1999年6月

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6/30(Wed)

起床時間が無闇に遅くなっている今日この頃。仕事はその分夜中にずれ込む。 というか、夜中にしなければならない作業がまだ全部自動化できてないから 仕方無い。会社で作業の合間にGladeをコンパイルしてみるが、既にインストールしてある ライブラリと形式の違い(O32とN32)がありてこずる。結局GimpもN32でコンパイルし直し。

一昨日から紹介しているハワイ語の話は、ふと気が向いて購入した "Beginner's Hawaiian" と以前購入したハワイ語辞書によるものだが、 ぱらぱらと眺めていると、これまで外国語はヨーロッパ系の数種しか触れてこなかった 身にとっては新鮮な事実がたくさん。Be動詞が無いこととか、this/thatよりむしろ 「これ/それ/あれ」の区別をするとこなんかは日本語にも似てるけど、 文法はかなり違うような。

今日の豆知識:ハワイ語にはweather天気にあたる言葉が存在しない。 言われてみればなるほど、「今日の天気は?」って聞かれても、 一年中「晴れ、時々にわか雨、風強し」だからなあ。 しかし、「雨」の種類を表す単語は130種、「風」の種類を表す単語は160種有るそうな。 つまりgeneral termとしての「天気」という言葉を持つ意味が無い、ということかな。

こういう話を聞くと、自動翻訳の研究なんてのはつくづく大変そうだなと思う。 もちろん応用範囲を限って実装するのだろうけど、コミュニケーションということを 重視すればする程、アルゴリズムに乗ってこない微妙な雰囲気の違いに悩むことに なりそう。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10ほんの少し。特に気合いを入れてるわけではなく、 楽譜が広げっぱなしになってるからつい。集中しないで弾いてもあんまり意味が無いんで 良くないのだが。

6/29(Tue)

わたしゃちまちまテキストエディタでソースを書くのが性に合ってると 思っていたのだけれど、近年のヴィジュアル系プログラマ (本人の外見が、ではなくて、使用ツールがヴィジュアル) に対抗するために、Glade をインストール してみた。フリーのユーザインタフェースビルダである。 ちょろっと触ってみた限りではなかなか良さそう。 最近のフリーのGUIツールは見栄えも良くなったなあ (Gtkが凄いのだけれど)。

昨日のハワイ語の話に補足。dualとpluralの区別があるのは人称代名詞の場合で、 普通の名詞は単数か複数かの区別しかない (冠詞で区別する)。 おもしろいことに、Dual, Pluralの一人称代名詞はさらに、対象が相手を含む場合と 含まない場合で形が異なる。Hele kakou i Hawai`i. と言うと、「私達はハワイに行く (あなたも一緒にね)」、Hele makou i Hawai`i. と言うと、「私達はハワイに行く (けれどあなたは行かない)」。古代のポリネシアで、 話し相手を対象に含むか含めないかはかくも大切なことだったのだろうか。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

6/28(Mon) 満月/「1, 2, たくさん」

生まれも育ちも東京で、月というのは黄色でときどき赤みがかっているものだと 思っていた。だからこっちの満月は、もう20回くらい見ているはずなのに、 いまだに新鮮な驚きを持って眺めてしまう。

広い空に悠々と懸かる満月の光は、銀色だ。色合いを言うのに銀色というのは 変だけれど、あんまり明るいのでついそう言いたくなる。 輪郭も模様もわざとらしいほどに鮮明だ。 私のアパートメントは西向きにベランダがあるので、 夜更ししていると海に向かって傾いて行く月が見える。 海面からの反射も加わって、窓は不思議な光に包まれる。 まるで何か、この世ならぬものが窓の外に訪れているような。


最近流行り? のリンクから: 人間は2つまでは少ないと思えるそうだが、3になると多いと感じる そうで。覚えたばかりの知識をひけらかそうっと。 単数形/複数形の概念がある言語は多いが、ハワイ語には3種の数の概念がある。 単数形(singular)、二つのものを表す形(dual)、そしてそれ以上を表す形(plural)だ。例えば "oe": あなた(1人)、"oula": あなたがた(2人)、"oukou": あなたがた(3人以上)。 手元のテキストによれば、dualとpluralは会話であっても 非常に厳密に使い分けられるそうだ。

ただし数詞はちゃんと3以上のものもあり、 3つ以上はなんでも「たくさん」なわけでは無い。


蝸牛的ピアノ日誌:お休み。

6/27(Sun) スケート購入/外国語モード

ごろごろと怠惰な週末を送りそうになるが、 これではいかんと夕方から起き出し、 インラインスケートを買いに行く。今使っているMissionのインラインホッケースケートが、 フレームが削れてホイールを支える軸が取れそうになってしまったのだ (ホッケーストップが下手なせい)。 近くの総合スポーツ用品ショップでフレームだけの交換が出来ないかどうか聞いてみたら、 無理とのこと。プロショップならやってくれるかもしれないけど、近くには無い。

買ったのは同じくMissionので、タイプMod6。前二つと後ろ二つでホイールの直径が 違う (前72mm、後80mm) やつだ。早速Ala Moana Parkをぐるぐる走ってみる。 前の小さいホイールは加速時に蹴る時なんかに変に引っかからないので良い。 しかし高速走行時はすこし後ろに重心をかけた方がいいのかな (ホイールの直径が 大きいほうがスピードが出る)。ちょっと不自然な気もするのだけれど。 足首のサポートはしっかりしている。


