1999年7月

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7/31(Sat) どのくらい辛いの?

平和な土曜日。ピアノと洗濯とコード書き。 インラインスケートとテニス。夕食には冷麺。

数ヵ月前にホノルルに来たEは、週末になるとものすごい勢いで遊びまくる。 今日も午後にインラインスケートに来る前に、スキューバで潜ってから マウンテンバイクで山の中の滝に行って来たのだという。 正しいハワイの住み方とはそういうのなのかもしれん。

明日はイルカの居る浜に泳ぎにゆく予定。起きられたら、だが。


どのくらい辛いの? という問いは、私はしばしばすることがある。タイ料理や韓国料理のレストランなんかで、 初めてそのレストランに行った時とか、初めてのメニューを注文するときとか。 基準になる何かを見付けることができれば、そんなに不自然では無いんじゃないかなあ。 実際にした会話では、タイレストランで、「お客さん、よく韓国料理は召し上がりますか? なら大丈夫ですよ」なんて言われたことがあった。

関係無いが、こっちのタイレストランでは辛さがMild, Medium, Hotから選べることが多い。 が、Hotでも物足りないと思う向きは、メニューに書いて無くても "Thai Hot" というのを頼んでみられよ。 そりゃあもう、きっと満足ゆくだろうと思われる。


蝸牛的ピアノ日誌:指の基礎錬。 Alkan Esquisses 2, 3, 4。Chopin Etude 10-1, 10-2。

7/30(Fri) Limbo

今日の映画はしっとりとしたドラマ "Limbo"。友人が「この監督は良い」と推してたのだが、 確かに、うーむ、これは良い。ストーリーとしては途中に一度大きな転換があるが、この作品の ドラマは登場する人物にあるのではなく、むしろ登場しない人物---もしくはそれらの人物と 登場人物とのつながり---にある。画面上に派手さは無く、むしろ抑制の効いた演出とカメラなのだが、 見えないものの美しさというのが伝わってくる感じ。"Doroles Claiborne" の飲んだくれ親父役 の印象が強いDavid Strathairnが、悲しい過去を持つ寡黙な男を演じていてかっこいい。 この人の演技は味がある。

登場しない人物やことがらによって喚起される哀しいようなせつないような感じ、というのは、 例えば椎名誠のSF作品(「水域」「雨がやんだら」「アド・バード」等)に通じるものがある。 永遠に失われてしまって、もう取り戻せないもの。けれどそれは自分の一部にもなっていて、 自分の内部で生き続け、決して捨てられないもの。そういうツボを押されると、弱い。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2.

7/29(Thu) ソフトウェア談義

昨夜はワイキキのカプリチョーザに友人L及びそのガールフレンドと赴き、 いつもの調子(=野郎3人満腹分)で頼んだら、えらい量を食べる羽目に。 身体を90度以上曲げると逆流しそうなので、横になって象を飲んだ後のうわばみのように じっとしていたらそのまま入眠。これでまた腹に肉がっ。

最近急速にラジカルなAnti-Windows派に転じつつあるわたし。 これまで自分では使わずに難を逃れていたのだが、周囲にMSユーザがいる限り 逃げ切れないと思い知ったので、身近なとこから少しづつ環境を改善してゆくことにする。


パッケージソフトウェアで儲ける、という方法は早晩成り立たなくなるだろう、 という話を友人と。プロトコルが公開されていれば、互換性のある製品を作るのは 多くの場合難しくない。製品同士の競争になって価格は下る。再生産にコストが かからないソフトウェアでは、開発費が回収できたら後は只にしちゃったって良いのだから、 競争環境では価格が限りなくゼロに近付いてゆくことになる。 おまけにオープンソースの圧力もある。

それならばと非互換のプロトコルを勝手に導入してユーザを囲い込んでも、 クローズドな仕様の欠陥は全て自前で面倒を見なくちゃならないし (サポートはコストが かかるのよん)、不正コピー防止に血道をあげなくちゃならない。 一時期、ソフトは本体ではなくマニュアルで稼ぐってなことも流行ったが、 ドキュメントが全てネットに載っちゃう昨今ではそれも弱い。

一方、ユーザが本当に欲しいものは、特定の問題を解決するためのソリューションだ。 現状ではパッケージを買って来ても、それをカスタマイズしたりトラブルを解決するために 見えないコストを払わされている。 エンドユーザにとって、何のパッケージを使うかなんてどうでも良いことだ。 やりたいことがやれるようにセットアップしてくれるサービスがあれば喜んで 金を払うだろう。

もともとのコンピュータのモデルは決して複雑なものではない。 ところが、それを何とかエンドユーザから隠そうとごてごて付けるから、 却ってわかりづらくなっている。コンピュータを「いろいろなことに使える機械」として 使いたいなら、基礎概念の学習は不可欠。一方、ただのWebブラウザとして使いたいなら、 それ専用に特化したデバイスがこれからは主流になるだろう。

結局、これから食ってくにはサービスかコンテンツでしょう、というありきたりな結論。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2.

7/27(Tue) 色の知覚(生理学編)

緑考 (がくもんにっき7/26) で色認識の文化的な面に触れられていた。なかなか興味深い話だ。 「色」はあまりに身近にあるためになんだか物理的実在のような気がしてしまうが、 その認識過程には、物理刺激に対する神経細胞の反応という低次のレベルから 脳内でのシンボル処理という高次のレベルまで、多くの階層的な構造が関わっている。 人間の認識を離れて、色というのは存在し得ない。

色の認識が生ずるおおもとは、人間の網膜に、 吸収する波長が異る3種の細胞(「錘体」だったかな)があるからだ。 それぞれの細胞は、3原色である赤、青、緑に対応している (赤は実際には 黄色に近いスペクトルにピークを持つ)。3つの細胞への刺激の総合的な量が 明度、刺激の差が彩度と色相に関係する。

そのため、例えば黄色の単色光と赤と緑の光の重ね合わせとを人間は識別することが出来ない。 物理的に異ったものであるにもかかわらず、どちらも赤と緑の色覚細胞に同じパターンの刺激を与えるからだ。 「黄色」というエンティティはだから、人間の知覚系と物理量との相互作用としてしか既定できない。

鳥は4種の色を感じる細胞を持っているそうな。とすると、我々が同じ色と知覚する スペクトル分布の組合せが、彼等には全く異る色に見えている可能性がある。 彼等の「色立体」はどんな形になるんだろう? 色相が2次元になるのだろうか? 彼等にとって、印象派の点描画は、全く意味をもたない点の集合に見えるかもしれない。 逆に、犬は2種類しか錘体を持っていない。明るさという要素を除けば、 彩度と色相は一次元の尺度に縮退してしまう。青と黄色と、その中間の色は全て グレーになってしまうのだ…もし彼等が人間の色に関する言葉を解したとすれば、だが。

* * *

ところで、上記のような、 3種の色覚細胞が有ることから3原色というものが出て来るという説明はいろんな本に出て来るのだが、 では、何故我々は青--紫(マゼンタ)--赤という並びに連続性を感じるのだろう。 物理量としての光のスペクトルは、赤外線--赤--…--青--紫--紫外線という具合に 不連続なのにだ。紫側では青の細胞しか反応しない筈だし、赤側では赤の細胞しか反応しない筈なのに。

