1999年9月

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9/30(Thu) メタオブジェクト

Javaはやっぱりreflection関係が弱いなあ、 メタオブジェクトプロトコルが欲しいなあ、と思って、 念のためネットを検索してみると、同じことを考えている人はやはり居た→ OpenJava。 落して来て少しいじってみる。大抵のことは出来そうだけれど、どうもJava自身で Javaの構文を扱うのは、LispでLispを扱う手軽さに比べると煩わしい。 結局諦めて、Perlでプリプロセッサを書いてしまった。

プログラムが自分のプログラム自身を扱うメタオブジェクトでは、 プログラムが普段扱うデータ構造と、プログラム自身を表現するデータ構造が自然な形で 融合出来ることが望ましい。プログラムとデータが同じ形で表せるLispでメタオブジェクトが 扱い易いのはそのためだろう。また、PerlやTclはテキスト処理に強いため、プログラムを テキストで表すことでメタ情報を扱いやすい。そう考えると、JavaやC++はメタオブジェクト を使う拡張に関しては不利だ。せめてリスト構造をもっと手軽にコンストラクトできればなあ。


メタオブジェクトプロトコルについて説明してみる。

プログラミングというのを、レゴブロックに例えてみよう。 決まった形状の何種類かのブロックを組み合わせて、自分の作りたいものが手軽に作れる。 提供されるブロックの種類が、プログラミング言語(処理系)。 組み合わせて出来上がったものが、私のプログラム。 もちろん、自分で材料を仕入れて、自分の好きな様に加工して作るほうが 思い通りのものが作れるけれど、普通はそこまで手間をかけたくない。 ブロックの種類が豊富だったり、組み合わせに応用が効くように考えられて作られていれば、 その組み合わせによって複雑な機構も簡単に組み立てられる。

しかしこれには欠点もある。ブロックの種類と可能な接続の方法はあらかじめ 決められていて、私には変えようが無い。既存のブロックで実現不可能になった場合は、 特殊な部品を自分で生の材料から切り出して作るか、設計を曲げて何とか既存のブロックで 済ませるかしかない。前者は、特殊な部品が一個や二個なら何とかなるが、 その特殊な部品が100個必要だとなると大変だ。

MetaObject Protocolというのは、言ってみればこのような特殊な部品を 作り出す金型を、ブロック自身を用いて作れる機能のことだ。レゴブロック自身を 使って、新しい型のレゴブロックを製造する装置が作れる、と想像してみて欲しい。 そんな装置を最初から組み立てていたら大変だが、標準のブロックを製造する装置が 既にブロック自身で組み立てられていれば、大抵は細部をちょこっと変えるだけで 自分の好きなブロックが製造できるようになる。

もちろんそれを使いこなすには、ブロックの製造工程(=コンパイラの内部構造)を 理解している必要があるため、最初の敷居は高い。しかし一度使えるようになると、 痒いところに手が届いてしまって、手放せなくなるのだ。


蝸牛的ピアノ日誌:休み。

9/29(Wed)

ここ一週間くらいJavaプログラマと化している。 これまでトイプログラムを作ってみて、 Javaはそのコンセプトは評価していたのだが、 本格的に業務に供するプログラムを書いてみると、まだ仕様がこなれていない という印象を受ける。中途半端にC++に似せようとしたあたりが足枷になっているのか、 不自然な仕様が目立つ。まだ若い言語なので、今後に期待というところか。

今書いているのは、一種の分散オブジェクトシステム。 もともとただのオブジェクト指向データベースだった筈なのだが、 現場の要請に合わせているうちにそんなことになった。 TCP/IPの上に独自のプロトコルを実装して通信している。 世の中には便利な分散オブジェクトシステムが既にあるのに、 何故自前で書かなければならないのか、と同僚から鋭い質問。 しかし現場ではなかなかそう教科書通りには行かないのだ。 とりあえず、CommonLisp、Scheme、Perl、Java、VisualBasic間で オブジェクトの共有が出来て、しかもオブジェクトの定義を非同期に変えても OKなシステムなんてのは滅多に無いだろう。あったらちょっとショックだけど。