日本で台湾人達とうろうろするのに付き合ってくれた学生時代の友人の一人は、 今は中国語の翻訳をしている。だから当日は日本語と英語と中国語がごちゃごちゃに飛び交って 妙に楽しかった (全員がfluentな共通言語というのが無かったので)。その友人と通訳に ついて話してたこと。

はじめのうちは、頭の動作に「日本語モード」と「外国語モード」があり、 それをスイッチしている。日本語モードは普通の状態で、外国語モードはその言語を 使うことに集中している状態と言ってもよい。集中しているため、外国語モードの時に 日本語で話しかけられても外国語で答えてしまうことがある。

慣れてくると、外国語を話すのに特別な集中はだんだん必要無くなってくる。 モードの切替えは起こらず、日本語と外国語間を自由に行ったり来たりできるようになる。 帰国子女同士の会話で言葉がちゃんぽんになっているのを耳にするが、そういう感じだろう。 ただしこの状態になったからと言って、その外国語が自由自在になったとは限らない。 単に気合いを入れないでも話せるようになるというだけである。

この状態の時は注意してないと、自分がどっちの言葉を話しているかということを あまり意識しない。日本語のわからない相手がたまたまカタコトで「コンニチワ」と 言ったりすると、日本語でぺらぺら話してしまい、きょとんとされることなんかがたまにある。 自分ではどっちで喋ったか覚えてないので、話しが噛み合わないのはなんでだろうなんて 思ってたりする。いや、ぼーっとしてるだけかもしれないけど。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10、またピアニシモのトリルのところ。こればっか。

6/26(Sat) Tarzan/A dream of passion

2Dアニメーションと3Dグラフィクスの融合はもうあたりまえのことになりつつある。 Disneyの新作 "Tarzan" は背景にふんだんに3Dを使用し、素晴らしい効果を上げた。 はっきり3Dとわかるシーンでも、2Dのキャラクタとのミスマッチが気になるということは 無い。むしろ3Dならではのカメラの効果は観ていて快感。 レイアウトに相当時間をかけたのか。 コリオグラフィー、アニメーション、音楽、どれもものすごい完成度。

"Mulan" からこっち、Disney制作のアニメーションはちょっとこれまでと 違ったスタイルを指向しているように思える。今回も、絵のスタイルがひと味違うし、 三枚目キャラクタもあまりうるさく無い。 ただし結末に関してはやっぱりDisney。野性と文明の間でアイデンティティが揺れる Tarzanの悩みも、ムズカシイ部分にはあっさりと目をつぶり 悪者ひとりやっつけてハッピーエンド。やっぱりそうならざるを得ないのか。 もっとも、登場人物の葛藤は "Lion King" なんかの類型的描写に比べれば ずっと良く描かれていると思う。おすすめ。


日本への行き帰りの飛行機の中で読んだ本、Lee Strasberg:"A Dream of Passion"。 Strasbergが自伝的に、"Method" の成立について語ったもの。 Stanislavskyの "System" から Strasbergの "Method" に至る歴史的な流れが、 近代・現代演劇の発展とも絡めてわかりやすくまとめられていて面白い。

"System"と"Method"は、演技に関する体系的な技法である。必ずしもこれらの 有効性を肯定する人ばかりではないが、芝居をやる人は誰でも聞いたことはあるはず、 という技法だ。アマチュアの小劇場演劇をやっていたころは、「頭でっかち」になる のを嫌ってあまり理論を勉強しなかった。舞台をちょっと離れてからいろいろ読んでみて、 やっぱり理論は必要だなと思う。もちろん読んでるだけじゃだめで、学んだ技法を 日常の中で訓練していかないといけないのだけれども。

"System"から"Method"、そしてもうひとつ私が興味を持っているEric Morrisの "Being" までの流れをそのうちまとめてみたい。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10、再びピアニシモのトリルのところ。 平均率もちょっと。

6/25(Fri) 多様なプログラマ。或は日米文化の差?

今回の東京出張の主目的は、USAのほうで2年前にやったプロジェクトの概要を 本社のプログラマ向けに説明するという、一種の技術セミナーだった。 2年も経ってしまえば、当時最高性能のグラフィクスコンピュータで実験した技術も さほど珍しくなくなり、普通に手に入るコンピュータで何とか手が届きそうだ (全部は無理だけどさ)。だから何を今更という感じではあるのだが、 本社とUSAとの技術交流がこれまでほとんど無かったので、 新しい試みとしては良いものだと思う。

USAのR&Dチームはほとんどワークステーションなどハイエンド機での グラフィクスを手掛けてきたプログラマであるのに対し、今回のセミナーの参加者の 多くはゲームプログラマである。制約の多いゲーム機でのプログラミングはまた 違ったデザインポリシーとテクニックが要求されるわけで、こちら側(グラフィクスプログラマ) から見ればどのへんに興味の対象があるのか掴みにくい。 重点を置く場所を明確に定められないまま、結局、学会でのプレゼンのような スタイル (スライドを使った技術説明+質疑応答) で行うことになった。 事前に一部分の内容をUSAのスタッフ30人程にプレゼンしたときはそこそこディスカッションが 盛り上がったので、これでいけるかなと思っていた。