一応、私のあいまいな理解ではこうなる。 色知覚の本によれば、3種の色覚細胞の出力は網膜の奥で直ちに 赤緑の差信号(R-G)と黄青(Y-B)の差信号、それから輝度(だいたい0.5R+0.4G+0.1B)に変換されるとある。 黄(Y)は赤と緑から作られる(R+G)。 ということは、R-Gの差信号とY-Bの差信号が、彩度と色相を決定していると考えられる。 赤色知覚細胞への入力が無い場合、GとY-Gのバランスで 緑--シアン--青 という連続した 色の変化が得られる。 同様に、緑色知覚細胞への入力が無い場合、RとY-Rのバランスで 赤--マゼンタ--青 という 連続した色の変化が得られる。この二つは脳にとっては対称だから、物理的に 赤と青の中間色としてのマゼンタという波長が存在するか否かというのはもはや関係が無い。 紫系の色は、緑色の光の欠如の結果として生じているのだと言える。 (…もうちょっとすっきりした説明が出来ないかなあ。ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。)

更にこの上層に、色のセグメンテーションの問題があり、それが文化的な影響下にあるのは がくもんにっきさんのところにある通り。

* * *

ちなみに、コンピュータでは色をRGBそれぞれの要素の強さで表すことが多いが、 これは各要素を座標軸とする3次元空間内の立方体の中の一点として色を表していると言える。 ところが、人間が知覚できる色の集合というのをこの座標空間内に投影すると、立方体というより 丸みがかった凸図形になる。RGBの組合せで表せる全ての色は、その図形の内部に収まる立方体 であるから、RGB方式ではどんなにがんばっても絶対に表現出来ない色というのが存在するのだ(*)。

現実をコンピュータの中に再現することは一筋縄ではいかない。

(*)正確には、RGBにマイナスの値を許すとか、RGBのそれぞれの最大値が人間の認識範囲外の 色空間を指すように設定するとかすれば、理屈の上では全ての可視色を表現することが出来る。但しその場合、 知覚上存在しない色を表すRGBの組合せが生ずる。それを無理矢理表示させたらどうなるんだって、 そもそもそんな光を表現出来るデバイスが無いので分かりようがない。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses, "Laus Deo".

7/26(Mon)

プログラマとして何が気持悪いって、 「理由はわからないけど何故かこうすると動く」っていうのが一番気持が悪い。 一回終了して立ち上げ直すと直る、とか、インストールし直すと直る、とかいうのも同類。 計算機を全くのブラックボックスとして扱っている人から見れば、 不可思議な振舞いは魔法の箱に相応しいものかもしれないが、手品師たるプログラマは タネをちゃんと知ってなくちゃならない。

システムの規模が大きくなり、一人で全容が把握できないようになっても、 コンポーネント間のインタフェースを明確に定義しとくことで、各人は自分の責任範囲において 動作を明確に把握することができる。不確定な振舞いの忍び込む余地はどこにでもあるが、 「ここまでの使い方をする限りは記述したように動く、これから外れる使い方をしたら どうなるか知らないよ」という具合に対象領域を明文化しておけば良い。

Windowsとその開発環境は上記の逆を行っている。それに慣らされたプログラマは タネを知らない手品師になって行く。タネを知らない手品師は、自分のショーを自分で 制御することが出来ない。観客を巻き込んでの大惨事になる可能性をいつでも孕んでいる。 これがMicrosoftの大きな罪である。 不公正な商慣行なんてことより、そちらの方が遥かに深刻だ。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

7/25(Sun) 芸術観

芸術というものが、生活を離れたものとして考えられてしまうことがあるのは 不幸だと思う。

ラテン系の言語での "art" はその派生語を眺めれば、いわゆる「芸術」を指すだけで無く、 創造行為における卓越した技巧全般に関わっていることがわかる。 日本語の「芸術」というコトバは明治期あたりに作られた熟語くさいけど、 文字通りとれば「芸(=ちょっと他人には真似できない、おおっすごいぜと思われるようなわざ)のすべ」 である。英語→ハワイ語の辞書でartをひくと、hana no`eauとあり、 これは文字通りとればskillful work、「芸」ということばと通じるものがある。 共通するのは、それが「わざ」であり、しかも何らかの基準において特段に優れていると 見倣されるものであるということだ。

では、「わざ」が芸術となるには、一体それが何のためのものであり、どういう基準において 優れていなければならないのだろう。

こんにち芸術と見倣されているものの源流をたどってゆくと、それは古代における 宗教的儀式や祭にその端を発するように思える。儀式や祭は、日常とは区別された 「ハレ」の場であったが、それは日常と全く無縁の存在ではなかった筈だ。むしろ、 生存のための作業にひたすら追われる日常の中で表に現われて来ない、形而上的な 何かを目に見える形にして確認するための行為であったと言える。例えば収穫祭は、 そこに至るまでの日々において神に生かされていたことを形にして表すものだっただろう。 儀式における音楽、美術、踊りなどのパフォーマンス、その他もろもろの活動は、 祭の参加者全てが、日々感じてはいるが形には出来なかった何かを具体化する機会であった。

しかしいつしか、日常における無形のものを形にして非日常の場で提供するという活動そのものが 専業化し、一般の人々との分離が生じた。専業化は技術の大幅な向上をもたらしたが、同時に 非「芸術家」の人々が受け身になる土壌を作ったと言えまいか。本来、自らが参加して 形にすべきものが、パッケージ化されたものを消費する行動に置き換えられた。 もちろんパッケージ化された芸術を購入して消費するには、生活に追われるだけでない日常、 余った時間と財力を必要とする。 「芸術」という言葉に付随するどことなくお高くとまった雰囲気は、 『私は生活のエネルギーを「芸術」に割く余裕があるのよおほほほほ』という雰囲気なのである。 この時、芸術は消費される娯楽へと形を変えたのだ。

本来の芸術は消費されるものではありえない。 それは、「見えないけど普段感じている何かスゴイもの」をカタチにする行為であり、 主体的に参加することで初めて意味を持つものだからだ。 既存のジャンルにおける専業化は今後も進むだろう。彼等はもっとも分かりやすい形で 芸術を体現する。それに刺激されることによって、日常生活の中にある普段見落としてしまうものを 意識すること、そしてそれを新しい明日を実現するために用いること、それが非専業芸術家が 芸術に参加する方法である。そして参加した人はもはやただの娯楽消費者ではありえない。 その人自身が芸術家への一歩を踏み出したのだから。

もとの問いに戻ろう。芸術に値する「わざ」とは、見えないものをカタチにする形成力の 技術であり、それがどれだけ周囲の人の創造力を刺激したかによってその偉大さが測られるものだ。

そして、誰もが自分なりに創造的に生き、周囲を刺激することで芸術家となれる。 特別なことをする必要は無い。生活に楽しみを見出すことが創造に直結する。 芸術は日常生活の中からしか生まれ得ない。

「娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ。」 三木清:『娯楽について』、人生論ノート。


というわけで、ある人が書いたネタが他の人に受け継がれて次々と考察され文章化されてゆく Web日記の世界は、ひとつの芸術的な場であると言える。 上の文章は胡桃の中の航海日誌さんの日記(7/24)に刺激されて書かれたものである。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。

7/24(Sat) 飛行体験

ノースショアでグライダーに乗って来た。パイロットとのタンデム飛行で、 離着陸時はパイロットが制御するが、上空にいる間は自分で操作できる。 もちろん極端なことをすればパイロットが介入してくるけど。 20〜30分で$25 (20名以上の団体の場合)。自分で操作するのはもちろん、 グライダーに乗るのも初めての体験だ。