日本からの友人は昨日帰国したのだが、こちらでの私の親友Lに手紙を渡していった。 Lは日本語勉強中。日本語で書かれたその手紙を解読しようと四苦八苦、 色々と私に質問してくる。ところが、日常使う日本語を文法的にきちんと説明するのは意外と大変。 全文訳なら出来るのだけれど、それが何故そういう訳になるのかってのは、 うまく説明できない。省略された主語の補い方。敬語表現に暗黙のうちに含まれる情報。 慣用的な言い回し等々。ごく日常的な文章を解釈するのにも、膨大な知識が必要になる。 むしろ技術的な文章の方が単純な文法規則に乗っ取っているだけにわかりやすいのかもしれない。


蝸牛的ピアノ日誌:Bumble-Bee。Alkan Esquisses。

9/25(Sat) ハワイアン・ウェディング

友人Kの結婚式に行って来た。ノースショアにある大きな一軒家を借り切っての、 ガーデンパーティ形式のウェディングセレモニーである。近くの教会から 牧師さんだか神父さんだかに出張してきてもらって誓いの言葉を交わした後、 立食形式のディナー、そして夜はダンスパーティー。 参加者の多くはアロハシャツや原色のドレスで、それだけで場が華やぐ。 広大な敷地のため周囲に気兼ねすることなく大騒ぎできるし、 踊り疲れてちょっと敷地を散歩すれば満月が妖しい程に美しい。 みんなリラックスして、それでいて厳かさも失わない、 印象深い結婚式であった。こういうのも悪くない。

友人Kはイラン出身、新婦のEはメキシコ出身、二人はモントリオールで出会い、 共同生活を始めた。この結婚式には、本当に世界のあちこちから人が集う。縁とは不思議なものだ。

Kのスピーチ。"The life doesn't have an undo button. And you can never expect what will come next in your life. I never expected I was going to wed in Hawaii. You have to accept whatever comes, and you cannot cancel what has been done. That's why the life is interesting."

9/23(Thu) 忙し

きちんと設計する余裕が出て来た。 すると、四六時中そのことについて考え続けるため、他のことが出来なくなった。 アイディアが湧いて来る速度に、処理が追い付かない。 ま、暫くこんな感じが続きそうなんで、こちらはあまり更新できないかもしれない。

9/21(Tue)

朝、早めに起きて、朝食にカフェに行ってみる。 外に面したオープンスペースでコーヒーを飲んでいると、俄雨がやってきて、 西の空には二重の虹。

本来、かなりエレガントに解けるはずの問題が、 色々な事情から遠回りな方法を取らねばならないことがある。 人間というファクターがからんでくると、なかなか思うようにはいかない。 最近また動きがあって、ストレートな解が通用しそうな気配がしてきた。 今まで書いたものをかなり捨てなけりゃならないけど、ま、すっきりするから良いかな。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

9/20(Mon) キング新刊/子供とゲーム/メタばなし

更新をさぼってたのはキングの新刊のせい。 今度の "Heats in Atlantis" は一人の主人公を中心にした エピソードを5編集めた中編集。今のところ160p程までしか読んでいないが、 ここ2〜3年のキングは文体が微妙に変わっている気がする。平易で丁寧でちょっと上品というか。 まあまだ主要登場人物が11歳の子供達と老人だけで、f-wordなどをほとんど 使わないからそう感じるだけかもしれない。あとキングのSF小説&映画への 愛情があふれている感じで良い。


台湾の地震。友人の知り合いは皆無事らしいが、震源近くの山間は 谷を縫うような道路しかアクセス手段が無いから、電話も途切れたら 全くの孤立状態になっているのではないか。被害が拡大しないことを祈る。