ところが、70人程が参加した実際のセミナーでは質問がほとんど出ず、 一方的に喋るだけという恰好になってしまった。質問が出ないというのはかなり悪い兆候である。 聴衆が話題に興味を持たなかったということだからだ。 しかし、セミナー終了時に書いてもらったアンケートをあとで読んだところ、 意外と皆いろいろな意見を書いてきてくれている。中には話題にした問題に関して 別の解法を提案するものまであって、こういうのを質疑応答の時間に出してくれていたら 面白くなったのにとも思うのだが… まあ議論しやすい雰囲気を作るのもひとつのプレゼン技術なのだろうから、 その点で不足があったのだろう。 それにしても、USAのスタッフと東京のスタッフで反応の形が違うのは何故なのだろう。

USAのスタッフがグラフィクスプログラマだったのに対し、 東京の参加者はゲームプログラマだったというバックグラウンドの違いはあったかもしれない。 自分の知らない事実でも、講演者が当然のことのように語っていると 「ふうん、そっちの世界ではそういうことになっているのか」と納得して しまって質問しない、ということは考えられそうである。

あるいは、日米の文化の差とでもいうべきものがあるのかもしれない。 私の経験した範囲では、日本の学校や大学の授業で質問というのはほとんど 出なかったように思う。大学の輪講でさえ滅多に活発な議論というのを目にしなかった。 (理由は忘れたが、私はある時点で「輪講の時間は必ず一つ以上質問しよう」と決めて、 内容はともかく質問しまくっていた。 それを始めた当初、友人に「いったいどうしちゃったの?」と驚かれたものだ)。 米国で授業を受けたことはないが、聞くところによると質問は活発であるという。 米国で学会や会議でのディスカッションに参加すると、わからないことは 素直にわからないと言う態度が肯定されているという雰囲気を感じる。

何も考えずにわからないを連発されても困るが、 わかっているのかわかっていないのかわからないというのも難しい。 ものを教えることを生業としている方はこのへんはどのように処理されておられるのだろう。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10、ピアニシモのトリルのところ。 あとChopin10-1ゆっくり。 日本で、井上直幸「ピアノ奏法」なる本を買った。 書かれていることには納得できるし、学ぶことも多いのだが、 同時に道の遠さを実感させられてしまう。

6/24(Thu) トウキョウの台湾人

出張より帰還。 今回は台湾系(在米)の同僚及びその友人達が一緒だったので、 休日は東京名所たらい回しツアーだったのだった。
友人J曰く「日本人は行儀が良い。」
そうかあ?
「だってきちんと行列作って待ってるじゃないか。誇るべき美徳だよ。」
んー、そういうもんかいな。

私は都内の実家に泊まったのだが、目黒の本社まで朝は1時間ちょっとかかる。
「えっ、1時間?? 同じ東京なんだろ。」
まあ、それはそうだけど、ほら、LAでもサンタモニカからパサデナまで通うって 言ったら、朝は大変だろ。
「ふうん。東京って広いんだ。」
いや、LAと比べたらそんなこともないんだけれども… そういえば、何でこんなに時間がかかるんだろう。

今日もあちこち観たし、このへんでお茶にするか。
「あー疲れた。」
乗り換えやら何やらで結構歩くからね。そうとうしんどそうだね。
「それにしても、彼女達 (同行した私の学生時代の友人達) はすごいねえ。 あんなにスリムなのに平気な顔をして歩いているじゃないか。日本の女性は強いねえ。」
おぬし、もうちょっと運動したほうが良いんじゃないか?

好評だったのは、浅草寺、水上バス、月島のもんじゃ焼き横丁。 不評というか、あんまり関心を示さなかったのは秋葉原、新宿--- 「台湾にもおんなじようなところがあるし」。まあそうかもね。


日本にいる間にいろいろ事件があったようで、 びっくりしたのは スティーブン・キング重傷のニュース。 どうにか回復に向かっているようでほっとしたが…。


蝸牛的ピアノ日誌:眠いのでさぼり。ちょろっと触る。

6/14(Mon)

できた〜。4時間分の技術プレゼン資料と、ペーパー1本。 プレゼンの方は2人でやったとは言え、結局最後の最後まで抱えてしまった。はあ。

というわけで明日から東京に出張のため、しばらく日記の更新を休みます。


蝸牛的ピアノ日誌:眠いので休み。

6/13(Sun) 山の呼び声

昨日の帰宅が朝だったので、結局昼過ぎに起き出す。 明日締め切りのタスクのためにオフィスに出かけようとしたのだが、 ふと見上げた山があまりに美しかったのでドライブすることにした。

ハワイはほぼ一年中、北西から強い風を受ける。太平洋を渡って来たその風は 島の背骨にあたる急峻な山脈に衝突し、島の北西部(Windwardと呼ばれる)に雨を降らせる。 一方、Honolulu, Waikiki, Kahala, Hawaii-Kai など、そびえたつ山脈に風を遮られる Leewardと呼ばれる側はいつも晴れて、時々シャワーがある程度。 ホノルルから山を見ると、大抵はWindwardからはみ出して来た雲が、ケーキの上にたっぷり かけられた生クリームのように、山の上の方にかかっている。

その雲が今日はかけらもなく、彼方の山脈 (と言ってもせいぜい海岸から数マイルしか離れて いないのだけれど) まで実にクリアに見渡せた。緑に覆われた急斜面が幾重にも重なる様子は 見ているだけでわくわくするものがある。 こんな日にオフィスに閉じ籠るなんて正しくない。

