1999年4月

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4/29(Thu) emailの『検閲』

押し寄せる仕事の波にもまれ生活サイクルが完全にランダムに。 昼日中に突然眠気に襲われるのが困りものだ。 おまけに自宅PCのハードディスクが不調。面倒を見てやる暇も無し。 SCSIのディスクってハワイでは手に入れにくいんだよな。

はせぴぃ先生が、 4/29の日記で 企業内での電子メイルの『検閲』に関して言及されている。 現在では、企業は社員がその企業のアカウントでやりとりするメイルの内容をチェックする 権利があるというのが主流のようである。 私は、社内でのメイルの内容がチェックされること自体は「倫理的には」おかしいとは思わない。 (それが全体の生産性の向上に寄与するのかどうかという点は別に議論する必要があるが)。 というのは、会社の情報機器を用いて行われる通信は、プライベートアカウントでの メイルのやりとりやWebpageによる情報発信とはかなり性質が異なると思われるからだ。

まず、ネットはタダではない。企業は本来の業務の執行のために必要なインフラとして して情報設備(機器、人、サービス)に投資している。また、企業内のアカウントから 発信されたメイルが、その企業のオフィシャルな文書に準ずる扱いを受けるようにも なって来ている。私用メイルは、社名入りの便箋を使い、会社の切手のストックを使って 私用の手紙を出すようなものである。それがもとでトラブルが起こった時に「社員の 私用の手紙なので会社は関知しない」と言い切れるとは限らない以上、企業として 会社のアカウントを用いた通信の内容にまで責任を持つ必要がある。

また、そもそも電子メイルは「手紙」というより「葉書」に近い。例えば何らかの理由で メイルが送達されない場合、返送されたメイルのコピーが管理者にも届くようになって いるのが普通であり、当然内容も管理者の目に触れることになる。 もちろん管理者にとっては、そうして目にしてしまった内容は 「業務上知り得た秘密」なんで、やたらと漏らすのは倫理に反するのだが、 少なくとも電子メイルを密封された手紙と見倣すのは誤ったモデルである。 (本当に見られたくないのなら暗号化するしかない)。

社内でのメイルの内容を「覗かれる」と感じるということは、メイル本体は 本来見えないはずのものであるというモデルが頭の中にあるからだと思う。 だが、電子メイルはむしろ人を介した伝言のようなものだ。あなた自身が金を払って 伝言を伝える人を雇っているのなら、あなたが秘密にしておいてほしいと望む限り その伝令は秘密を守るだろう。プライベートアカウントはそれに該当する。 しかし企業アカウントでは、伝令を雇っているのは企業なのだ。

という具合に理屈をこねてみたが、実は私は私用メイルをばしばしやりとり してるし、勤務時間の合間にネットサーフもする。だってそういう「遊び」があった ほうが生産性が上がるような気がしないか。それに、膨大な量のメイルをいちいち チェックするなんてのはあまりにも後向きの作業で、そんなことをせざるを得ない企業は どっか別のところに根本的な問題があると思うのだ。

4/27(Tue) 単位の話

米国が頑なにヤードポンド法を守り続けているのは、 日本やヨーロッパから移住して来た人々にとっては軽い驚きでさえある。 1マイルが何フィートであるか、あるいは1ガロンの水の重さが何パウンドであるか、 即答できるアメリカ人はどのくらい居るのだろうか。 全てのスケール---原子レベルから宇宙レベルまで---が10進法で統一され 対数で等間隔に並んだ整然とした目盛に畳み込まれてしまうメートル法に比べ、 単位間に複雑な係数を要する米国の仕組みは不合理以外の何者でもない。 長年続いた習慣を今更変えられない、という意見は素直には受け入れられない。 現にカナダは10数年前にメートル法へと切替えているではないか。 この体系が存続しているのには、それなりの理由があるはずである。