Gのかかり方が思ったよりすごくて驚いた。 こればかりはシミュレータでは体感出来ないだろう (それともパイロットの訓練用の加速度制御装置みたいのは既にあるんだろうか?)。 アクロバティックな飛行をやったわけではないけど、 旋回するだけでも、急激に変化するGと外に見えている景色とのギャップで 頭がぐるんぐるんしてくる。とうもパイロットにはなれそうにない。 でもあの浮遊感は良い。癖になりそう。 ちゃんと訓練を受けて、風の具合を感じるなんてことが出来るようになると面白そうだ。

60〜70mphくらい出ているのだが、乗ってても下から見てても非常にゆっくりと飛んでいる ように見える。何機ものグライダーが行ったり来たりしている様子は、 映画「中国の鳥人」のワンシーンを思い出させた。

帰りに海亀のいる浜で遊ぶ。波間に顔を出す亀がかわいい。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。まだ速くすると雑になる。

7/23(Fri) Drop Dead Gorgeous

空港で、手荷物受取所から搭乗口に(物理的に)階段を通って行けるってのはわりとよくある んじゃないかなあ。ホノルルもそうだし、ロスアンゼルス(LAX)もそうだったと思う。 もちろん階段には警備員が居て、搭乗口から受取所への方向は通すが、逆方向へは 通さないようにしている。朝日新聞のサイトで、羽田で乗り継ぎの客が搭乗券を見せて逆方向への 通過を許された例が出ていたが、それはまずいだろう。 米国ではこういうところの警備員というのは概して全く融通が効かない、というか、 職務に忠実というか。以前、どっかの空港(米国内)で搭乗待ち中にATMに行く必要があって、 それが持ち込み荷物検査のゲートを出たところにしかなかったことがあった。 事情を話して出たのだが、戻る時はまたゲートを通らされた覚えがある。


金曜日なので映画。友人がコメディが観たいというので本日公開の "Drop Dead Gorgeous" を観に行く。ミネソタ州の小さな田舎街を舞台にした、ミスアメリカコンテストの予選を巡るドタバタ。 かなりブラックな笑い。ライバル役のキャラクタ描写が典型的で、 ストーリーが単調、演出にも中途半端な感じがしてしまうので損しているが、2時間分は楽しめる。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。

7/22(Thu) 悪貨対策

訳あってここ2〜3日VisualBasicなどさわっていたのだが頭痛がしてきた (比喩でなく) ので 今日はさっさとあがる。私の精神が壊れる前に取るべき方策は。

  1. 今居るVB使いにC++を覚えてもらい、今後C++で開発を行う
  2. 今居るVB使いにJavaを覚えてもらい、今後Javaで開発を行う
  3. 今居るVB使いはVBを使い続け、それ関係のリクエストは全て彼に回し、 私はunixサイドの開発に集中する
  4. 見てくれだけWordクローン、 Excelクローン、Outlookクローン、Accessクローンを作成し、 ある夜全員のPCのOSをこっそりLinux+fvwm95に入れ換える

ここまでストレスがたまるのは何か間違った使い方をしてるんじゃないかと思い、 ネットを探してみたら、なんだ、皆我慢して使ってるのね。 パワーユーザほど欠点に明確に気づいていて、まともに動作する範囲でのみ使っているようだ。 建設的な態度…と言ってよいのかな。どのサイトも(本家MSのサイトのバグ情報も含めて)読めば読む程、 「使うな」というオーラを発しているのだが。

しかし、何故そんな開発環境がここまで使われているのかという疑問はまだ残る。 これまで「そんなものは使わなければ良い」で切って捨ててないのはそれが知りたいという一念。 まあ多分、MSの戦略 (広告、アプリケーションへのVBA組み込み) ってことなんだろうけど。 現実的な話、Windowsユーザが居り、ワークフローに合わせたカスタマイズ要求が 出て来る限り、誰かがVB、VBAの面倒を見なければならない。

やはり長期的に取るべき戦略は(4)しかない。かなり本気。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。MM=100のスローテンポでタッチをさらう。 表現以前に、均一なタッチを確保するのがまだ難しい。

7/21(Wed) 歴史の中を生きる

社会学をやってる人とメイルで話してて教えられる。 現在我々があたりまえのこととして受け入れている制度や慣習も、 歴史の流れの中でそれなりの理由があって形作られて来たということ。 こう書くと当然のことのようだけど、普段どれほど自覚的だろう。 そして、現在どう生きるかという選択は新たな歴史を作り出す。 歴史に名を残すのはほんのわずかな人達だけれど、 大きな流れは個人の生き方の集大成なのだ。

歴史の授業は苦手だった。何で関係ない昔のことを覚えなきゃならないんだと思って。 しかし、歴史上の出来事は多かれ少なかれ現在に影響を及ぼし、自分の生が歴史の大きな 流れの中にあるんだと感じると、歴史を学ぶ意味というのもはっきりしてくる。 ふと思ったのだが、現行の歴史の授業って、先史時代から始めて新しい方へと進んで行く (で、現代史の手前くらいで時間が無くなる)と思うんだが、逆に現代から始めて逆方向へ 進んだらどうだろう。例えば現代社会のある慣習、制度をとって、「何でこれはこうなの?」 と問いを発する。「それは実はね、100年前に〜」って感じで過去を導入してゆく。 下地が無いと却って混乱するかな。

最近、 "A Brief History of Hackerdom" (山形浩生さんによる和訳あり→ 「ハッカー界小史」) を読んで、改めて歴史の中に身を置いているんだなあと実感した。 コンピュータエンジニアリングの流れの中で自分は無名の一人にすぎないけれど、 足を突っ込んでいたおかげで、 いくつかの大きなターニングポイントを目撃してきたという感覚がある。 ま、コンピュータはほんの数十年しか歴史が無いわけで、大きな流れに比べれば ミクロなことかもしれないが。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。指使いを検討。右手と左手が重なる ところ(6、15小節目とか)でstaccatissimoを保つにはどうしたらいいんだ?

7/20(Tue) メロン

コリアンメロンというのを買って来てみた。外側は黄色で、細長くて、普通のメロンより小ぶり。 まず普通のメロンのように切ってスプーンで食べてみる。種の部分はやわらかいが、肉厚の 実の部分は堅い。仕方無く薄切りにしてみると、瓜のような食感。 ひょっとして熟れてないのか? 甘いのは甘いけど。

メロンというものは、少なくとも私が子供の頃は超高級食品だったような気が する。 単に家で滅多に食べさせてもらえなかっただけなのかな。カリフォルニアに行ったら 1ポンド35セントでごろごろ売っててびっくりした。高級メロンとは種類が違うんだろうけどさ、 一個まるまる買って2〜3ドルくらいのをおやつに食べていた。 すごく幸せな気分であった。

ハワイじゃメロンはちょっと高いが、こないだはパパイヤがごろごろ売ってた。 パパイヤは甘い果物だと思ってたんだが、青いうちにスープとか炒めものなんかに 使われているのも見る (それともグリーンパパイヤって別の種類なのか?)。 その場合、どっちかと言うと「野菜」という感じだ。ひょっとしてコリアンメロンも そういう使い方をするものなのかな。