ホノルルのダウンタウンからPunchbowlクレーターの裏を通ってManoa Valleyへ。 ほんの10分で、周囲はすっかり山の景色になる。窓を全開にして鳥の声と森を渡る風の音を 聞きながら、ゆっくりとつづら折りになった急傾斜の道をドライブ。時々車を停めて歩いてみる。 辺りに人影は見えず、旺盛に繁る木々の間にコバルトの水平線がきらめいているのが見える。 自然の中にただ居るということは、最高の贅沢かもしれない。

……そしてその贅沢のつけは確かに回って来た。徹夜せんと間に合わん。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10。最初の38小節はとりあえず覚えたみたい。

6/12(Sat)

ゆっくりとベランダで本を読んだり。"tuesdays with Morrie" のモリー教授は 日本でも番組が放映されたそうで。モリー先生の語る内容よりも、著者の体験そのもの の描写が良かった。16年間会っていなかった恩師に会うために毎週飛行機で恩師宅に通う。 難しいことのようだけど、本当に自分にとって大切なことは何かを考えたら、 実はそれは簡単なことなのかも知れない。普段は出来ないと思っているだけで。

夜は友人が市場で鶏を一羽手に入れて捌いたので焼き鳥大会。徹夜で飲む。


蝸牛的ピアノ日誌:基礎錬をさぼっていたら指がへなへなになっていたので ハノン等。あとChopin10-2をものすごくゆっくりと、リズムを変えつつ数回。 Alkan39-10譜読み。Chopin10-1。

6/11(Fri) カメハメハ大王の日

ハワイ州の休日。惰眠。午後からオフィスへ。昨夜遅く、プロデューサから 急ぎの注文が入ったので打ち合せ。「今日中に出来るかしら?」って、私の方の スタッフは休日で出てきてないんすけど…。週明けにとりかかるとして、それまでの 方策を立てる。

夜から友人達とWaikikiへ。祭をやっていると聞いて観に行ったのだが、 夕食をゆっくりとってたらWaikikiに着いたのが10時ちょっと前で、 軒並みステージは終っていた… まあ祭と言ってもステージと屋台が出ているくらいの ものなんだけど。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-2。この曲は、不完全な存在である人間が完全足らんと する曲である。地べたを這いずることを運命づけられた人間が翼を得んとする曲である。 嵐の中、急斜面を昇るような前半部。束の間の休息も叩きつけられるような風雨に かき乱されるが、それにもめげず遂に人は空を飛び、完全な存在をかいま見る。 あるいはそれは死に行く前の幻想だったのかもしれないが… 最後の3つの二短調の和音はイカルスが最後に聞いた音か。 ---というわけでこの曲をさらうには覚悟が要る。 気を抜いて弾き始めると途中で心理的に辛くなって終えられない。

6/10(Thu) 金曜日の気分

金曜日のオフィスというのは他の平日とは違った雰囲気がある。そわそわしているというか、 浮わついているというか。今日を逃すと週開けになってしまうからと妙にせかせかした 雰囲気と、週末の予定を約束するうきうきした雰囲気と。たとえ締切前で、土日に出なくちゃ ならないんだとしても、やっぱり普段とは違った空気があるのだ。

いや、今日は木曜日なんだけど、妙にふわふわそわそわした雰囲気だったので朝から 変だなあと思っていたのだ。明日はカメハメハ大王の日でハワイ州は休日なのをすっかり 忘れていた。締切直前ではどこへも行けないけれど、やっぱり休みだと思うとなんか嬉しい。


某プロジェクトのスクリーニング。皆さんお疲れさま。まだ気は抜けないけど。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10途中をすっ飛ばして、15ページ目からの ピアニシモで低音部のトリルを弾くところの音を拾ってみる。多分ここが表現上の最難所だ。 内側にはちきれんばかりのエネルギーがたまっているんだけど、それをぎりぎりのところで せき止めて、静かに静かに鳴らさなければならない。まだ指がばたばたして全然駄目だけど。 伝えたいことが大きすぎて、ありとあらゆるむちゃくちゃ をやってみたけど伝わらなくて、諦めて全てを手放す瞬間に、 自然に穏やかに流れ出す言葉のような、そんなふうに弾いてみたい。

6/9(Wed) 「生きる力」って何じゃ

来週、東京本社でプレゼンする資料をPowerPointで作っているのだが、 どうもこのソフトは私の肌に合わない。ソフトが賢すぎるというか、お節介すぎるというか。 とにかく悪意を持っているとしか思えないほどに私の作業に干渉してくる。 むしゃくしゃして今はちょっと悪口モード。

「生きる力」ねえ… 読んでいて歯の根っ子が痒くなるような落ち着きのなさを覚えるのはなぜなんだろう。 なんだか、論旨の展開が「子供に道徳観やら積極性やら『生きる力』とやらを身に付けさせる」 ためには「大人はこれまでの生活を改めるべきだ」 というふうに読めてしまって、どうも窮屈なのだ。 「今までこういう生活をして来たら、こんなに問題が出ちゃったでしょう。 だからそいつを変えるべきなのですっ。」っていうのは、嫌子除去の随伴性ってことになるのかな、 後ろから追いたてられているような気分になってくるし、 今までの生活を低く見ているような印象さえ受けてしまう。 「今までこういう生活をして来たのを、こういうふうに変えたら こんな楽しい社会になるよ。さあどうする」って言ってくれれば、 自然とその気になるように思うんだけど。 これを好子出現の随伴性って言って良いのかな。