しかし、米国に暮らし始めてしばらくすると、その体系を何の違和感も無く 使っている自分に気づくのだ。 そもそも日常生活ではマイルとフィートの換算を行なう必要に迫られることなど ほとんど無い。地理的に離れた地点間を思い浮かべる時はマイルを使い、 身近な家具や建物を思い浮かべる時はフィートを使う。二つの世界は概念的に 別の物なのだ。牛乳を買う時はクオートで、ガソリンを買う時はガロン。 封書はオンス、小包はパウンド。これらも全く別のもの。 日常の生活には、単位系の統一なんて必要無いのかも。

舞台に関わっていた頃は、尺寸を良く使った。最終的な図面をメートル法で 出すとしても、設計時には尺で測るほうがイメージがしやすい。畳一枚がおよそ三×六尺、 花道の幅は四尺欲しい、釘は二寸と一寸二分を良く使う。メートル法に比べ、 人間の身体のサイズとバランスが取れている気がするのは、単なる慣れのせいだろうか。

こんな話を持ち出したのは、Swatchが提唱したインターネット時間だか.beatだとかいう 記事を読んでいてどうもしっくりこなかったからである。 一日を1000分割、しかも時差という概念を持ち込まない.beatは、生活から完全に浮いた 抽象的な単位である。そんな単位が役に立つのだろうか。 明日は@145に出社しなくちゃならないけどもう@897だ、 @248しか寝れないや、とか思うのだろうか。 そうだな、東京とLAでチャットをするときなんかにあらかじめ時間を 打ち合わせておくくらいがせいぜいか。それとて、現地時間を知らないと やっぱり話がしにくいのじゃないかなあ。

4/23(Fri) Pushing Tin/ゲームの可能性について少々

本日の映画は、航空管制官が主人公のドラマ "Pushing Tin"。 "Four Weddings and a Funeral" のMike Newell監督。 ニューヨークの空港 (JFK?) のベテラン管制官として自他共に ベストと認めるNickは、最近別の空港から移転して来た、 ちょっと野性的な風貌の凄腕管制官Russelがなんとなく気に入らない。 それにお互いの妻とのaffairとかいろいろ絡んでくるドラマ。

ニューヨーク上空を所狭しと飛び回る航空機に逐一指示を出す 管制官って仕事、例え様々なフェイルセーフ機構があるにせよ、 ものすごいプレッシャーだろな。本当のところがどうかわからないけれど、 そういう普段見ることの出来ない仕事の裏側がちょっと覗けるのは面白い。 ただ、色々な要素を詰め込み過ぎて消化不良。個人的にはメロドラマ的要素を 排除した方が良かったんじゃないか。


ゲームは物語を語るメディアに成り得るか。いや、そもそも物語を語るべきなのか。 FEEDの記事 "The Virtual History Lesson" および"Land of Promise" をネタにして同僚と議論が沸騰。前者はゲームのこれまでの20年と、これからの 行く末に関する総括的エッセイ。それほど新しいことを言っているわけではないが、 よくまとまっている。米国と日本の事情の違いも感じるけど、おおむね賛成。 後者はRobin Miller (Myst、Rivenの開発チームにいて、ゲームによるストーリーテリング に限界を感じ、昨年Cyanを離れCG映画を作りはじめた) のインタビュー。

これに関して考察を始めるとちょっとやそっとでは終らないんで、 断片だけ書いとく(手抜き)。以下は私のemailから抜粋。

I completely agree with what they're talking in "The Virtual History Lesson" article. I particulary liked the Sid Meier's line: "Games take place in the player's head, not on the TV screen."

Sometimes I feel that an experience of a game is closer to a stage play than a movie. Director's manipulation of time and place by cutting and editing is one of the unique attributes of movies, which is not available in a stage play (although modern plays import the method from movies, expanding horizon of theatrical effects). The heart of the play is 'liveness'; your reaction is crucial to what's happening, and you are the one responsible on the situation here and now. I see games have the same potential as well.

Also in a play, we don't have director controlled camera which shows important parts (or _not_ shows important parts on purpose), so as in a game. However, theatrical acting techinques involve a method to let audience see certain stuffs on the stage, not see certain stuffs on the stage, or imagine to see certain stuffs not on the stage.

