2時間の睡眠はたまらなく魅力的だ。 すぐに一ダース程のさぼる言い訳が浮かんでくる。一方では別の自分が、「ホッケーにゆくべき12の理由」 を数え上げ始める。この葛藤は、運転してコートに着いてチームメートに会うまで続くのだ (「今ならまだ路肩に駐車して眠れる!」)。


ホッケーは好きだけど、NHLはほとんど観ない。なんかプロスポーツってあまり観る 習慣が無いのだ。でもこの映画は予告編からずっと気になっていた "Mystery, Alaska"。 草野球ならぬ、池ホッケーの話だ。

アラスカの田舎の小さな街 Mystery。雪に閉ざされるこの街で、人々の楽しみと言えば 町営のホッケーチーム。普段は保安官だの教師だのプー太郎だのをしている男達が、毎週土曜日に 街はずれの池の氷の上で二手に別れて試合をする。粗末な観客席は家族連れで埋まり、 子供達はチームに入ることを夢見ている。

ところが、そんな街のホッケーがスポーツ誌に紹介され(「これがホッケーの原点だ! ---『池の上じゃあ、誰も俺達には敵わないぜ』」)、ひょんなことからメディアの 注目を集め、遂にはNY Rangersがエキシビション試合に来ることになり、街は大騒ぎ。 それぞれの登場人物のバックグラウンドのドラマをからめながら、物語は試合本番へと なだれ込んでゆく。

監督はAustin PowersのJay Roach。残念ながら、先日の "The Spy Shagged Me" (オースティン・パワー・デラックス) と同じように、勢いの無さが気になった。 キャラクタの描き込みも演出も、外してはいないんだけどインパクトも無く、地味な仕上りに なってしまった。でも、ゲームの楽しさは十分伝わって来る。 試合後のロッカールームでの熱気さめやらぬ会話の雰囲気なんかは、ああそうだよなあと 妙に共感してしまう。アイスホッケーもいつかやってみたい、と思わせてくれる映画。


プログラムの心。 私も経験あるなあ、帰納的プログラミング。ある程度基礎知識があれば、類推で結構いける。 欠点は、既存のものから類推して自分で作り出したものが本当に正しいのかどうかを 確認する手段が無いこと。テストデータでは動いたとしても、それがどんな入力でも動く と言い切ることは出来ないし、バグが出たとしてもそれが何故だかわからない。 応用が利くようになるには、様々なアルゴリズムを実装した膨大な量のコードに触れる必要がある。

そこでトップダウンの知識と、演繹的プログラミングが必要になる。 理屈の上では、言語の仕様書に、その言語で有効なあらゆるプログラムを作り出すために 必要な情報は全て入っているわけだ。アルゴリズムを知っていて、言語仕様があれば、 その言語でプログラムを書けるはず(あくまで理屈の上では)。実際には、 その言語が使われるパターン、コード例というものをある程度知らないと、 なかなか書き始められないものだ。

現場ではこの二つをなんとかして結びつけなければならない。プログラミングの考え方が わかっている人には、言語の基本となる本を一冊 (Perlなら駱駝本とか) 学びつつ、 他人のコードを大量に読むことを勧めている。 数万行とか数十万行のオープンソースのコードでバグフィックスして パッチを作るのは、かなり良い勉強になる。

確かにこれは語学にも似ている。今の日本の英語教育は、どっちかというと トップダウン方式かな。ボトムアップと結び付けるためには、小説や新聞を読みまくり、 映画を観まくり、会話漬けになる必要がある。しばらくすると、わからない単語やフレーズに 出会ったとき、どこが分からないか、何故分からないかがスポッティングできるようになり、 類推でいけるようになる。

10/10(Sun) Lord of the Flies

William Goldingの "Lord of the Flies" はキングがしばしば言及している小説だが ("Hearts in Atlantis" の中にも主人公の少年が夢中になるくだりがある)、 今まで読んだことが無かった。"Hearts〜" の中での描写があまりに面白そうだったので、 買って来て読み始めたら、なるほどこれは止まらない。

キングが好きなのも頷ける。この小説には、キングの小説によく見られる要素が そっくりそのままあるからだ。 (1)日常から突然切り離され、不条理な状況に放り出された人間同士の葛藤を描く。 (2)元の日常は殆んど描写されない。 (3)登場する人間は皆何処かに暗黒面を持っている。衝突の中で、それが表面化する。 (4)リズミカルな語り口と、細部にこだわったビビッドな描写。

キングの作品では、設定は違っても「霧」がこのパターンの典型だし、 「死のロングウォーク」も似た雰囲気だ。「スタンド」や「Storm of the Century」 にも同じ空気が感じられる。"Lord〜" はキングのひとつの原点なのだろう。