そもそもの目的は何なのか。 子供に人生の楽しみ方を発見してもらって、二度と戻らない子供時代を存分に堪能してもらうこと なんじゃないの。「生きる力」ってのはその結果としておまけで付いてくるものだろうに。 子供向けのイベントの企画を考えるときに、「道徳観を身に付けてもらおう」とか「生きる力を 育んでもらおう」なんて言ってたらすごくつまらないものが出来そうではないか。

それとも、子供に「生きる力」をつけてもらわないと日本民族存亡の危機だからかな。 つまり社会の都合を子供に押しつけたい、と。それじゃこれまでの社会と本質的には何も変わらない。 モノサシが試験の点数から「生きる力」とやらにすげ変わっただけだ。 (それさえも点数化される---ボランティア活動を成績評価に入れるってのはそういうことだ)。

もう一つ、答申に居心地の悪さを感じるのは、なんだか「社会」というものを自分の外に 置いてあれこれ言っているような印象を受けるところ。コミットメントが無いというか。 「まあそれはわかったけど、あなたは何がしたいの」って聞いてみたくなるような。 まあこれは「諮問」だから仕方無いのかな。 委員の人はこの施策を実行する責任を負っているわけじゃないのだろうから。

ところで、私が小中高校生の時は地域の公民館とかでいろいろ催しがあったけれど、 そういうのって今はあんまり流行っていないのだろうか。 公民館主催のキャンプなんかは、中学生まではお客さんの立場で、 高校生からは主催者側の立場で参加出来て、けっこう面白い体験をさせてもらったんだけどなあ。 そういうの、やりたがっている人はいるんだけど、予算がなくて公民館では職員を 増やすことができず、結局手が回らないってなこともある。ほんとに地域での 生活体験にテコ入れするなら専属の人を増やす必要もあるのでは。 いや、現状を知らない無責任な意見だけど。


蝸牛的ピアノ日誌:ほとんど何も弾かず。ちょっと触ったのみ。

6/8(Tue) 思索の時間

大学は、自宅からの通いだったので、片道1時間〜1時間半くらいかけて通学していた。 時間が変動するのは、その日の気分でどこまで自転車で行くかが違ったからである。

考えに詰まって頭がごちゃごちゃになった時は、早めに切り上げて、 まずJRの駅まで20分くらいをゆっくり歩いた。そして電車に揺られて30分。 本を読まなければ、ぼーっと考えごとをする時間はたっぷりあった。

スケジュールがきつくなってくるとやっぱり職住近接は有難いのだけれど、 ぼーっと考える時間というのは意識しないと取れなくなるようだ。 家に帰るとつい日記を書いたり読んだりしてしまうからなあ。 読みさしの本もたまってるし。


蝸牛的ピアノ日誌:ほんの少しAlkan39-10 (4ページ)。

6/7(Mon) 日射しに御注意

こないだからこっちのオフィスに配属になって、 私の隣のブースを使っているアメリカ人Eが、真っ赤な顔をして現れた。
「サーフィンしたの?」
「いやあ、コンバーチブルでドライブしてただけなんだけどね」
今の季節、ハワイの太陽は正午にほぼ真上に来る。 垂直に降り注ぐ日射しのパワーはあなどれないのだ。

もっとも、東京でもこの季節は太陽が仰角60度くらいにはなっているはずで、 直撃するエネルギーにさほど差があるとは思えない。大気の層によって一定の割合で エネルギーが減衰すると考えると、到達エネルギーは経路長の2乗に反比例することになるから せいぜい東京の1.5倍の強さだ。むしろ、体感気温がさほど高くないため油断 するから意外に強く感じるのだろうか (それとも減衰のしかたが違うのかな?)。

周囲を海に囲まれているせいか、夏のハワイはLAや東京よりも気温が低く、 上がっても90F (32C) 前後である。そして常に風がある。それもそよ風ではなく、 風速数mから10数mのしっかりした風だ。風速1mにつき体感温度は1度下がるってのを 新田次郎の小説で読んだことがあった。雪山におけるその規則が南の島にあてはまるか どうかはかなり怪しいが、素直にとれば当地は夏でも体感温度20°Cである。 油断してしまうのも無理はない。

特にこれからの季節、背中や顔が痛々しい程真っ赤になっている旅行者をよく 見かけるようになる。ハワイ旅行を計画している方はくれぐれも気をつけられるよう。

話は突然飛ぶが、ふと思い出したので。 オフィスで一人分のスペース毎に仕切ってあるような場合、 その個々のスペースを日本では「ブース」と呼んでいると思うのだが、 こちらで 「じゃあ僕のブースに来てくれよ」とか言うと変な顔をされる。 "booth" というのはコンベンションなんかの企業の展示ブースみたいなものが イメージされるらしい。"cubicle" あるいは "office" というのが良いみたい。 但し "office" というとちゃんとした個室みたいなちょっと立派なイメージになる。