この、theatrical experienceを実現するには、 NPC(Non Player Character)とのインタラクションが重要になる。 いかにしてbelievableなNPCを構成するか、及び、いかにして自然にそれらと プレイヤーがインタラクトするか。 これまではプラットフォームの制約から実装出来なかったが、 実は基礎的な要素は既に他の分野で研究されている。 次世代プレステをもってしてもその実装は難しいかもしれないが、 その次くらいは真面目に実装できるかもしれん。

詳しいことはここでは省くが、開発者が高性能ハードウェアを歓迎するのは 綺麗なグラフィクスが出せるからだけではない、ってことくらいは言っといても 大丈夫だろう。ああ、尻切れとんぼだ。

4/21(Wed) 蓮見さんの式辞

帰宅時間を早める計画、今日は22:30。しかしサーバのメンテナンスのため1:30に また出社。まあ映画(ビデオ)を一本観られたからいいか。

読売新聞のWebpageにあった、 「難解? 東大総長式辞」(現在http://www.yomiuri.co.jp/newsj/1999041811.htm でアクセス可能。リンクはなんかいろいろうるさいので張らない)について。 原稿用紙42枚分、47分の演説は式辞としてみればたしかに圧倒的かもしれないけれど、 全文にざくっと目を通した限りではなかなかの名演説だし、 噛み砕いている分、難解ではないだろう。 一見冗長に見える言い回しも、内面から出て来た言葉であるため むしろ自然に感じられる。第3,4章はちょっと説明調で苦しいので、ここをどう 処理したのか興味あるけど。 そもそも、言葉がリアルなものとして発せられていれば、47分といわず、2時間だって 他人を引き込んで聞かせることは可能であるし、時間は関係ないと思うな。

ただ、色々経験した今だからこそわかるって面もある。長くなるがすこし引用: 「社会には、あるいは、むしろこの世界にはというべきでしょうが、 相対的な聡明さによる対象の把握能力だけでは対応しかねる不自然な事態に 充ちあふれております。不意にそうした事態との遭遇を余義なくされるとき、 人は持ち合わせの知性だけでは対処しがたい齟齬感と、違和感と、隔たりの 意識に深く戸惑い、苛立ちを覚えるしかありません。若さとは、そのような 苛立ちをみだりに遠ざけることなく、率直な驚きとともにその不自然さを 受け入れようとする、年齢とは無関係の資質にほかなりません。」 これはまったくそのとおりなのだが、高校出たばっかりの時に自分がこの 齟齬感と苛立ちを感じたことがあったかと考えると、少なくとも自覚は していなかったと思う。シアワセに育てられて来たってことなんだろうけど。 きっと自分が新入生の時にこの式辞を聞いても、何をうだうだ言っとるんだ このおっさんはくらいにしか思わなかったに違いない。

まあわからないまま聞いていても、そのうち「ああ、あのとき蓮見サンはこのことを 言ってたのだな」と気づく時は来るだろう。いや、まてよ、 自分も入学式に確か出たはずなんだが、式辞なんて全然覚えていない。それどころか 総長が誰だったかも覚えてない。ああ、やっぱり駄目かも。

4/20(Tue)

深夜すぎまで仕事をしていると、日が経つのが無闇に速い。 飛ぶように過ぎ去る一週間を積み重ねることに虚しさを感じ、 今週からなるべく早く帰る計画を実行中。しかし、目標21時退社→飯食って22時帰宅は 早くも2日目にして頓挫。ぎりぎり24時帰宅。その後で別のことを ちょっとやるとすぐに3時4時である。 もう少しきちんと優先度を決めて、必要なことだけを効率良く処理すれば いいのだろうけど、どうも苦手。