ぢょしゅさん のところで老人性鬱病の症状の話が出ていたが(7/20分)、4つ以上だと鬱病になりかけ、 ってところで5つ該当してしまったではないか。

先日の筋違えといい、ちと身体の管理がおろそかになって来ているかも知れぬ。 規則正しい生活なんて別世界のことのようだ。 いや、不可能では無いはずで、タスクをきっちり管理していれば普通の時間に眠れて 普通の時間に起きられるはずなんだ。 制約の無い環境は自由な発想を保つのに重要だという理屈は容易になまける口実になり得るからなあ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。ちょろっと。

7/19(Mon)

今朝は早朝出勤でサーバのアップデート。以前から気になっていたバグがあったのだが、 ユーザがいない時にテストする必要があって延び延びになっていたのだ。 新しいコードは動作OKだが、パフォーマンスに若干問題ありそう。 しばらく統計取ってから考えよう。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2。一応覚えた。 数年前に比べて、譜面を見ながら弾くのがどんどん難しくなって来てる。 単に稽古が足りないだけだと思うが… 最近はまずとにかく譜面を見ないで済むように 覚えることを優先してる。だからやっと出発点。

7/18(Sun) Full Metal Jacket

最近でこそ毎週のように映画館に足を運んでいるが、こんなに映画を観るようになったのは こちらに移り住んでからのことだ。日本に居た時は多分数ヵ月に一度くらいのペースでしか 観ていなかったんじゃないか。ずーっと学生をやってて金も無かったし、金があれば芝居を 観に行ってたから。さらに、ビデオを借りて観るという習慣も無かった。 だから、実は誰もが観ているような映画を見逃しているということが良くある。 Star Warsも特別編が出たあとでやっとビデオで観たし、あろうことかE.T.はまだ観ていない。 そんなだから、映画に関して友人と議論してても時々困ることがある。 話題に出たタイトルは覚えておいて、後でビデオ借りて観るようにしてる。

"Full Metal Jacket" も見逃していた映画の一つ。一昨日、Eyes Wide Shutの話を してたときに話題に出たので、借りてきて観た。 はぁ、これ観てたらSaving Private Ryanの見方が違っていたかも。 単純比較は意味が無いけど、演技を通じて人間の深い真実を抉ってゆくという点では キューブリックは遥かな高みに居る。あらゆる「お約束演技」(Eric Morris言うところの "on the nose" acting") を徹底的に剥ぎ取ったところに残る演技は、 恐ろしくリアルだ。たとえ見かけ上は非日常的な様式であるとしても。

追い込み型の演出は多くのフォロワーを生んだけれど、実力の無い演出/役者がやると ただの自己陶酔に堕してしまう。結局、ごまかしの効かないところでどこまで勝負できるか ってことなんだろう。

さて、役者と演出家が持てる力ぎりぎりのところで勝負して生み出されるような映像に 匹敵するものは、コンピュータアニメーションで可能なのだろうか。 数人〜十数人の緊密なチームでなら出来そうだけど、現在のアニメーションの制作形態では それはちょっと不可能であるような気もする。あくまで「現在の」だけど。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses No.2

7/17(Sat) MIDI

日がないちにち、趣味のコード書き。まず外部MIDI音源のための デバイスドライバのパッチ を終わらせる。あとMIDI関連のツールを自分の使いやすいように書きたいんだが、 とりあえずネットからいくつか拾って来て比較している。

MIDI音源を買ってからもう半年あまりになるが、まだ積極的には活用していない。 Windows上のシーケンサソフトでちょっと打ち込んではみたのだが、余りの大変さに 途中で放り出していたのだ。譜面通り打ち込むのは楽だけど、それじゃ全然曲にならない。 一音一音パラメータを調節してゆく作業ってのは実に根気のいる作業だ。 実際に演奏すれば一瞬で済む様々なニュアンスの入力に何時間もかかる (と言っても、完全に思った通りに弾ける技術も無いんだけどさ)。 アルカンやゴドフスキーを入力した ナナサコフさんはやっぱり凄い。

難しいのは、譜面通りベタに入れた状態というのは異様に気持悪いということだ。 なまじっか音がリアルなだけに、音の表情の無さというのが際だつ。まるで死人が喋るのを 聴いているようだ。しかし編集時にはその状態のデータを繰り返し聴かなければならない。 もうほとんど拷問である。

ちょっと、演技とアニメーションの関係に似てるかなとも思った。 仕事中のCGアニメーターを後ろから見ていると、あれも気の遠くなるような作業である。 少しづつフレームを進め、レンダリングして、プレイバックで確認し、また少し修正する。 膨大な量のパラメータを調整しなければならないことと、 確認はリアルタイムで行わなければならないのに作業はリアルタイムでは行えない、 という点がよく似ている。

プログラマとしては、すぐに楽することを考え始めてしまう。 何とか手続き的にできるところは無いだろうか。ピアノで言えば、アーティキュレーションや ペダリングにはある程度定石があるのだから、あとで細かい調整をするとしても もう少し簡単に入力出来ても良さそうなものだ。 あるいはセミリアルタイムな入力が何とか可能にならないか…


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquissesと39-2を少々。

7/16(Fri) 太陽に一番近い日/Eyes Wide Shut

回帰線より赤道寄りにあるハワイは、年に2回、太陽が真上に来る瞬間がある。 Lahaina noonと呼ぶそうだ。ホノルルでは本日12時37分が2回目のその瞬間。 特に注意しなければ気づかない程の小さな出来事だが、 確かに、垂直に立っているポールや街灯からことごとく影が消えていた。 ま、それだけなんだけど、南の島に居るんだなあと実感する一日。 命名の由来や正確な日付は Bishop Museum内のサイトにある。 たいして離れていないオアフ島ホノルルとマウイ島カフルイでLahaina noonの起こる日が 3日もずれるというのがちょっと意外。


なるほど。 行動分析の見地から考えると、責任とは便宜上導入された随伴性になるわけだ。 多分、私が7/14で展開したような責任観を得るに至った動機は、 そのような「便宜上のルールとしての責任」に振り回されるのに嫌気が差したから なのかもしれない。


今日はキューブリックの遺作 "Eyes Wide Shut" の公開日でもある。 King St.にあるCinerama Theaterに観に行く。夜10時からの回は客の入りが 思ったより少なかったが、会社の同僚がたくさん居た。みんな好きそうだもんな。

で、感想。非常に非常に興味深い。人間の心の暗黒面と欲望と、 それに全く気づかずに生きている男。 その姿は悲しくあり、滑稽であり、しかし恐ろしくもある。 ぎりぎりまで追い込んだ演技と、1フレームたりとも妥協の無い完璧な映像で そのキャラクタが残酷なまでに鮮やかに映し出される。

良い役者ってのは怖いね。自分の中身を裏返して全部見せることと、 悪魔のような冷酷な計算で観客をだますのと、両方同時にやるんだから。

Bill (Tom Cruise) のキャラクタ造形が中心なんだろうけど、そのぶん Alice (Nicole Kidman) のキャラクタが後半弱くなったような気がして、 そこのところがちょっと残念。だって前半のNicole Kidman、怖いくらいに美しいのだ。

感動したかと聞かれたら、Noだ。 しかし、有無を言わせず観客を画面に釘付けにし、忘れられないしこりを残す、巨大な存在感がある。

一緒に観に行った友人と、映画が終った後夜も更けるまで解釈について議論。 そいつは必ずしも私に同意しなかったが、「少なくとも、観た後これだけ議論する気になったんだから、 良い映画だったということだけは認めよう」。