蝸牛的ピアノ日誌:情けないことに昨日のテニスで腕が筋肉痛。 Alkan39-10の最初の4ページを譜読み的にさらっただけ。

6/6(Sun) 自転車野郎のマーチ

ようやく動く気力が出て来て、Ala Moana Parkで久しぶりにテニス。指の皮が剥けた… それでも外で動くのは実に気持が良い。この季節だと昼間は日射しが強すぎるが、 日没前後は暑くもなく、寒くもなく、実に程良い気候である。名前は知らないけれど いい香りのする花が咲き乱れている。


はせぴぃ先生 のところで、渋滞の高速道路を走る自動車と一般道を走る自転車の競争の話が出ていた。 東京から御殿場というルートは大学3年の時に自転車で走ったことがある。 家(国分寺)を朝6時過ぎに出て、確かに御殿場で昼時だった。沼津へ降りて行く途中の どこかで昼食を取ったはず。その後東海道を下って焼津でキャンプだった。 (翌日は名古屋まで、その次の日は福井までだった…せっかくツーリングに行くのだから もっとゆったりと、色々見て回れば良いのにと今は思うのだが、当時は何故か がむしゃらにペダルをこいでいたような気がする)。

高校の頃はどこへ行くにも自転車で、自動車というものの存在を忌み嫌っていた。 どっかで「都内の主要道路の平均時速は17km」とかいう統計を読んで、 「へへん、自転車の方が速いじゃん。排気ガスも出さないし。」と半分意地になって走っていた。 都内では信号機が多いため、自転車でもあまり速度は出せない。ピーク時32km/hくらいで 走って結果的に平均時速22km/hくらいになる。通学の時は目標の車を定めて、そいつに 負けじと走っていた。迷惑なチャリンコ野郎である。 車にぶつかって自転車が大破したことが二度 (共に相手の不注意だったが)。 本人が大破しなかったのは今考えればラッキーとしか言いようがない。

でも、首都圏を出たらやっぱり圧倒的に車が速い (当然じゃ)。 大学に入って全国あちこち走るようになってそのことを知り、 以降車と張り合うのはやめたのだった。 そして自分で車を運転するようになってからは、 自転車を車に積んで行って旅先でちょっと乗るだけという軟弱野郎に成り下がってしまった。

しかし今でも、自転車という乗り物を過小評価されていると感じてちょっとひっかかる ことはある。人力で駆動する自転車の可能性は、人間の可能性だとも言える。 車や電車にはかないようが無いとしても、チャレンジすればできるということを 教えてくれる乗り物だ。 私はレーシングはやらなかったので、スピードはそれほど出なかった (平地で45km/h, ダウンヒルで66km/hが計測した中では最高だったかな)。テント他荷物を積んだ状態で 一日に走った最長距離は240km。これでもシリアスな自転車野郎の半分程の数値に過ぎない。

日本を出る時処分しなかったわずかな荷物の中に、白地図の日本全図がある。 走ったルートをサインペンで記入していた。北海道と近畿・中国地方の大部分を除いて、 色とりどりのルートが交錯している。 あの頃は何かを確かめたくて走っていたのかもしれない。 それを確かめることが出来たのかは今でもわからないし、 白地図の空白が埋まることは多分もう無いけれど、 ひたすら走り続けたあの経験は、確実に今の自分の基礎になっている。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-1、39-2。Chopin10-1、25-2。速度を落して、 ミスをなるべくしないように丁寧にさらってみる。それでもちょっと気を抜くとすぐに だめじゃ。家は特に防音していない ので、アコピが弾けるのは休日の昼間のみ。普段はTechnicsのデジピで、これは 全く駄目というわけでは無いのだが、手先だけで弾けてしまう (音が出てしまう) ので やっぱり変な癖が付くようだ。アコースティックを鳴らすのは全身運動で、 弾いているという実感がある。Alkan39-2は一回で汗びっしょりだ。

6/5(Sat)

生活サイクルが戻るかと思ったが、結局二度寝。昼過ぎにのこのこ起き出す。 昨日の "eXistenZ" の夢は見なかった。映画館に入る夢は見たけど。 満員で通路まで人が座っていて、無理に座ろうかあきらめようか迷ってる夢だった。

たらたらと本屋に行くと、友人が薦めていた本が30%Offで積まれていたのでふと買う。 本屋の2階がカフェになってるのでそのままそこで読む。"tuesdays with Morrie", Mitch Albom。ALS (筋萎縮性側索硬化症←漢字合ってるか?) にかかった老教授が、 元教え子に語った「最後の講義」。毎週火曜日の、たった一人の「学生」を相手にした 14週間の講義録。

まだ全部読んでないんで感想はいずれ記すが、人生の最後の時間を こんなふうに過ごせるなんて素晴らしい。人生の最後の時間? 私だっていつか死ぬ。これはひとごとではない。

本当に語りたいことを語れる人が回りにどれだけ居るか、ってのは 人生の裕福さを計る良い指標かも。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan39-10譜読み。道は険しい。Alkan39-1、ちょっと先まで。

6/4(Fri) 一巡/eXistenZ

先週末の締め切り前の怒涛のサーバメンテナンス以来、生活サイクルが思いっきり 後ろにシフトしてしまいとんでもないことになりつつあったのだが、 昨夜は徹夜仕事。おかげで生活サイクルがリセットされて、今夜はぐっすり眠れそうだ…