4/17(Sat) 「わからない」という感覚

友人から聞いた簡単料理を作ってみる。白菜を適当に切る。 塩胡椒にんにくで味付けした挽肉を葉っぱの間に詰め込む。 鍋に放り込んで弱火で煮る。待つこと1時間。何か料理らしきものが完成。 まあまあ食べられる。(味付けに味噌と豆板醤を使っても良いらしい)。

しかし調味料の加減というのは難しい。量に対する感覚がつかめないのだ。 例えばレシピに「醤油大さじ2」と書いてあったとして、それが頭の中で具体的な 概念に結び付かない。大匙2杯の醤油、を思い浮かべることはできても、 それが現実の料理に及ぼす影響という点が全くイメージできない。 結びつけられないからさっぱり覚えられない。レシピを常に 参照していれば何とかなるが、それを面倒くさいと感じてしまう。

多分この感覚が、「わからない」という感覚なのだ。言葉は理解できるし、 一生懸命それをフォローすれば出来る。だが自分の頭の中で結び付きが形成されて いないため、すぐに記憶の網から滑り落ちていってしまう。他人から見れば、 説明も理解しているし、例題を解かせればうまくゆくのに、応用問題がさっぱりできない のは何故なんだろうと首をかしげられることになる。わかってしまった人には 当然に見えることが、わからない人には全く見えない。わからない人からすれば、 わかってしまった人はまるで超能力者のようだ。

私は時々、木を買って来て机とか本棚とか引出しとか作るのだが、 設計図は描かない。買いだしに行って適当に材を見繕うと、出来上がりが見えるので、 それに合わせて作るだけである。友人にはそれが不思議でならないらしい。 私にしてみりゃ、夕食の材料を買い出しにいって、 レシピ無しでちょいちょいと美味しい料理を作ってしまう彼女の方が不思議なのだ。

様々な技能について、自分に当然の如く見えていることが他人には見えないこと、 他人が見えている様子なのに自分には見えないこと、を知るのは、自分の方向性を 知る上で重要なことのように思われる。


キングファンとしてあるまじきことに未見だったKubrick版の"The Shining" を ビデオで観る。これは、確かに、恐い。原作のポイントは外していて、キングが不満だった というのもわかるけど、原作の名声に寄りかからない独自の作品として確立しているのも また事実。感想は キングのページに。

4/16(Fri) Tuberculosis/Life

最近フランスから移ってきたG。子供が熱を出したので病院に連れて行った。 ひととおり検査したら、医者が妙にシリアスな顔をして、「お子さんは結核(tuberculosis)に 感染している恐れがあります」。Gは仰天したが詳しく話を聞いてみたところ、tuberculinに 陽性反応が出たからそう言ったらしい。テューキュリン、 日本で言うツベルクリンである。

Gの子供はフランスで予防接種を受けているから陽性反応が出るのは当然なのだが、 米国にはツベルクリン接種の習慣が無いそうだ(少なくともハワイでは)。 で、いくらGがその旨を説明しても聞いてもらえず、 tuberculinに陽性とは重大だ、レントゲン検査をしろと言い張るのだという。 その医者だけでなく、Gが話をした看護婦やらレントゲン技師やらの誰もツベルクリン 接種のことを知らなかったというのだからちょっと驚きだ。

その話を横から聞いていたSがひとこと。「医者変えたほうがいいんじゃない?」 私もそう思うな。


本日の映画はEddie MurphyとMartin Lawrenceが無実の罪で終身刑に服役する コメディ "Life"。二人の炸裂するトークを楽しめればけっこう良い映画かも。 「かも」と書いたのは、私には速すぎてよく聞き取れなかったから。未来の無い刑務所暮らし の中にも生の楽しみはある、ってのがボトムラインなんだろうけど、場面場面がノリで 作られているようでやっぱりセリフがわからないとつらい。 "Shawshank Redemption" に似た雰囲気を感じるのは、多分わざとやっているのだろう。

4/15(Thu) ルースなシステム (2)