昨日は同僚の家族を昼食に呼んだのだが、同僚の息子(6歳くらい)がさっそく プレステを見付けてゲームをしたがった。日本語が読めないのでアクションが 良いだろうと「海腹川背・旬」を遊ばせてみたら、かなり気に入った様子。 あんまりモニタにかじりついているので親が注意すると、しばらく大人しく しているがまた始める。貸してあげると言ったら大喜び。

それにしても、「川背」の操作法は理解するまでわりと難しいと思うのだけれど、 説明書も読まず、ただひたすら遊び続けて操作法をどんどんマスターしてゆくとは、 子供ってすごい。


なるほどなるほど ( Physicsと Metaphysicsの話, 9/20/99)。方法序説って、デカルトが神の存在証明をしてるやつだっけ、 くらいの認識しかない私だが、 形而上学(metaphysics)が自然学(physics)をより高い次元から説明する学問だ、 というのは納得できる。直観的には、 自然学をどこまで突き詰めても、突き詰める自分自身が突き詰められる自然の一部である以上、 どこかで一回その循環を高次の視点から見直してやらないと全体が見渡せないんじゃないか、 という感じ。社会学もまた然り。

がくもんにっき (9/19)さんのところも参考になる。 もっとも私の場合は、学問に関して使うことは少ないなあ。 高次の視点を導入して自メディアの持つ枠組を意識している作品をメタなんとか、 と呼ぶような気がする。登場人物が自分達が舞台の中に居ることを意識している 「メタシアター」とか。

私の分野で使う「メタ」と言えば、メタオブジェクトプロトコル(MOP)がある。 プログラミング言語にて、オブジェクトを定義/利用する枠組自体を その言語で定義できるようにするもの。普通のプログラミング言語では、 言語の設計者が決めた仕様に従って開発者はプログラムしなければならないが、 MOPを備えた言語では、開発者自身が自分の解決したい問題に言語の仕様自体を かなり変更することができる (ゼロから作り直すのではないのがミソ--- パーザジェネレータは自分で最初から作るためのものなので、ちと違う)。 最初は何が良いんだかさっぱりわからないのだが、一度全部理解すると 突然展望がひらけて、今度はMOPの無い言語がとても不自由に思えて来る。


蝸牛的ピアノ日誌:滞在中の友人のリクエストで、Clair de Lune, Bumble-Bee他。

9/17(Fri) ダウン

火曜の昼から腹がもたれるような感じがして何かおかしかった。 疲れだろうと思い、その日は早めに帰って風呂にゆっくり浸かりさっさと寝て、翌朝の ホッケーで吹き飛ばそうと思ったのだが…

水曜朝、ホッケーが終ったら世界がぐらぐらして立っていられなくなった。 最初から風邪だってわかってればそんな無茶をせずとも済んだのに。というか わかれよ>自分。結局水曜は会社を病欠(就職以来初めてだ)。で、木曜はなんとか 出勤したのだが、その夜に再び頭痛と発熱に襲われる。とにかくひたすら水分を摂り、 寝て汗をかいて着替える、ということを2時間周期で繰り返す。 今朝は、多少疲れが残った以外は快適で、ようやく治ったもよう。 一応、恒例の映画は控えて早めに帰宅した。 というわけで日記のアップもそこそこに寝ることにする…と言いたいところだが、 Kingの新刊 "Hearts in Atlantis" を読み始めてしまった。まずい。


蝸牛的ピアノ日誌:リハビリ。Alkan Esquisses 5。

9/13(Mon) Linuxを巡る一般誌の報道

日経の記事「岐路に立つLinux, 無償に群がる有償ビジネス」 ( http://www.nikkei.co.jp/cyspecial/stories/ca99c000_13.html ) 。 無償で開発に協力する草の根「ボランティア」対Linuxで金儲けしようとする企業という 構図にしたいのだろうけれど、そこに根本的な勘違いがあるため、記事全体が ずれたものになってしまっている。特に以下のくだり。