最後のシーケンスを観て。やっぱり男って女よりロマンチストなのかなとも思った。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses: No4 "Les Cloches", No5。

7/15(Thu) 努力観

昨日は責任について書いた。今日は努力について。

「努力」に関して、人は経験的に次の事実を知る。 何か実のある物事を作り上げる/成し遂げるには、相当の時間をその目的のために費すこと、 つまり努力が必要である。しかし、努力したからといって成果が得られるとは限らない。

これは冷酷な事実だ。何かに多くの労力を割いたら、それ相応の見返りが欲しいと 思うのが人情だろう。しかし運命はそんな思いを嘲るように、しばしば全ての努力を おじゃんにする。目に見える成果の影に、無数の報われない努力があったことを 皆知っている。努力が必要だって耳にタコが出来る程言われてるけど、なんか疲れそうだし、 結局無駄になるかもしれないなら、ほどほどにしときましょ。

そのような「努力」の性質を覆い隠そうという社会的な圧力もあった。すなわち、 成果ではなく「努力」に対して社会的に見返りを保障しようという仕組みである。 経済的成長が緊急の課題とされ、またその成長率が全員に対して成果を分配するに 十分であった時代はそれでもうまくいった。 だがそれは運命の持つ本質的な冷たさから目を逸しているだけに過ぎない。 それにそもそも、努力の量を評価することなんて出来るのだろうか。

努力主義の対極として成果主義がある。すなわち、明確な目標を設定し、 ひたすら努力することによってその目標を達成することにこそ価値があるとする見方だ。 しかしこの見方は容易に「失敗したのは努力が足りなかったからだ」という間違った認識に 結び付きがちだ。どんなに努力しても失敗する時はするのだから、 失敗の理由が努力不足であるとは限らない。

本当は、努力なんてそんな大仰なものじゃあない。 山のてっぺんの一本杉を見上げて、あああそこからの見晴らしは良いだろうなあと思ったら、 とりあえず登ってみるだろう。この山登りが努力だ。 でも、一本杉は動機ではあったけれど、それが全てじゃない。山を登っている途中の 森の木々や、刻々と変わる空気の匂いや、時々思いかけず現われる眺望や、そういったものが あるから登るんだとも言える。一歩一歩が本当に楽しくて、更にてっぺんに着いた時の 眺めをいろいろ想像してわくわくして、ひょっとすると途中で雲が出て何も見えなく なっちゃうかもしれないけど、でも山登りは楽しい。

自分の責任を自覚した時、人生における選択は二つしかない。今の所に留まるか、 登り続けて先を見るか。先にどんな危険があるか分からないけれど、人生がそういうものなら、 先に進んだ方が楽しいに決まってる。ふと気づくと、自分でもびっくりする程高度を稼いでいて、 それを人は努力と呼ぶのかもしれないけれど、自分はもっと先が見たいから進むだけ。 責任を果たすことは、自動的に努力することになってるのだ。

で、努力しなければ幸せになれないのではない。 幸せでなければ努力なんて出来るわけが無いので、この話は「幸福観」に続く… 筈なんだけど、それはまだちょっと自分の手に余るかなあ。


補記。素人行動分析によれば、上記のような努力の解釈は、遠い一本杉(最終目的)を随伴させる だけでは努力という行動が強化されにくいので、目標に至る過程において好子を積極的に発見するように して、行動の強化を維持しているのである。ってことになるのかもしれない。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。ああ努力が必要だ…

7/14(Wed) 責任観

昨夜は10時頃にちょっと横になったらそのままぐっすりと寝入ってしまった。 このところリズムがぐちゃぐちゃだったので強制リセットがかかったらしい。 しかし本日は再び夜半までメンテ。


さて、「努力と責任」( がくもんにっき。7/13/99付) については普段から思うことがあるので触発されて 書いてみる。今日は責任について。

「責任」という概念に関する我流の理解は、次の3つの認識の上に成り立っている。 逆に言えば、これらに対する自覚的な認識が無い相手に対して責任を語るのは私には 非常に難しい。

(1)からは、「人生にセカンドチャンスは無い」という系が導かれる。 今日始めるのと明日始めるのとで全く違った人生を歩むことになる「かもしれない」。 結局、あるタイミングであることがらを決断するというチャンスは常に一回こっきりしか無い。

(2)は、自由が極端に制限されるという目に遭ったことが無いので机上の空論かもしれないが、 V. フランクルなんかを読んでいると、多くの人が極限状況と考えるような時でも成立し 得るように思える。監禁されて洗脳されたら別だけど。 この項からはさらに、「任意の未来の時点での自分は、現在の状況と、これからの自分の選択の 積み重ねによってもたらされる」という系が導かれる。 無論、自分の力ではどうにもならない流れというのは存在するが、自分は常にその流れの中で 選択の自由を有する。

(3)は、まあ説明の必要は無いと思うが、意外と忘れがちだ。少なくとも私は子供の頃は 自分の死というものを具体性のあるものとしては捉えていなかった。 しかし、人生が有限であるという事実は、一度きりの有限なリソースを費して自分が得たいものとは 何だろうという問いを可能にする。

どれもあたりまえの命題だ。けれども、 私はこの3つの命題をはっきりと自覚した時、底知れぬ恐怖と、突き抜けた高揚感とに同時に 襲われた。全ての物事は、過去と未来を含めて蜘蛛の巣のように絡み合っていて、 現在の自分はその巣の中心を握っている。この手の中の切れそうな一筋の糸をどちらに引くかで、 自分の人生は想像もしないほど違ったものになるだろう。結果が見えない状態で かくも繊細かつ重大な決断をしなければならないという恐れ。そして、 自分の選択次第で大きな影響を及ぼすことが出来るという高揚感。 この手にしている広大な網が、責任だ。

死の直前の自分というものを想像する。その時自分は80になってるかもしれないし、 あるいは明日の自分かもしれない。その自分が現在の自分を過去として振り返って、 現在の与えられた状況において最良の選択をしたんだと思えるような選択をしつづけること。 これが責任を全うするということだ。

選択のチャンスは至るところにある。朝5分早く起きるかもうちょっと寝ているか。 朝出会った同僚に、ふと気になったトピックをもちかけて議論してみるか。 ランチタイムにいつも見かけるちょっと綺麗なあの人に話しかけてみるか。 ふと見かけた花の香りをかいでみるか。いつもと違う道を帰ってみるか。 見聞きした事物をどのように解釈するか。チャンスは山のように押し寄せて来ている。 その全てが何らかの影響を及ぼす。 人生の、なんとエキサイティングなことか。

なお、責任とはどこまでも主体的なものである。自分の判断と行動という 主体を抜きにして他人の「責任」を云々することには全く意味がない。 他人にどうして欲しいのかを、自分の責任に置いて判断し、 自分の責任において伝えるなり何なりのアクションを取る、というなら意味がある。

ここから「努力観」につながるんだけど、それについてはまた今度。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

7/12(Mon)

会社のパーキングにバックで駐車しようと、後ろを向いたはずみに首の筋を違えた。 いいのかこんなんで。

シリアルポートにつないだMIDIデバイスをLinuxで使うパッチをネットで探してみたが、 RedHat6.0についてくるサウンドドライバ (OSS/Free 3.8s2ベースにRedHat独自の変更を 加えたもの) でそのまま使えるのが見つからない。一番近いのが ここ にあるOSS/Free 3.8s9用のものだったので、これをベースにパッチを作り直す。 RedHatではコンフィグレーションの方法がオリジナルのOSS/Freeと違うのと、 IRQまわりのシステムコールも若干違うようだ。 3時間程粘ってコンパイルまで通したが、モジュールの初期化部分にも改変が必要なようなので 諦めて寝る。