昨日の続き。実は本題に入る前に眠くなってやめてしまったのだ。 ええと、問題が起きないように緻密に組まれたシステムより、問題が起きることを 許容した上で相互チェックにより問題を解決してゆくシステムの方が、 柔軟性が有り便利である、但し参加者の責任も求められるってことだった。 変化の激しい組織内での情報システムにも、実は似たような特性が求められる。

全ての情報の相互の関連性を矛盾無く保つようなシステムは、隙無く積み上げられた 石垣のようなもので、一度作ってしまえば安定した土台となり、安心してその上で 暮らすことが出来る。常にそこから取り出すデータは矛盾が無いことが保障されている ので、使用者は安心してそれを使うことが出来る。 ところが、要求仕様が頻繁に変わるような場面では、そのような強固なシステムは しばしば柔軟性に欠ける。きちんと積み上げ終る前に土台の設計が変わってしまう ようなものだ。その度に崩しては積みなおす、なんてことをしているといつまで たっても使えるようにならない。

こういう場合は、全体をがっちり組み上げるのではなく、ローカルな範囲で とりあえず動くシステムをある程度独立させて作って、それぞれを緩い規則で 結びつけておくほうが良い。しばしばローカルルールの変更により相互のデータに 矛盾が生じることもあるが、グローバルルールがその変更に追い付くまでの間は 矛盾が有ってもよしとするのだ。プロジェクト自体が実験的なものである場合、 最初に決めたルールにしたがってデータを矛盾無く保つことよりも、 データに矛盾が発生した時点で、それが矛盾で無くなるようにルールの方を 改正するほうが重要だったりする。 誰もやったことのないものを作る時、そもそも最初から全ての事態を見越した ルール(仕様)など作れはしない。そしてルール(仕様)の改正には時間がかかるが、 その間データの作成を止めるわけにはいかないからだ。

4/14(Wed) ルースなシステム

友人の話。電話会社からの請求書に覚えの無いコレクトコールが記載されていた。 早速クレームしたところ、すぐにその分の請求を取り消してくれた。 それなら最初からちゃんとチェックしてくれよと言ったら、 「請求書をチェックするのはあなたの責任です」

別の友人は、注文した個人小切手を盗まれて勝手に使われた。 (小切手帳は電話一本で注文でき、普通郵便で送られてくる。) 口座の明細を見てびっくりして、銀行に照会、サインが全く違うものである ことを確認して払い戻してもらったが、「交渉に追われた手間と時間は戻ってこないわ」 とおかんむり。

先日、引っ越しに伴い銀行やクレジットカード会社に住所変更を通知したのだが、 それらも全て電話一本である。一応本人照会のための秘密の合い言葉はあるけれど、 十分な個人情報を入手できれば他人の名をかたることもさほど難しくは無さそうだ。

何かおかしいような気もするが、それがこの国の体質である。 問題を出さないように隙の無いシステムを作るのではなく、とりあえず動かしておいて、 あとは各人のチェックに任せ、問題が出たときに個別に対応するのだ。 何をするにも出かけて行ってサインが必要、っていう堅いシステムにすれば 問題は起きないだろうけれど、それだと不便であることも事実。 慣れてしまえば、相互チェックと自己申告に依存したルースなシステムの方が ずっと便利なのだ。

4/13(Tue) ちょっと悪口

自宅のPCが、Win95を立ち上げたまま放置しておくとおかしくなるようになって しまった。ハングしていたり、動いていても画面の色がおかしくなったりする。 どこぞで悪い病気でも貰って来たのだろうか。 ほどんどLinux専用マシンとなっているので実害は無いのだけれど気味が悪い。 しかし、Windowsではシステムアクティビティのログが残らないんで、どの時点で おかしくなったかを突き止めるのはひどく厄介だ。普通は再インストールってことに なるのだろうな。(それともどっかにログが残ってる? 誰か教えて)。

Windowsの欠点をあげつらうのは大人が子供に向かって能力の無さを叱るような ものであまり芸が無いのだけれど、ここんとこ仕事で触らなければならない 羽目になって、時々頭を掻きむしったりマウスを机に叩きつけるなどの所業に及んでいる。 周囲を見渡せば、いろいろカスタマイズして快適な環境を整えている人も居るのだが、 そのためにわざわざ時間を割く気にもなれない。そんでも cygwin Meadowは入れた。