…と思ってたところに、めちゃくちゃ夢見の悪そうな映画を観てしまった。 Cronenbergの新作「eXistenZ」。仮想現実モノなんだけど、Cronenbergの描く ビジョンはそこいらのサイバーものとは一線を画す。グロい。とにかくグロい。 仮想現実に入るための端末はバイオテクノロジーの究極の形、つまり人工生物みたい なのがうねうね動いてるし、それを修理する場面はまるで動物の手術。 製造工場では、材料にする器官を人工的に遺伝子をいじくられたよくわからん生物から 取り出してるし。で、仮想現実にトリップするには、その端末から出てるへその緒みたいな ワイヤを自分の背中に開けてある穴に突っ込んで、脊椎に直結だ。げろげろ。 グロいのがだめな人は絶対観ない方が良い。

しかし、私はといえばかなり気に入ってしまったのだ。妙にディテイルははっきり しているのだけど気持悪い程現実感が無いって夢を時々観るのだが、そんな感じ。 永遠に夜明けが来ないような、時間さえ歪んでしまったような薄暗さとか。 はっきりとした悪夢では無いけれど目の前の現実が実は薄い膜で その向こうに何かうようよ蠕いているような感覚とか。 うげー、と顔をしかめながらもその世界の中に猛烈に引き込まれてしまう。 そして豪華な役者陣。Jennifer Jason Leighは綺麗だし、Jude Lawは地味だけど しっかりした演技を見せてくれる。

観終った後、自分の背中の下の方に、プラグの穴が開いてないことを 触って確かめた。


蝸牛的ピアノ日誌:眠いのでちょっとだけAlkan 39-1と Rimsky-Kolsakov/RachmaninoffのBumble Bee。 Bumble Beeは気合いを入れてない時のほうがつっかえないような気がするのだが 気のせいかなあ。

6/3(Thu) 被差別体験?

ロス、ホノルルと、東洋人が多い(*)ところに住んで来たせいか、差別感情というのを露わに されたことは実はあまり無い。職場も多国籍というか無国籍状態だし。 バーのカウンターにてバーテンダーがあっちの白人とばかり話して こっちの言うことをちっとも聞きやがらねえっていうような事が一度だけあったかな。 英語の発音を聞き取ってくれない、ということは何度も経験したが、英会話の極意は 「話が通じないのは相手の耳が悪い、聞き取れないのは相手の発音が悪い」と思うことである ←最初のうちはね。 他人によって不快な思いをすることが無い、もしくは不快に思ったことをあっという間に 忘れてしまうという性格をしているので、実は気づいていないだけかもしれない。 むしろ、ヨソモノと見られてぼったくられることを警戒する。

(*) ロスはアングロサクソンの割合が過半数に達せず、2番目に多いのがメキシカンだったかな。 ハワイに至っては最大の割合を占めるのが混血(Mixed)という分類で3割、 次いで日系人が2割、らしい。

私にとって差別されると言う問題は、感情的な問題ではなく、 困るか困らないかという点に集約される。 私に対して差別ジョークで笑ってもらっても別に構わないが、 サービスが悪くなるのは私に不利益が出るからだめ。 暴動とかがあって日系人が狙われたりしたらそれも困る。

そういう困ることさえ無ければ、差別している側の方が よっぽど損をしているんじゃないかと思う。差別感情によって 相手とまともに接することが出来ない人は、得られたかもしれない情報、 築けたかもしれない関係を失っているのだから。

実は私は被差別者として困ることよりも、差別者として反省することの方が多い。 色眼鏡の前でチャンスがするりと逃げていってしまった、と感じることが良くある。

それは、自分の壁を乗り越えて新しいチャンスを掴む勇気が無かったからだとも言える。


やや、 はせぴぃ先生のところで6/1の「実在論」に突っ込まれていた。その通りですな。 私はわかったつもりになるのが得意なので、哲学専攻の人と話すと「それはナイーブすぎます」 と言われる。それでも、自分という実在とプロセスという実在には単なるアナロジー以上の ものを感じるのだ。


蝸牛的ピアノ日誌:Alkan短調練習曲1番、最初の3ページを集中して。 Alkan短調練習曲2番、通す。通して弾けるようになると熱心にさらうのを 止めてしまうのは問題。いつまでたってもちゃんと弾けるようにならない。 Chopin Op.10-1、MM100程度でゆっくりと。

6/2(Wed) 工学の対象

某プロジェクトにおける主要開発言語をCにするかC++にするかで激論。 使えるメモリが限られていて、かつ高速動作を要求されるプログラムを組んで来たプログラマには、 C++の評判はどうもよろしくない。 「メモリ管理が出来ない」「Cより遅い」「アセンブラにしてからのチューニングができない」等々。 C++を良く知るプログラマは反論する。ちゃんと書けば、Cと全く同等の速度で、 完全にプログラマ側でメモリを管理しつつ、チューニング可能なアセンブラを吐かせるように することもできる、と。これ、どちらも正しい。

「そのようにコードを書けば」C++の利点を享受しつつも、 メモリ管理においても速度においても、Cに匹敵するコードを書くことが技術的には可能である。 しかしC++の教科書通りにコードを書くと、(スピード、メモリの点において) Cに遠く及ばないものが出来上がる可能性もまた大である。 Cなら母国語より流暢に操れるが、C++の経験はほとんど無い、というプログラマにとっては 「C++は遅い、メモリが云々…」という命題は真なのだ。