蝸牛的ピアノ日誌:昨日の疑問について、 "Laus deo" はラテン語で、「神への賞賛」「神を賛えん」といった意味だと教えて頂いた。 なるほどねえ。

7/11(Sun) 欲しいコンピュータ

のんべんらだりと過ごす日曜日。インラインスケートして、洗濯して、 あとコンピュータに向かって調べものとコード書き。

コンピュータは自分にとって情報収集装置であり思考の道具である (さらに仕事道具でもある) のだが、現在のようにディスプレイとキーボードに縛り付けられているのはいかにも不便だ。 だいたい考え事というのはぐるぐる歩き回ったりごろごろ寝転がったりつらつら坐禅を組んだり してするものではないか。坐禅はつらつらとは言わないか。うとうとか。

したがって、コンピュータが真に思考の道具になるためには、「環境」になって欲しい。 まず現状のディスプレイは視野角が狭すぎる。机上一面を覆う120cm×90cmくらいの薄型ディスプレイと、 その正面に同じ大きさのディスプレイ。このくらいあれば複数の書類を連想のままに散らかすことも できるし、少し離れておおまかに眺めることもできる。 もちろんホワイトボード感覚で直接メモ書きも出来ると良い。 あとごろごろしながらアクセスするためにはノートパッドくらいの大きさ/重量の入出力デバイス。 これだと紙のノート感覚でデータの読み書きが出来る。

文字情報の入力は今のところqwertyキーボードに慣れているから、音声入力なんかよりも タイピングの方が速いだろうけど、これも慣れの問題。どこでも入力ということを考えると、 指に振動検知装置を付けてダッピングで入力するやつなんかが良いかも。

入出力一体型のデバイスになれば、ポインティングデバイスはペンみたいなものが 良いだろう。精度が出るなら指でも良い。視点検出入力は以前試したが、何かこちらの考えを 読まれているような気がしてやな感じだった。これも慣れの問題ではあるんだが。 また、ポインティングデバイスが使われているインタフェースのうち、本質的に絶対位置を取る必要が ある用途というのはあまり多くない。せいぜい選択範囲指定とお絵書きソフトくらいだ。 ボタンやメニューの類は、それらを直接入力する手段 (特定のジェスチャや音声コマンド等) が 提供されれば、慣れた人はそちらを多く使うだろう。

もうほとんどソフト屋さんになってしまった自分にはこんなデバイスを作る立場にはないが、 デバイスがあればそれに向けたOS/インタフェースミドルウェアは書いてみたいものだ。


どっちかっていうと自分のためのメモ的なLinux備忘録 だが、何か役に立つかもしれないので一応公開。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses "Laus Deo"。ほんの36小節の変な曲。 表題はラテン語かな。どういう意味なんだろう。

7/10(Sat) ダブル・アイデンティティ

「私には母国語が無いんだ」
幼い時に台湾からUSに移ったという友人がこう言ったことがある。 英語も台湾語も北京語も同じくらい流暢だ。しかしどれも、英語を完全に母国語としている人や 北京語を完全に母国語としている人程にはうまく話せないと言う。 後から習得した言語に苦労している身から見れば、両方の言語を自由に操ることが出来るのは アドバンテージだと思うのだが、当人にとってはそうでは無いらしい。 似たようなことは、やはり小学校くらいに日本から米国に移り住んだ友人も言っていた。 どっちも中途半端なのだと。

そういう感覚は自分にもわからないでは無い。大学院に長いこと居てから現場に来てみると、 現場から叩き上げの人に比べれば経験が浅いし、かと言ってばりばり研究して論文を 書くわけでもない。また移り気な性格のおかげでいろんな分野に手を出したが、 どれもその道一本の人に比べれば浅い。どことなく中途半端な感覚がつきまとう。 しかし、両方の世界に足を突っ込んでいるからこそ出来ることというのもある筈で。 片方しか知らない人には出て来ない発想、というのをすることが、 自分のアイデンティティの証明になるのかも。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-2通し。39-10冒頭。Chopin25-2。ちゃんとさらわないと どんどん雑になるんだけど、気力が出ない。

7/9(Fri) 人生設計/Austin Powers

401k(個人拠出型年金)の説明会に出た。給与からすこしづつ積み立てた資金を 退職後に備えて運用するもので、税金の優遇措置もある。(税法IRAの401k項に 定義されているから401kと呼ばれているそうな)。 しばらく前に税法が改正され、一時ビザで米国に滞在している人でも、 これに参加できるようになった。国外に退去した場合、積み立て金を追加することは 出来ないが、口座はそのまま残して運用を続けることが出来る。 しかし、「豊かな老後を過ごすために、今から準備を」って言われても、 1年後に何してるかわからないような生活で30年先のことを考えるのはしんどいなあ。

そんなことを言ってられるのは今健康だからこそ、というのは分かっているが、 人生何が起こるかわからないもので、どんなに貯め込んでも突然身ひとつで放り出される 羽目になるかもしれない。最終的に頼れるのは、自分の身体とそれまでに培った人間関係だろう。 いざって時に他人に頼ろうというのは虫が良すぎるか? いやいや、いざと言う時に 頼れる/頼られる信頼関係こそが何よりの共有財産なのだ。どんな人でも一人じゃ生きて いけないのだから。

とは言っても、身ひとつで放り出されないという可能性もあるので、その時にお金はあったら便利。 65やら70やらになってもretireする気は無いけど、プロジェクトを回すのに資金がいるかもしれないし。 皮算用は嫌いだが、保険のつもりでやっとくと良いかもしれないな。


さて、今日は金曜日。恒例の映画はギャク・パロディ満載の "Austin Powers: A Spy Who Shagged Me"。実は最初のAustin Powersは観てないのだけど、それでも映画冒頭から パロディの連続でかなり笑わせてもらった。表題の "Shag" はイギリスのスラングで セックスすること (で、ヒロイン役の名前が Shagwell)。アメリカではあんまり 拒否反応は無いみたいだけど、イギリスではかなりどぎつい単語らしく、アイリッシュのJは 「こんな単語を堂々と映画の表題に使うなんて…」と呆れていた。 まあ映画の中身も、セクシャルなジョークがかなり多用されている。

ただ、確かによく笑ったんだけど、どうもリズムの悪さが気になった。 アメリカ文化に疎くてパロディを掴み損ねたって可能性はあるけど、 もひとつはじけきっていないような印象があった。

そう、これから観る方は、クレジットロールを最後の最後まで観るといいことあるかも。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

7/8(Thu) 守秘義務

日本で大学院にいた頃は、「学生」と「社会人」という区分けが嫌いだった。 暗黙のうちに「学生」→「社会人」というパスが仮定され、 半人前もしくは非生産的に見られているような気がしていたからだ。 特に、現場を知らないと思われるのが嫌だったので、アルバイトをしまくったりしていた。 社会人と学生の間を自在に行き来する人と多く知り合うようになって、 それはただのコンプレックスだったのかなとも思うようになったが。