はてさて、Windows (というより、Windowsの文化とでも言うもの) の一体 どこがそんなに気に入らないのか。 標準でついて来るツール類があまりに少ないこと、 システム管理関係が壊滅的に弱いこと、 日本語版と英語版で不可解な非互換性が多発すること、等は、 Unixと比較しちゃ可哀想だよと言ってしまえばそれまでだ。 ただ、数々の不満の中で最も私の堪忍袋の限界にチャレンジしてくるのは、 リファレンスドキュメントの貧弱さである。ヘルプシステムには膨大な文書が 登録されているようでいて、そのほとんどは「使い方のガイド」に終始している。 何も知らないユーザが最初に学ぶ時、そういうガイドは 有用だ。そして開発者が想定する標準的な使い方をしている限りはそれでも十分 かもしれない。

問題となるのはトラブルが発生した時である。トラブルというのは大抵、 開発者が想定しない事態が起こった場合に生ずる。(そしてそういう事態は必ず生じる)。 したがって、トラブルの原因を突き止めるのに重要なのは、 「開発者が想定した動作とはどういうものであったか」 を明確に示すドキュメント、つまり仕様書なりリファレンスマニュアルなのだ。 「このプログラムは、こういう条件を満たす入力を想定しています。その条件に 外れる入力が来た場合にはこのようなエラーを通知します」という仕様。 エラーが起きる原因は入力に条件外のものがあるか、プログラムに バグがあるかのいずれかであり、仕様が明らかであればどちらが原因かは実際の 入力を調べることでわかる。ドキュメントの基本中の基本中の基本だ。 しかし、例えばVisual Basicのリファレンスドキュメントでこのような 入出力条件がきちんと記されているものについぞお目にかかったことが無い。

ドキュメントが貧弱なことなんて現場ではしょちゅうあることだ。なのに何故 ことMSの製品で目くじらを立てるかと言うと、まともな仕様が提供されない 環境のせいで、まともに仕様が書けない開発者を拡大再生産しているんじゃないか と疑っているからである。もちろんWindowsバックグラウンドの人でもしっかりした 仕様とドキュメントを出せる人は居る。 しかし、表面的な情報ばかり多くて大事なことが 何も書いていないドキュメントを見る度に暗澹たる気持になるのだ。

4/11(Sun) "The Girl Who Loved Tom Gordon"

キングの新作が出ていたのだが、土曜になってやっと書店に行く時間が取れた。 今回の作品はキングにしては短めだが、語りの手法はどんどん迫力を増しているような。 Green Mileからこっち、キングは新たな境地に突入したようだ。 感想は キングのページに。

今日はホッケーの試合は無し。あんまりブランクが空くと身体が錆びついてしまう ので、Ala Moana Parkまでインライン。友人のバーベキューパーティに合流。 そこでバレーボールなどやって、またインラインで帰って来たらもう足が重い。 これは情けない。インラインで通勤すべきか。

4/9(Fri) Go

最近、1週間が過ぎるのがやけに速く感じるような…。何もしてないわけではなくて、 逆に多くのことをしているのだが、これを充実していると言うべきなのか。 ちょっとスピードをゆるめて回りの景色を楽しむ余裕が必要かもしれない。

今日の映画は "Go"。Los Angelesの街のクリスマスの夜を舞台に ティーンエイジャー達が繰り広げるちょいとブラックなドタバタコメディ。 派手さは無いんだけど、各シーンの芝居はきっちりと出来ているし、 構成もよく考えられている佳作。最後がもうひと工夫欲しかったかなあ。

4/8(Thu)