"Castle Rock" というのもやっぱりこれから取ったんだろうなあ。

10/9(Sat) Three Kings/英語教育ネタ

映画 "Three Kings"。湾岸戦争終了直後、イラクがクウェートから奪った金塊の在処を 記した地図を捕虜から手に入れた4人の兵士が、こっそりそれを奪いに行く。 私欲に走っていた彼らはしかし、地元民をイラク軍が迫害するのを見兼ねて停戦協定破りの 戦闘状態に突入。イラク軍に捉えられた仲間を助けるため、残りの3人は 難民と取り引きをする---ゲリラ戦に協力してもらうかわりに、金を分配し、 さらに彼らをイラン領に脱出させると。

アクの強いブラックコメディと、非情な現実を描くドラマをぶつ切りにして、 ハリウッドソースをたっぷりかけて煮込んだという趣向。スマートでエレガント な趣味の良い作品が好きな向きは絶対に見ない方が良いだろう。好き嫌いがはっきり分かれる 映画だと思う。笑えるシーンの直後に、地雷が炸裂し、血の雨が降る。 人があっけなく殺される。死と隣り合わせの戦場で、金の配分を巡って取り引きがある。 このごった煮はとことん悪趣味だ。それでもその映像は、現実というものの持つ 残酷な一面を描き出している。人の死に笑いで対するのは不謹慎だ? そんなのは安全なお茶の間でミサイル攻撃を眺めている側のキレイゴトに過ぎない。 笑いと、恐怖と、悲しみと、怒りと、全ては同時に存在し得るのだ。

この作品をコメディだと言ったら、一緒に見た友人が「それは違うでしょう」と反論。 そりゃ罪の無い普通のハリウッドコメディとは違うさ。でも、現実を相対化して見せる手法は コメディそのものだし、それは必要なことなんだ。 たとえその笑いがグロテスクなものであったとしても。


がくもんにっき さんのところで英語教育の話が取り上げられていて、なかなか興味深い。 私はこれまで、実用的な英語を身につけるには学校教育では圧倒的に時間が足りないと 思っていたので、 日本の英語教育は時間をかけすぎ(10/7) というのは新鮮だった。

これは、「実用的な英語」という目標をどこに設定するかという問題になるのだろう。 買物が出来て、迷子になっても帰ってこれて、メイルでちょっとした情報交換が出来る、 まずそれを目指すのなら、日常会話中心にして確かに2〜3年で十分かも。

もちろん、込み入った展開の文章を正確に理解するには高校までの文法知識は どうしても必要だし、加えて相当量の英語に触れる必要があると思う。 でもそれは、上にあげた目標をクリアして英語に抵抗が無くなってから、興味のある人だけが 先に進めば良い、という考え方もできる。今の英語教育のカリキュラムってのは、 目標をどこに置いているのだかよくわからない。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2, 5, 9。Etude 39-2。

10/8(Fri) Hearts in Atlantis

キングの "Hearts in Atlantis" 漸くにして読了。 ひと息つく度に時計の針がひとまわり以上しているのに驚きながら、最後の100ページ程は 一気に読んでしまった。キングの魔法である。

1960年から1999年までの40年間に渡る物語。主人公達よりちょうど20歳下の 私には、描写される60年代、70年代の雰囲気は実感として掴めないものもある。 それでも激しく感動した。感想はもすこし冷静になってから書こう。 底に流れるテーマは、"Stand by me" と "It" に通じるものがある--- というか、同じテーマを、現実社会の時間の流れの中で再構築してみせている。

"グリーンマイル"、"Bag of Bones"、そしてこの"Hearts in Atlantis"、 優れたエンターテインメントであると同時に、優れた文学作品となっている。 いや、キングの他の作品が文学でないと言うわけじゃないが。 そもそも文学って何か知らないけれど。 良いものは良い。

10/6(Wed) $20札は事情が違うのでは

2,000円札の話題があちこちで出ている。まだこちらでは 詳細がわからないのだが、「諸外国で使われているから」と言って米国が 挙げられているらしい。しかし、米国で$20が流通しているのはかなり 事情が異なるんではないか。普段$50、$100という紙幣を全くと言って良い程 持ち歩かないから$20が便利なのだ。

確かに、消費金額の下4桁が均等に分布するとした場合、1000円-5000円系列だと 5000円札を使う機会は1000円札を使う機会の4/1だが、 1000円-2000円系列だと両方とも同じくらい使うことになる。 しかし、米国で$2紙幣を殆んど目にしないことから、1-2-5系列だから 便利とは一慨には言えなさそうだ。

10/5(Tue) 文字コード

今借りているアパートメントが正式に売りに出されることになったとの通知。 もちろん売れるまでは住んでいて良いし、売れてからも45日間の猶予があるの だけれど、落ち着かないなあ。部屋綺麗にしとかなけりゃならないし。 今の場所はかなり気に入っているのだが、ま、何事にも変化は訪れるものだということか。


多言語処理系を書くかもしれないので、文字コードの現状をネットでざっと さらってみる。これまでは、必要があれば日本語EUCかSJISを仮定して処理するような おざなりなコードを書いてきたのだが、この時代に特定の国の特定の符号系に依存した コードを書いてちゃいかんよな。と勉強を始めてみたものの、いやはや、 これは大変だ。 ある言語で使われる文字は、その言語の使われる文化と歴史を背負っているのだなあ。 目についたリンクをマーク。