モノを作るのはあくまでヒトである。どんなに技術的な話でも、 実際にモノを作るということがゴールである場合、ヒトという要素が絡んで来る。 決断は、現在ある技術とそれぞれの人の持てる技能の双方を組み合わせてなされなければならない。 人には成長意欲もあるから、現在持っている技能だけでなく伸ばしたい技能というのも考慮に入れる。 こういうのはマネジメント、経営学の分野になってしまうのだろうか。

工学ってのはモノ作りの学問だと思っている。何かを作るにはきちんとした 理論的裏付けが必要なのはもちろんだが、その上で最終的にモノが出来てなんぼである。 だが上記のように、本当にモノを作るには人間という要素を抜きにして考えることは出来ない。 新しい技術が出来たら、それを使う人の教育だとか、それによって不要になる技術の エキスパートのモティベーション維持だとか、いろんな問題をクリアしなければモノに 結び付かない。工学がモノ作りだと言うのなら、そこの部分までも視野に入れないと ならないんじゃないか。

基礎研究を軽視しているわけじゃないけど、工学部でそういうことを学ぶ機会が 有っても良かったんじゃないかなと思って。あ、ひょっとして私がさぼってただけかも ←その可能性大。


突然思い立って始めてみる↓

蝸牛的ピアノ日誌:Alkan短調練習曲1番、最初の8ページ。まだ譜読み状態。 一生かかってもまず弾けるようにはなるまいが、10年後に規定速度の半分くらいで 通せるようになってたら嬉しい。同じくAlkan短調練習曲の10番、最初の 4ページの譜読み。10度の跳躍を、軽くしかし確実に弾くには。

6/1(Tue) 実在論

虚数は実在する。という話からごちゃごちゃと。

「数学者に『数学的世界は実在するか』と尋ねると、十人が十人とも実在すると答える」 というのは、養老孟司氏がよく「唯脳論」のマクラに使う話である。氏は数学者に会う機会 がある度にそう尋ねておられるそうだ。 逆に言えば、「数学的概念に実在感を持っているからこそ、四六時中数学の問題を 考えていられるのだ」とも。

プログラマを生業とする私の立場からは、次のような問いがわかりやすい。 「『プロセス』は実在するか」。 プログラムというのは、これはディスクの中に記録された電気信号の列であるから、 まあある意味物理的実在と言える。これを、コンピュータに指令を 与えてプログラムを読み込ませて何らかの仕事を実行させるわけだが、 この時「実行状態にある個々の仕事」をプロセスと呼ぶ。 文化によってはタスクとかジョブと呼ぶこともある。 しかしプロセスの実体とは何か。実在するものはあくまでメモリ上のデータと、 それを処理する手続きを記したプログラムと、処理の主体であるプロセッサでしかない。 プロセスとはあくまで便宜上取り決めた仮想的な概念に過ぎない。

しかし誰でも良い、計算機屋さんをつかまえて訊いてみよ。 反射的に、プロセスは実在すると答える筈である。 だって日常的にプロセスを作ったり殺したり (unixには"kill"というコマンドがある) しているし、プロセスが「死んだ」と言って夜中に電話で呼び出されたりする。 中にはゾンビになるプロセスさえ居て夜中に一人で仕事をしてると大変気味が悪い。 重いプロセス、軽いプロセス、太ったプロセス、薄いプロセス、見栄えもいろいろだ。

さて、コンピュータ内では計算は電気信号によって行われるが、 計算を行うのに必ずしも電気信号を利用しなければならないわけではない。 小学生の頃、手回し式計算機を拾ったことがあった。そのずっしりと重い鉄の塊は、 内部の無数の歯車の相互作用によって、何十桁もの加減乗除をこなしてみせた。 コンピュータが電気信号のあるなしを判別するごく単純な機能の組み合わせであるように、 歯車式計算機は単純剛体の物理法則、つまり押して開けるドアは引いても開かないよ、 みたいな機能の組み合わせに過ぎない。

つまり、何もコンピュータを持って来なくても、現実の物理世界はそれ独自の 計算を行っているのである。この世に起こっている現象はすべて、物質というハードウェア 上で行われているある種の計算だと言える。歯車式計算機は単にそれを特定の目的に便利なように 利用したに過ぎない。いかなる物質も、そこに存在するということは、ただ存在するのではなく 周囲と相互作用を行うもの、つまり計算する主体として存在している。

じゃ、こんなことを考えている私という存在は? 物質というハードウェア上で 走るひとつのプロセスではないか。

複数のプロセスが走っている計算機も、見方を変えればメモリ上のデータを規則に従って 処理しているだけと言える。後者の見方では、個々のプロセスというのはそもそも存在しない。 物質世界に置ける個人という単位も全く同じように考えられる。 世界全体を一つの巨大な方程式で表せば、個人というものはそもそも存在しなくなる。

だから、「私は実在する」という主張と同程度の説得力を持って、 計算機上のプロセスは実在するのだ。

最初に戻って、数学という概念は、それを考える人の脳をハードウェアとして その上に生じる現象のある種の集合である。「物質のひとつの機能としての個人の実在」と、 「計算機のひとつの機能としてのプロセスの実在」と、「脳のひとつの機能としての 数学的思考の実在」、これらに本質的な違いはあるのだろうか。

…この理屈の弱点は、「機能」という言葉を限定しないで使っているので、 下手すると「何でもアリ」の議論になってしまうことかな。 でも直観的には概ねこんなふうに考えている。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net