大学院の時に指導教官をやっていただいた (あれ、日本語変?) A先生が 教授に就任されたという知らせを後輩が届けてくれた。 そういや3年ちょっと前までは学生だったのだなあ。 院を出て、研究部門に身を置いてはいるけれど、論文書いているわけでもないし、 ああいうアカデミックな環境での研究というのとはずいぶん違った道に進んで来ている。 論文にするネタだってあるのだけれど、怠惰なのでまとめていない。 しかも移り気のため、ひとつのテーマにじっくり腰を据えて取り組むってことが どうも苦手。当時の研究室のメンバーの進路を聞くと、私なんかこんなんで良いのかって 気もしてくる。

院を出る直前までやっていたのは、コンピュータ・ヒューマン・インタフェース(CHI) であった。人間の創造的活動を支援する、便利な道具が作りたかったのだ。 それは今でも変わってはいない (というか、いろいろなことをやっているうちに 次第にそれが見えて来たと言ったほうが良いかも)。 で、やればやる程、ひとつの事実が見えてきたのだ。

「便利なシステム」というのは、スゴイ機械を作るだけでは決して実現できない。 ソフトを入れればあれも出来る、これも出来る、ひと昔前には考えられなかった 高性能のコンピュータが一家に一台持てるようになってなお、 結局使い道が無くて埃をかぶるのは何故か。 それは、システムというものが機械だけでなく、それを使う人間を含めて 構成されなければならないからである。というよりむしろ、人間という要素が中心で、 機械はその足りないところを補うだけ、くらいの比重に考えておいた方が良い。 それがパーソナルユースではなく、一定の規模のグループで使われる物であれば、 さらにグループの組織構成、情報の流れ、意志決定のしくみ、習慣、慣例、なんて ものも絡んでくる。

もっともこれだけなら何てことは無い。 対象となるユーザのユーザの行動、ワークフローを分析してモデル化すれば、 それをサポートするための手法も自ずと見えて来るからだ。

ところが、このワークフロー分析からスタートするやり方は、 人間の創造活動を相手にする場合に少々注意が必要である。 これまでに無い物を創り出すという人間の行為においては、当然これまでに無い やり方を次々と試すということが行われる。そこには一定のワークフローと 言ったものは存在しない。いや、創ってしまった後で振り返ればそこに一定の パターンを見出すことは出来るのだが、実際に活動している最中はいろいろな パターンが同時に発生していて、絶えず取捨選択が行われている。 そういう現場においては、がちがちにワークフローを固めてしまうことは却って 創造活動の妨害となってしまう。

…なーんて問題が、ここしばらくの興味の対象になっている。一年以上 映画スタジオという大きめの創造システムを相手にしてきたためであるが、 ここに来てようやく解答らしきものが見えて来た。今実装しているものが スムーズに動き出したら、落ち着いてまとめてみるのも良いかもしれない。 SIGGRAPHのプロダクションマネジメント分科会で話題に出来るかもしれないし。 ただ、落ち着きかけるとすぐに別のものに興味が移ってしまうのだよなあ。

4/7(Wed) THREATCON ALPHA

ホッケーの試合や練習はHickam空軍基地内のインラインスケートリンクでやっている。 今日も練習のために行こうとしたら、基地のゲートで門前払いをくらった。 2月の半ばくらいからかな。基地のそこここに "THREATCON ALPHA"---テロの脅威の可能性あり、警戒せよ---という掲示が出て、 ゲートのチェックが厳しくなり、毎回、基地関係者が名簿を提出して おかないと入れなくなったのだ。

今考えてみれば、おそらくそのころからコソボ情勢が実力行使の可能性ありって 感じになったんじゃないかなと思う。 地球の裏側の戦争も、どこかでつながっている。無縁ではいられない。

4/6(Tue)

不思議なもので、昨日頭のスイッチが建設的な方向に切り替わったら仕事が はかどるはかどる。とりあえず現在抱えてる問題にカタをつけることだな。

4/5(Mon) ネット依存度

最近仕事が泥沼化の様相を示していて不満も多かったのだが、 ぶちぶち不満をたれていると眼が曇るね。 世界は発見されるのを待っている宝の山なのだ。ほんとに。 うまく行かないのを他人のせいにしていると、そういうことが見えなくなる。 気づかせてくれた友人に感謝。