株式公開でレッドハットの時価総額は一気に数千億円規模に膨らみ、経営陣は 巨額の富を手にした。…公共財に近いOSの確立を目指して来たLinuxの 開発者にとって、レッドハットの予想以上の成功は一種の「ただのり」に映る。

オープンソースソフトウェア(フリーソフト)を特徴づけるのは無償か有償かではない、 ってことは、もうオープンソースにばりばり関わって来た偉大なプログラマー達が 折にふれて言っているわけで。レッドハットが大儲けしたことを以って 「ただのり」なんて言うのは、それこそわかっていない部外者だけ。 このような論調が展開される背景には、次のような思い込みがあるのではないか。

「サービスはソフトウェアに準ずるものである。」

だから、無料のOSを元にしてサービスを提供するのに堂々と金を儲けるのはキタナイ、 という勘違いした感情が出て来る。ユーザが金を払うのは ユーザが目的とする仕事を遂行するための手段にであって、極端な話、 個々の要素となるソフトウェアは何だってよい。それらをワークフローに 合わせて組合せ、必要ならばカスタマイズしやすくし、問題が出たらサポートする、 その部分には多くの熟練した技術者が必要だし、大きなコストがかかる。 これまでは、その部分の費用が売りきりのパッケージソフトの価格に転嫁されていただけである。 (もしくは、その部分の負担がユーザにかかっていたとも考えられる)。

「無償の奉仕は金儲けより価値がある」

こういう論調の「ボランティア」賛美はなかなか無くならない。 しかし金儲けだって大事なことだ。 金というのは経済活動の血液だ。回さなければ経済は停滞し、死んでしまう。 金銭を必要としない新しい経済モデルを提示するならともかく、ただ金儲けは俗物、 無償の奉仕は尊い、というのは何の役にも立たない精神論だ。

確かに、オープンソースの開発者達が無償で労力を割くのは、 オープンソースコミュニティ、さらには社会全般に対して貢献したいと思っているからだが、 それは、オープンソースの文化が金銭を基準にしたモデルとは異るモデル---Eric Raymondが論文 Homesteading the Noorsphere (山形浩生さんの邦訳) で「贈与の文化」と名付けたもの---で動いているからに過ぎない。

無論、私はRedHatの方向を一方的に礼賛するものでもない。 記事でも取り上げられている、最近の五橋研究所との日本語版に関するいざこざには 首をかしげる。だが、オープンソースを元にしたビジネスモデルは今がまさに実験段階だ。 RedHatを巡る様々な議論は、ユーザが本来対価を払うべきものは何なのか、 ビジネスを成り立たせる経済モデルはどうあるべきか、そういう視点で分析されなければ ならないだろう。有償だ無償だというレベルの話より、そっちが聞きたいものだ。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

9/12(Sun)

蝸牛的ピアノ日誌:思い付くままに昔やった曲を色々と。かなり忘れている。 一曲をほんの2〜3回、どうにか思い出す程度に弾いたとしても、 簡単に3時間4時間と経ってしまう。きちんと指の訓練もやって、 新曲もさらって…なんてやっていたら、まる一日潰れてしまうに違いない。 素人がわずかなレパートリーをキープしようとするだけでこれなのだ。 プロがどれだけの時間を稽古に費しているかは想像に難くない。

小さい頃は要領が良くて、特に頑張らなくても学校の勉強は出来た。 親は、「お前は努力をしないのが良くない」と言い、行く末を心配している様子であった。 そうか良くないのか、と思ったが、どう努力して良いのかも分からなかったので、 子供心に困ったものであった。

今ならわかる気がする。欲しいものは遥か上方の嶺の上に見え、気は急いても道程は長い。 一日、疲労困憊するまで頑張って、どれだけ進んだかを振り返る。ゴールまでの距離を 思う。欲しいものを手に入れるためには、好むと好まざるとにかかわらず通らなければならない道程。 結局それを努力と言うのだろうと。