実際に「社会人」になっても、生活の上で変わったことはたいして無い。 やっていることは同じだし、生活習慣も変わりばえしない。 経済的にはだいぶ変わったけど。 ただ、一番大きく変わったなと感じるのは、NDA、守秘義務がらみのことである。

学生でも、競争の激しい分野で企業と共同研究をしているようなところは NDAに気を使わなければいけないかもしれないが、 私のいたところはのほほんとした雰囲気であったし、 外の人と話す時にも至ってオープンであった。 オープンな情報交換こそが文化発展により寄与すると思っていたので、 むしろ積極的にオープンにしてフィードバックを貰うという姿勢を大事にしていた。

出来るだけオープンにすべき、というのは今でも思っているし、 オープンソース、オープンドキュメントの文化も基本的には支持している。 しかし同時に、プロとして仕事をする以上、 話して良いことと話せないことの選別には気を使わざるを得ない。

NDAを守っていても、メタ情報は流れてしまう場合もある。 例えば、某社が次世代ゲーム機を開発してるんじゃないかという噂が囁かれて いるような状況で。ある時点までは「そんな話は聞いていない」 と言っていたのが突然「ノーコメント」になったら、言わずもがなである。 また、会社にどこそこの誰々が見学に来ていたとかいう情報を個人のWebpageに書くぶんには、 NDAには抵触しないが、それも一種のメタ情報になり得る。 妙な勘ぐりを避けるには、普段からクリティカルな話題には触れないのが無難という ことになる。ま、メタ情報に関しては防ぎようが無いので、あまり神経質になっても 仕方無いのだが。

ただ、マスコミ関係に進んだ友人なんかと飲んでいて、気さくに話しながらも どこかでブレーキをかけている自分に気づくのはちょっと寂しい。 そういう時だけ、学生の頃が懐かしくなる。


蝸牛的ピアノ日誌:弾いたというより触った程度。Alkan Esquisses 1, 2。 平均率1巻3。

7/7(Wed) 外国人労働者の疎外感?

七夕の日。人生に影響を与える発言をした。 後は言葉通りに実行するのみだが…


外国で働くにはビザが要る。エンジニアなら、米国では技能者向けの一時ビザH-1Bが よく使われる。以前(1998/8/14)、 H-1Bが非常に取りにくくなっているということを書いたが、 日経Biz ITのコラムによると、 今年も既に年間発行枠は一杯だそうだ。

同コラムは、コンピュータエンジニアリング等の特殊技能は腕さえ良ければ国籍は 問われないと語る。しかし、外国人は社会的な壁が存在し、 職場での疎外感に悩まされることも多いとも。

私の知る範囲では、「腕さえ良ければ」という部分は確かにある (腕の良さを 客観的に示す実績は必須だが)。しかし「疎外感」の部分はよくわからない。 私の場合は日系企業だし、日系人の多い街にしか住んだことがないからかもしれないが、 ほんとうに外国人労働者が外国人であるが故に特別に疎外感を感じるなんてことが 言えるんだろうか。

成長期に通り抜けて来た文化の差異はある面で一種の壁ではある。 アメリカンジョークのどこがおかしいのかわからない、とかいう点だ。 今朝もホッケーの合間にホッケー仲間の北米人達が、同僚が新しく買った車に ついてジョークを飛ばして大笑いしていたんだが、何がそんなにおかしいんだか さっぱりわからなかった。こういう共有できないノリというのは確かにある。

しかし、それをして疎外感というのも変ではないか。じゃあジョークが分かって、 お互い共通の文化基盤を持って、安心して話が出来たら孤独じゃ無いんだろうか。 日常生活をほっとさせる要素のほんの一つではあるかもしれないが、 それによって孤独かどうかが左右されるというのは、どうも一面的な人間関係である。

私はモノ作りの世界に浸かって来たので、 その世界での価値観というのがどこかしらにこびりついている。 母国で異なる価値観の日本人に囲まれて過ごす方が、 異国で異国人のモノ作り集団に囲まれているより疎外感を感じそうな気がする。

ま、そういう状況になってみなくちゃほんとのところはわからないけれど。


蝸牛的ピアノ日誌:さぼり。

7/5(Mon)

独立記念日の代替休日。インラインでAla Moana Parkをぐるぐる走る。

その後シャワーを浴びて、身体を拭いていた時。脚を拭くために勢い良く 屈んだら、バスルームのシンクの角に思いっきり頭をぶつけてしまう。 たんこぶなんか作ったのは久しぶりだ。 我ながらのアホさ加減に一人笑う…はたから見たら不気味だろうな。 それにしても、こういうふうにぶつけるというのは、身体感覚もしくは 空間把握能力に問題があるのだろうか。よくドアをくぐる時に肩とかぶつけたりも するのだ。

PC増設計画は、1台目にIP Masquaradeの設定を行いルータとして 機能させるところまでOK。ついでにオンデマンドでプロバイダに電話をかけるように してみた。このへんの設定は、参考にしたドキュメントの場所も含めて すぐに忘れてしまいそうなので、メモに残すことにする。完成したらWebで公開する予定。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan Esquisses 2 (Le Staccattisimo) をちょっと弾いてみる。

7/4(Sun) エンドユーザサービスの値段

昨日の、グラフィックボードが認識されない件は、すぱっと諦めてRIVA TNT2 Ultraを返品 することにした。かわりに一世代前のRIVA TNTを買ってきて、こちらはすんなり動く。 こっちの店は一度開けたものであってもとやかく聞かれず返品できて便利だが、 店のほうは客の言いなりで大丈夫なのかな。余計な心配か。 一日使ったくらいで減るもんじゃなし、封しなおしてまた売ればいいのだから。

標準のインストーラ以外で設定をいじる必要があったのは/usr/lib/X11/XF86Configと /etc/isapnp.conf。後者はPlug&Playのネットワークカードを認識させるために 必要だった。ネットワークがつながったところで、1台目をキーボードとディスプレイ無しで Linuxが立ち上がるように設定。こいつは常時Linuxを走らせて ゲートウェイ、ルータ及び内部Webサーバにする。細かい設定は明日かな。


母親から電話がかかってきた。何かと思えば、エラーが出てメイルが使えないとのこと。 業務で端末を触る以外は全くコンピュータに無縁だった母親だが、最近仕事でも「パソコン」を 使いだし、家でも練習したいということになったのだ。で、先日帰国した際に一緒に 秋葉に行って適当なノートPCを買ってきたのだった。基本的な設定は済ませて 最低限の操作だけはメモしておいたのだけれど、どうも想定外のエラーが起きたらしい。 電話では詳しい状況がわからないので (しかも電話が一回線しか無いから、 電話でガイドしながら実際にダイアルアップの操作をしてもらうということが出来ない)、 「そのまま仕事場に持って行って詳しい人に聞くのが一番早いよ」ということになった。

母親が自宅でPCを使う場合、用途としてはメイル、ワープロ、たまにWebぐらいだろうから、 性能的には数世代前のモデルでも十分なはずである。しかし何かトラブルが起きたとき、 実家には対応できる人間がいない。職場なり近所なりの「強い人」に教えてもらえる可能性を 最大化するなら、もっともシェアの高いソフトウェアの現在のバージョンが特別な工夫無しに 動作し、ハードウェアのサポートも受けやすい機種を買わざるを得なくなる。 たとえそれが性能的にオーバースペックで高価なものだったとしても。