電話回線の切替えが本日だったので、引っ越し後の週末は電話無しで 過ごしていたのだった。いや、電話したい時はもとの部屋にいってすれば 良いのでそれは困らなかったのだが、ネットに繋げないというのが意外に 不便なことを自覚した。

旅行などでネットにアクセス出来ないということはこれまでも良くあったが、 それで不便を感じることはさほど無かったのだ。どうやらこの不便さは、 「日常生活がネットから切り離される」ということに起因したらしい。 新聞を取らず、テレビも見ない私にとって、Webは主要なニュースソースである。 また、ちょっとした調べ物---技術関係の資料から、今夜の映画館のスケジュールまで--- にもWebを常用している。郵便局への住所変更届だってネットからダウンロード出来た のだが、それに気づいたのは既にPCを運んだ後であった。

旅先でネットに繋げなくても困らないのは、そういった日常のこまごました 用事からフリーであるためだと思われる。確かにメイルが読めないのはちょっと 不便だが、重要な相手にはあらかじめ留守を通知しておけば良いし、緊急の連絡なら 電話がある。もっとも、帰って来てから数百通のメイルと格闘するのはそろそろ うんざりなので、ネットへのアクセスがもすこしubiquitousになったら 携帯電子機器を離せなくなるかも知れない。

4/2(Fri) 引っ越し/The Matrix

引っ越した。新居は以前住んでいた部屋の2フロア上、つまり建物内で 移動しただけであるが、家賃が15%以上安くなるのだ。 今住んでいるアパートメント(コンドミニアム)は他の多くのアパートメントと 同じく、各ユニット毎に分譲され、それぞれのオーナーが賃貸に出している。 オーナーによって条件が同じでも家賃が違ったりするわけだ。 間取りはこれまでと同じ、いや正確には鏡像対象になっている。 なまじ似ているだけにちと違和感がある。

おもしろいもので、全く何も置いていない部屋というのは小さく見えるもののようだ。 比較対象が無いせいだろう。がらんとした部屋に足を踏み入れたとき、 実は似たような間取りでサイズが小さくなってんじゃないかと一瞬疑ったのだが、 家具を入れてみたら確かに同じサイズだ。

リビングの家具の配置ってのは、普通は「カウチで寛いでテレビを見る」という のが基本になっているのかなあ。アンテナとかアウトレットの配置がそんな感じである。 しかし自分の生活様式に合わせると、ピアノとPC机と本棚を便利なように配置することが 最優先されるので、テレビははみ出したように部屋の隅に追いやられてしまった。 これでますますテレビを見なくなりそうだ。ゲームをするのに不便なのが問題。


引っ越しを手伝ってくれた友人と映画に。 Keanu Reeves主演のオーストラリア映画 "The Matrix"。 これ、自分的には非常に楽しめた。 ちょっとベタなSciFiストーリーと、香港カンフー映画と、 高速度カメラ多用のめちゃめちゃクールなVFXが これでもかこれでもかというくらいにこてこてに煮込まれている、とでも言おうか。 いやあ、ここまでやってくれるともう脱帽するしかない。 雰囲気としては "Dark City" に通じるものがある。 あれが好きだった方はこっちも必見だ。

ストーリー自体は、どっちかっていうと日本で週間青年誌に連載されている コミックって感じで、大きな破綻な無いけれど素晴らしいとも言いにくい。 では何がこの映画をこれだけ楽しめるものにしているんだろう。 完成度が非常に高い、ってのがまずある。コリオグラフィが非常にうまく練られている。 しかし何と言っても、感動大作のフリをする凡百のハリウッドSciFiものと違って、 B級的な胡散臭さを自覚しつつ、凝るところは徹底的に凝っているのが観ていて 気持良いのだ。 エンターテインメントとしての完成度を追求することに全力を傾けたスタッフ達に敬意。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net