しかしそうだとしたら、子供の頃、たとえば手書きの回路図にマークをつけながら、 一心不乱に膨大な配線を一本一本半田付けしていったあの日々は、やはり私なりの努力の日々 だったのではあるまいか、と思うのである。

ピアノの話に戻って、細々とした努力のモティベーション維持および自己満足のため、 そのうち一曲づつ仕上げたらMIDIレコーディングしてウェブに載せる予定。

9/11(Sat) Hang Loose

今週の月曜にアパート備え付けのオーブンが壊れたので、プロパティマネージャに修理を 依頼した。で、今日の10時から1時の間に見に来るという話だったのだが (それもずいぶん幅があってやりにくいのだけれど)、結局修理人が現われたのは 1:30。1時間ほどいろいろやって、セフティ用のサーモスタットがいかれている というところまで突き止めてくれたのだが、どうもすぐに直りそうにない。というのは、

この調子では、あと3ヵ月はかかるとみた。

こういう時、イライラしてはいけない。これが島の時間の流れなのだ。 合い言葉は "Hang loose!"。「そんなにあせってもしょうがないじゃん。 まあ楽にいこうぜ楽に」、ってな感じ。握り拳の親指と小指を立てるジェスチャが 付属することもある。


チリソースを作ってみた。と言っても市販のチリソースの素に缶詰の豆と サルサを混ぜて煮るだけだけど、けっこう美味しい。友人がスパゲッティペペロンチーノを 作って、ワインを頂きながら夕食。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 5, 9。Etude 39-10。 Debussy Suite Bergamasque。

9/10(Fri) 光の帝国/The 13th Warrior

今のコンタクトを作ってからしばらく経つ。どうも合わなくなってきたようなので、 昼休みに眼医者に行った。

検査を終えて外に出ると、圧倒的な光の洪水。眼底検査もしたので、 瞳孔の麻酔がまだ効いていたのだ。サングラスをかけて全体の光量を落としても、 車などに反射する太陽のグレアが強烈に眼に飛び込んでくる。 世界とはこんなにも光に溢れたものだったのか。

人間が知覚可能な光のダイナミックレンジは非常に広い。 具体的な数値は知らないのだが、少なくとも通常我々が目にしている風景の ディテールを再現するには、107〜8程度にわたる 光量の変化を捉えなければならないとされている。人間の網膜も含め、 それだけのダイナミックレンジを一度に記録できるデバイスは無い--- 人間は虹彩によって光の量を加減している。カメラの場合、使い物になる ダイナミックレンジは102〜3程度らしい。 これは、適正な露出で撮った写真でも、露出不足の部分や露出過多の部分が 避けられないことを意味する。それらの部分の情報は失われる。 (ダイナミックレンジを完全に復元するには、露出を変えて複数枚の 写真を撮り、スキャンして計算機内で情報を最構築する手法がある。)

また、これだけの光のダイナミックレンジを再現できる出力デバイスも この世には存在しない。CGでどんなに頑張っても、自然界と全く同じ 画像情報を再現することは出来ない。

虹彩による光量制御無しで観た世界はとても美しかった。 しかし、もちろんそれでは生活出来ない。我々は、生きて行くために 不要な情報をばっさり切り捨てているのだ。

* * *

オフィスに戻ってコンピューターの前に座ってみてまたびっくり。 スクリーンが高速で点滅している。 私はディスプレイのリフレッシュレートを60Hzで使っており、 普段はこのちらつきはほとんど気にならないのだが、瞳孔が開いて感度が上がっているせいか、 ちらつきがはっきり知覚できるのだ。 知人に必ずリフレッシュレートを上げる人がいて、何をそんなに拘るのかなあと思っていたのだが 彼にはこういうふうに見えていたのか。確かにこれは耐え難い。

72Hzに上げてみると、まるで嵐で荒れた海面が凪になったようにぴたりと 点滅が止まった。というか感じなくなった まだ視野の周辺部がちらちらしているが、この変化は感動的でさえあった。