そもそもまとめるのが不可能なものならば、Unicodeに無理に統合せず コードセット切替えで対応するほうが良さそうだ。 で、各コードセットを扱うコンポーネントのインタフェースを規格化しとくと。 言わばメタ規格。統合した方が美しく見えるかもしれないが、現実の社会は 計算機のアルゴリズムのようにきちんと整理されるものではないし。 とりあえず自分はMuleの実装でも覗いてみるか。


蝸牛的ピアノ日誌:Bumble Beeちょっとだけ。

10/4(Mon) 英語による支配

英語が多くの分野で事実上の国際共通語となっていることは動かしがたい。 情報ネットワークの発達で、その傾向はますます加速するだろう。 しかし、特定の民族の母語でしかない英語がそのような形で広がることを危惧する声もある。 英語ネイティブと非ネイティブの間に本質的な不平等が生まれるというのだ。

これは、まあ、正しい意見だと思う。 言語にはコミュニケーションの手段としての側面だけでなく、思考の道具であり 文化そのものでもある。言語支配は文化支配となり得る。

しかしまた、こんにちの共通語英語が、正統的な英国英語から離れて 無国籍化してきているのも事実であろう。少なくとも、「英語」とひとくくりに して言語支配を論ずるのはひどく乱暴な議論に感じられる。言語学的に言えば「英語」 内でのバリエーションは、その他の言語との距離に比べればはるかに小さいのだろうが。 何でも米国西海岸辺りでは、本来の英語が通じないこともあるという。 人々はjargonを話しているのだ。

ま、それはともかく、コミュニケーションとは自分と相手がいて成立するものだ。 言葉が通じなければ、困るのは両方のはずだ。 片方だけ困っているとすれば、それは一方の当事者がもう一方を軽視している ということに他ならない。本来の問題はそこにある。 結局経済の問題になっちゃうと思うのだけどね。

プログラマとしては、文字はどれも一バイトで表現されるとうっかり信じている 人々を減らすためには、英語でもエスペラントでもなく中国語あたりが共通語に なってくれると面白い。実際、最近はアジアの市場価値が高まったために、そういう面での 配慮はずいぶん行き届くようになってきた。多言語対応 (multilingualizationだっけ) の装置を持ってないと情報を取り損ねるって時代になるかもしれない。 そう、時代は超漢字へと向かうのだ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Etude39-2。Bumble Bee。

10/3(Sun)

休日出勤したいという誘惑に打ち勝って、家でたまっていたことをいろいろと片付ける。 休日も出てしまうと、仕事以外の生活が本当にどうでも良くなってしまう。それでいて 進むかというと、時間の感覚が無くなって効率が落ちることの方が多い。 どうしても出なければならない羽目になった時以外は、けじめをつけるべきだろう。 と、自分に言い聞かせる。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Etude39-8を通して譜読みしてみようとしたが、挫折。 最後のコーダの部分3ページ程を残したところでもう集中力が続かなくなった。 やはり大それた考えなのかもしれぬ。久しぶりに39-2に挑戦してみてくたくたになる。 Bumble-Bee、速くなると再現部の右手で親指がもつれるので、指使いを再検討する。 E-Aを3-5で取れば1指は楽になるのだが、速くなると音がばらけちゃうのはやっぱり小指の 独立性が弱いんだろうなあ。ああハノン。

10/1(Fri) American Beauty

映画 "American Beauty"。 しがないサラリーマンLester(Kevin Spacey)は娘からは無視され、妻とは世間体を保つためだけ の夫婦生活を続け、会社では退職勧告におびえる日々。しかし、娘の同級生に 心ときめかせてから、彼の生活は一変する。それは周囲の人も巻き込んで…

不思議な映画だ。登場人物達はみなどこか変。彼らが繰り広げる、 有りそうでいてやっぱりちょっと変な日常の生活のひとこまひとこまが、 散文詩のような映像で描写される。そしてある意味唐突に終る。

狐につままれた様になって映画館を出て、街を歩いてみる。するとどうだ、 見慣れた日常の風景が、妙に美しく見えるではないか。すれ違う人の表情、 街角のイルミネーション。ごく些細な日常風景が、2度と起こらない瞬間の美しさを 主張しはじめる。

物の見方を変えてくれる映画は、貴重だ。

監督Sam Mendesはイギリス出身らしい。道理で、詩情を湛えた映像は ハリウッド映画というよりもヨーロッパ映画のそれに似ている。 IMDbによるとこれが初監督作品か?。 主演のKevin Spacey他、役者の演技も良い。登場人物のキャラクターが、これほど 身近に感じられるのは、スクリプトと演技の相互作用か。

ハリウッドでもまだこんな映画が作られるのだ。


蝸牛的ピアノ日誌:Bumble Bee. Alkan Esquisses.


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Shiro Kawai
shiro@lava.net