この場合、性能的に必要だったもの以上に支払った金額というのは エンドユーザから見れば「困ったときに相談できる」ための保障みたいなものだ。 しかし現実には、その金額はメーカーに行き、実際に相談を受ける周囲の人々は 無償でそのサービスを提供する。構造的には何かおかしい。 メーカーもサポートサービスなどを提供しつつはあるが、エンドユーザーは やっぱりそばにいる人に状況に即して教えてもらいたいものである。

エンドユーザが新型モデルを購入する理由が「困ったときの保障」であるのなら、 かわりに「旧型モデルをあなたの用途に合わせてチューニング、必要なソフトウェアを 揃えてお届けします。チュートリアルからトラブル時の出張までサポートも万全」って 商売が出てこないかな。OSにLinuxでも入れれば通常の用途にはハードウェアへの 要求もそんなにシビアでは無いだろうし、事実上価格の多くの部分がサービス料 ということになるだろう。本当に金が回るべきところはそういったサービスなんじゃ ないかと思うのだが。


蝸牛的ピアノ日誌:おさらい。Chopin10-1、10-3、25-2。Debussy Clair de la lune、 Alkan Esquisses 1。

7/3(Sat) 2台目は$1,000 PC

連休だけれど、特に遠出の予定は無し。仕事あるし。昼間は運動もしくはひなたぼっこ、 夜は新しいPCを組み立てることにする。

今のPCも、私の普通の使い方では能力的に十分だ (Pentium 200M)。 ただ3Dグラフィックカードが無い。新しいグラフィックカードはみんなAGPバスなので マザーボードを変える必要がある。それならいっそもう一台組んでしまえ。 常にLinuxが走っているサーバーマシンがあると便利だし、 2台以上をネットワークで繋いで実験も出来る。 かねてより考えていたこの計画を実行に移すことにしたのだ。

ざくっと予算を$1,000と決めて買い出しに行く。Pentium III-450M、 マザーボード、128MB RAM、Riva TNT2 Ultra、 8.4G HDD、ネットワークカード、それにケースでとんとん。 CD-ROMとサウンドカードは1台目のを引っこ抜いて使う。 相場を普段から見てないのでよくわからないけど、ハワイじゃ選択肢少ないし、 こんなもんかな。2台目だから使い回しの効くパーツがあるとは言え、 PC関連部品の値下がりは凄い。1台目を組んだのが1年半前。 その時に比べ、本体は同じ予算でも性能が3倍くらいになってるんじゃなかろうか。

今日は組み立ててLinuxのインストールまで。ブートはしたけど、 グラフィックカードの認識がうまくいかない。 XFree86-3.3.3.1はAGPのRiva TNTに対応してるはずなんだけど、 ひょっとしてRiva TNT2 Ultraは互換性が無いのかな。それだとかなりショック。


独立記念日の前夜の花火。うちの真正面で行われるので、 ベランダに椅子を出して飲みながら鑑賞。綺麗。


蝸牛的ピアノ日誌:昨日、Amazom.comで買ったAlkanのEsquissesのCDが届いた (演奏はLaurent Martin)。 49曲からなるこの曲集は、`Esquisses' (スケッチ、素描) の名の通り、 1〜2ページ程度の小作品集だ。しかし楽譜を見ながら聴いていると、 Alkanの大作に出てくるいろんなエッセンスが一つ一つ取り出されて 研究されているのがわかる。大作に手を出す前にこっちをじっくりさらった方が 良いのかも。

7/2(Fri) The Castle/リラクセーション

独立記念日の週末を控えて街には臨時花火ショップが次々と開店し、 道行く人も心なしか浮き立っているようだ。この週末の目玉映画といえば スペシャルエフェクツ満載の"Wild Wild West"か、連続殺人事件を題材にした スリラー/ドラマ "Summer of Som" か、はたまたほのぼのとした絵柄と ブラックな笑いのミスマッチが異色のアニメーション "South Park" かって ところなのだが、ここはひねくれてオーストラリア産コメディ "The Castle" を観に行く。

オーストラリアの郊外の街、空港に隣接する家に住むKerrigan一家は、 平凡だけれど幸せな生活を送っていた。ところが空港の拡張工事が決まり、 Kerrigan家が強制収用されることになって巻き起こるてんやわんや。 オーストラリアでは1997年に公開されかなりヒットしたらしい。

ハリウッド映画のドタバタと違って、事件自体はゆっくりとしか進行せず、 日常のディテールの描き込みでドラマを作る。家を守るため立ち上がるおとーさんは 終始どこかずれていて、その一所懸命さもアメリカ的正義の味方とは違った おおらかさがあって、なんか良い。ただ、セリフがこてこてのオーストラリアン アクセントで、微妙なギャグがあんまり聞き取れなかったのが残念。 事件が起こらないので、聞き取れないとちょっとつらい。 しかしほんとに向こうの人はトダイとかマンダイとかイッツァグライトダイとか 言うのだなあ。


帰国してからどうも眠りが浅く、日中も調子が出ないので、リラクセーションを試みた。 背中の上の方と脚が自覚していた以上に緊張していた。 本当は日常的にやるべきなんだろうなあ。

身体の緊張はしばしば心の緊張とリンクしている。自分でも気づかないように 封じ込めていた感情が、身体の緊張を解くに従って露わになってくることもある。 今回感じたのは、「怖れ」と「前に進みたくない、留まっていたい」という気持ち。 現在の状況と照らし合わせて、つながる部分あり。


蝸牛的ピアノ日誌:平均率1巻2と3。

7/1(Thu)

7月か。昨年の7月はいろんなことがあって、一体どうなることやらと思っていたが 振り返ってみれば何とかなっているのが不思議。ありとあらゆる可能性を予想した つもりであったが、大勢としては穏やかな方向に落ち着いてはいる。 一方で全く予想もしなかったことも起こったりしていて、人生というのは面白い。

人によっては自分の専門分野における未来というのを多少見通せたりも するのだろうけど、こと自分の人生そのものがどうなるかを見通せる人は 居ないんじゃなかろうか。もちろん、「なりたい自分」というのを設定 することは出来るだろうが、それは目標あるいは願望であって見通しとは違う。 現在の社会の流れと自分の所属する階層一般の平均像とを照らし合わせて 将来はこんな人生になるだろうと予想しても、それはあくまで無個性なサンプルを 外から見た予測であって、自分が主観的にその人生を生きるという視点では無い。 結局のところ、人生「やってみなけりゃわからない」ってことだ。

全く見通しの無いところを進まなきゃいけないとなると、人間何かの指針が要る。 人によってそれは何かの哲学だったり宗教だったり世間の流れだったりするのだろうけど、 何を選ぶにせよ、その時代や社会と無縁ではありえない。 私は「心の底からやりたいと思えること」というのを指針にしてるけど、 そういう指針を選ぶ、ということ自体が現代社会の流れに規定されているのだ。 そう思ったらあんまり構えて声高に宣言する必要も無いのかもしれないな。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損。この節に込められた形而上学的意味を 噛みしめつつ、今日もビールを飲んでごろごろ。


蝸牛的ピアノ日誌:自分にプレッシャーを与えるつもりで始めたこの日誌が これで一ヵ月。確かにプレッシャーにはなってるけど、系統立った稽古をするまでには 至っていない。ま、気長に行こう。Alkan39-10ちょっと。平均率第1巻から弾いたことの あるやつを選んで少々。全然弾けなくなってる…


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Shiro Kawai
shiro@lava.net