リフレッシュレート60Hzでもサングラスをかけて画面を見るとちらつきが 気にならなくなったので、ちらつきの知覚は眼の感度に関係するようだ。

普段見えない世界をかいま見た一日であった。


今日の映画は "The 13th Warrior"。 中世ヨーロッパを舞台にした「七人の侍」ばりの血湧き肉踊る冒険映画。 Michael Chrichtonの原作を 「ダイ・ハード」「レッド・オクトーバーを追え」のJohn McTiermanが監督。 主演は「マスク・オブ・ゾロ」のAntonio Banderas。

他人の妻に恋をしたためイスラムの帝国を追放された詩人が、北から来た民族と 関わり合い、彼らの祖国を「悪魔」から守る戦いに巻き込まれる。 ヨーロッパってのは陸続きだから、民族間の争いってのは凄惨なものがあったんだろうね。 映画でもかなり血生臭い戦闘が繰り広げられる。

ストーリーは単純というか単調というかお約束だし、演技もたいしたことは無い。 そういう評価基準で言うなら全然面白くない映画。 だが手持ちカメラとステディカムを中心にした映像にえらい力がこもっていて、 ついつい観てしまう。息をつかせぬ編集も手伝って、娯楽作品としてうまく仕上っている。 戦闘シーンの迫力もなかなか。

9/9(Thu)

今、うちに滞在している日本から来た友人は、英語はカタコトである。 しかし、本人には英語が出来ないひけめとか、英語が出来なくちゃという焦りは無い。 ブロークンな英語と日本語をまぜこぜにしてとにかく話す話す。 私がそばに居れば遠慮せず通訳に使うし、居なくても 通じてるのだか通じてないのだかよくわからない会話をしている。 そして、いつのまにか友達を作っている。

そんなもんで良いのだろうなあ、と思う。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 5, 9

9/7(Tue) 人生の期待値

今借りているアパートメントを不動産会社が見に来た。オーナーが売りに 出すかもしれないとのこと。今のところは家賃のわりに環境が抜群で気に入って いるのだが、新しいところを探さなくてはならないのかなあ。

米国では、家を買うと所得税の控除が受けられて、 借りて家賃を払うよりお得だそうで、知り合いにも分譲コンドミニアムを購入した人がいる。 引っ越すことになっても、貸しに出せばローンは払える、ということなのだが、 どうも私はそういう考え方が苦手だ。

普通に定年まで働いたとして、稼ぐ金がいくら、必要な金がいくら、 と計算するのは理屈の上ではわかるのだけれど、それは一種の期待値にすぎない。 期待値とは、試行を繰り返して結果を平均すればその値に近付くというものだろう。 しかし、自分の人生は一回きりのものだ。たまたま自分の番は期待値以下だった、 ってことだって十分有り得る。所詮その程度のもの。

それでも期待値を考えるなら、収入なんかより幸福の期待値を最大にしたいところ。 常に変化の余地を残して置きたい自分にとっては、不動産は足枷にしかならないような 気がする。

さて、30年後の自分はこの記述を見てどう思うかな。


蝸牛的ピアノ日誌:休み。

9/6(Mon)

折角ハワイに来たのだからビーチへも行かにゃと、ノースショア、Pupukea Beachに行って来た。 Sunset Beachのすぐ近くの浜だが、こじんまりした珊瑚礁の入江に小さなビーチがあって スノーケリングに最適。


国際映画祭の出展作品なんかだと、邦画を観る機会がある。 「ワンダフルライフ」 ("After Life") が隣の映画館にかかっていたので観に行った。

人は死ぬと、自分の人生の中で大切な思い出をひとつだけ持ってあの世へ旅立つ、という設定で、 人々が一週間という期間内に思い出の選択を行う場所が舞台の話だ。 今はもう使われていなさそうな、大正あたりに作られたような古い石造りのビルディングが 撮影に使われていて、雰囲気が非常に良い。最初は東大駒場寮あたりを使ったんじゃないかと 思って特徴を探してしまった。ちょっと暗めの映像に味がある。 ただ、ストーリーと演出はちょっと真面目で大人し過ぎるように思えた。 作りが丁寧なだけに勿体無い。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 9。Andanteの小品だが目まぐるしく転調するので ぱっと見で弾くのは難しい。少し弾き込んで覚えよう。

9/5(Sun)

昨日に引続きのんびりと。友人には、新しくなったAla Moana Shopping Centerあたりを案内。 同センターは昨年くらいからずっと工事をしていたのだが、最近新しく3階のフロアがオープン したのだ (これまでは2層のみであった)。1、2階のフロアもいろいろな装飾が出来たり、 池が出来て鯉が泳いでいるなど、かなり頑張っている。まだ工事をしているので、店はもっと増えるのだろう。 とにかく旅行客が来てくれないとハワイの経済がやばいので、なんだか必死な感じが伝わって来る。

ハイテク産業誘致を掲げて当選した議員だかも過去には居たらしいが、 マウイ島のハイテク産業パークは空きが目立つそうだし、オアフ島もスクウェアが来て 以来あまりビッグニュースは無いようだ。巨費を投じたであろうホノルルコンベンションセンターも、 昨年だか一昨年だかに完成して以来、コンベンションが開かれているのを見たことがない。 やっぱり観光資源に頼らざるを得ないのだ。 経済の流れを変えるというのはやはり難しいようだ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2, 5。 他、いくつか昔やった曲をぱらぱらとさらってみる。すっかり忘れている。

9/4(Sat)

日本から友人が来る。Labor Dayの連休に合わせたのだが、別にこれという企画も無く、 のんびり過ごす予定。そういう旅もよかろう。 自炊するというので、一人暮らしでスッカラカンの冷蔵庫を埋めるため買い物に出る。 食料品をスーパーマーケットのカート一杯買ったのは初めてかもしれない。


蝸牛的ピアノ日誌:同僚宅のパーティーで弾いてみるが、全然稽古してない曲でガタガタ。 幻想即興曲なんて指が完全に忘れている。最近Esquissesしか弾いてなかったからなあ。

9/3(Fri) The 6th Sense

この夏のホラー映画ブームの中でもわりと評判の良い "The 6th Sense" を見る。 優秀な小児精神科医と、ある特殊な能力を持った少年の話。 極めて緻密に作られた、正統的ホラー。 ストーリーが非常にうまい。 その良さを損なわないように、これ以上内容には触れないが、 ホラーではあるけれど、良いドラマとしても作られていると言っておこう。 観終ったあと、ストーリーを何度も反復して思い返したくなる映画はそんなに無い。 特に、キング的ホラーストーリーが好きな人には是非お薦めしたい。

ただ、非常に惜しいのは、いくつかの要素が足をひっぱってしまっていて、 手放しで誉められないこと。まず、Bruce Willisはミスキャストだったと思うなあ。 彼は役の人物以前にBruce Willisに見えてしまう。本当の芸達者の役者を持って来てればなあ。 それから、明らかにキューブリックを意識したカメラや演出が時々甘さに流れてしまったこと (まあオマージュという受取り方もできるが)。 もっとドラマ、ドラマに集中して欲しかった。ドラマで支える力がこのストーリーにはあるはず。 ああ、ストーリーだけなら個人的に星4つ半なのに…


蝸牛的ピアノ日誌:会社で処分することになった中古機材の抽選に応募したら、 E-muのMIDI音源が当たった。これまで会社のパーティーでの抽選等にはことごとく 外れて来たのだが、初めて当たったのが中古機材とは、幼き頃に廃品回収業を目指した ことがある自分に相応しいのか。持って帰ってデジピに繋いで遊んでいたので、稽古は無し。

9/2(Thu) 無知は恥ではないけれど/英語だけじゃ足りない

Web日記のリゾナンス。知らないことは恥か? について。 知らないことは恥ずかしいことではない。というより、知らないことを恥ずかしいと 思うか思わないかは本人次第で、あまり重要なことではない。 ただ、目的を達成するのに必要なことを知らなければ本人が困る、という事実があるだけである。 それが自覚できる人は何とかしようとする。恥はその動機の一つでは有り得るけれど、 必要条件ではない。

個人的には、自分の好きな分野、より深く入って行きたいと 思っている分野に関して無知であることは、見える筈の景色を見逃しているような 気がして、悔しいと感じる。底の方では恥につながっているかもしれない。


話は変わるが、似たようなことは英語教育を巡る議論にもあるような。 英語を話せないのは恥でもなんでもない。 かと言って、「英語文化に阿ることは無い、日本人は日本語が出来れば十分じゃ」と 開きなおることでもない。ただ、英語が目的を達成するのに必要ならば、話せないと困るだけだ。

もっとも、英語に関しては、「何故英語を学ばないと不便なのか= 英語が事実上の共通語となっているのは何故か」という問いにも目を向ける必要があるのだが。

ただ、最近とみに感じるのは、「共通語としての英語はとっかかりに過ぎない」ということだ。 本気でコミュニケーションを深めたいと思ったら、その相手の母国語を学ぶ必要がある。 今の私の環境で、じっくり友人と話したいと思ったら、英中独仏露韓くらい話せないとならない。 独仏は大学の時にとったのに、もう全然駄目である。それで悔しい思いをすることがままある。 特に、飛行機で綺麗なフランス娘(英語カタコト)と隣あわせになった時などだ。 ああせめてせめて「ハワイに住んでるんですよ。良かったら案内しましょうか」くらいを さらっと仏語で言えてたらなあ。はあ。とかいう思いをすることになるのだ。

もちろん相手が米国、英国あるいは他の英語圏出身なら英語を深める必要がある--- 共通語としての英語と、本来の言葉としての英語とはやはり違うのだ。 米国西海岸の民族ごちゃまぜ地帯ではあまり感じないが、 イギリス映画やアイルランド映画、オーストラリア映画などを観ているとやっぱり相当違う。

共通語とは所詮、万能ナイフのようなものだ。とりあえず何にでも使えるけど、 料理するなら包丁が、ネジを回すならドライバーが、缶を空けるには缶切りがやっぱり適している。

また、共通語なんてその程度のものだと思えば、「英語による世界支配」なんて騒ぐ必要も 無いんではないか。通じればいいのだ通じれば。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 5, 14。

9/1(Wed) The Astronaut's Wife

最近映画を観る頻度が高いのは別に思うところがあるわけではなく、 たまたま観たいものが重なったり、同僚が誘いに来たりするからだ。 今日も夕方に「何か観ない?」と同僚がやってきたので、適当に選んで 観に行ったのはSci-Fiスリラーの"The Astronaut's Wife"。 しかし、適当な選択はそれなりにしか報われないものだ。 Sci-Fiチャネルの1時間もの(CM抜きで40分)程度の内容を100分の 映画にしたもんだ、と言えばあとは推して知るべし。 良くも無いし、かと言ってわざわざ貶すほどのことも無いし、要するに どうでも良い映画であった。


作り手にとって一番堪えるのは、悪評だろうか、それとも無関心だろうか。 「愛の反対は憎しみではない。無関心である」というのを聞いたことがある。 コテンパンにこき下ろされたとしたら、少なくとも批評者がそれだけの エネルギーを注ぐ価値を見出したということである。無関心であられること、 どうでも良いこととして忘れられてゆくこと、それが一番辛いんじゃなかろうか。

出来の悪い作品を作ってしまった作り手は、本人の自覚の有る無しにかかわらず、 出来の悪い作品を作ってしまったというまさにその事実によって既に報いを受けている。 そこをあえて貶す行為は、批評者の愛の発露に違いない。 Web上での議論なども、大抵はそう思って眺めている。


蝸牛的ピアノ日誌:休み。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net