1998年12月

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12/31(Wed) 大工

「テレビ台作ってよ」という親のリクエストにより、木工に勤しむ。 工具が無いので買い揃えながらの作業はなかなか進まない。 結局3日がかりで完成。引き出し2段付き。 家族には好評だが、「じゃあ次はここに棚が欲しいの。幅はこんだけで、高さは…」 ううむ。うまく乗せられている気がする。

12/28(Mon) ドリキャスその後

予想に反して、しばしば我が家のドリキャスは稼働している。 インターネット端末としてだ。ここを自力で読みに来れるような人々にとっては、 ゲーム端末で出来ることなんてたかが知れてるのだろうが、 インターネット、何それ? という大多数の人々にとっては 実は手頃な入門機になるやもしれぬ。 これでネットにアクセスして興味を持ち、 より快適に楽しみたいと思うようになったらその時PCを買えば良い。

既存のパソコンを知っている人は、キーボード無しじゃやっとれんとか、 メモリカードが無いとブックマーク出来ないのがどうとか色々言うが、 たまにゲーム機に触る程度のエンドユーザにはそんなこと関係無いのだ。 一般に、大多数のエンドユーザにとっては、「便利な機能」は必ずしも 良い結果をもたらさない。 ネットの個人利用なんて、ほとんどの人にとっては無くても困らないものなのだ。 学習のコストが高ければ、それだけで敬遠される。

12/27(Sun) Among Giants (マイ・スゥイート・シェフィールド)

"The Full Monty" も手掛けた脚本家Simon Beaufoyが脚本を書き、 "Blassed Off!" 「ブラス」主演のPete Postlethwaiteが主演する英映画。 この2作と同じように、さびれつつある都市に生きる人々を描く。 でも社会性はそんなに全面に出していない。淡々としたトラマ。 イギリス郊外の風景を俯瞰する映像が凄く綺麗。音楽も印象に残る。

12/26(Sat) ドリキャス

実家に帰ったら、ドリキャスがあった。親父が忘年会で当てたらしい。
「ゲームはどうやるんだ」
「ソフト買わないとできないよ。 それにうちの会社のゲームはこの機種では出来ないし。 あ、でもネットには繋げるな。」
接続してユーザー登録。
「史朗のページはどんなんだ」
ちらっとトップページだけ見せる。でも日記を見られるのは恥ずかしいからすぐ消す。 試しにメイルを送ってみせたりとか、妹のペンネームで検索をかけたりとか してみせる。感想は?
「めんどくさいなあ」
…早晩、埃をかぶる運命にあると見た。

12/25(Fri) Impressions of Tokyo

Impressions of Tokyo
1. 寒い。
2. 人が多い。
3. 電話が小さい。
実家
マンションをリフォームしたので、見違えるようになっていた。 3DKだったのを、壁を全部とっぱらってキッチン、リビングと和室だけにしたので、 ずいぶん広く見えていい感じだ。しかも風呂が喋る (「お風呂が沸きました」とか)。

12/23(Wed) 一人でできること、できないこと

第三者の意見の有難みを痛感する。

過去10ヵ月程、あるシステムの開発に係わってきたのだが、 構造的に相当整備されたはずなのにどうも現実的な運用が難航していたのだ。 先日よりサポートに入ってくれたYさんと話をしていて、重要な示唆を頂く。 というか、薄々気づいていた点を明確に指摘されたということか。

端的に言えば、人が足りなかったのである。 もちろんただやみくもに人を増やせば良いというものではないが、 二点ほど決定的に見積りを誤っていた部分があった。 システム開発は、分析→設計→実装→運用というパスを経てサイクルが完成する。 このうち運用を行うには、関連するワークフローの整備だとか 関係する人々の教育を行う必要があるが、その部分を全く考慮していなかった。 また、分析・設計・実装を一人で行うのはそもそも不可能である程の システム規模であったということ。まあこちらは途中で気が付いて、 いろいろ手を打ってはいたのだが。

自分の限界を知るということは、何かを作り上げる上で必要不可欠なことだと思う。 考えることと実行することは別である。そして、実行するにはそれなりの資源が必要だ。 そして、一人の人間が実行できることには限界がある。 その時に、自分に出来る範囲を明確にし、不足する部分を補う方策を考えることは 重要なステップだ。…と書いてみると当然のことなのだが、このへん、職人になりきれて いないせいか、まだまだ甘いようだ。

もうひとつ、この点での目を曇らせるものはprideである。キングの "The Stand" に、 "The mother of sin was pride" と言う下りがあるが、その意味を今日初めて はっきりと理解した。慢心とは、自分の限界を忘れることである。 可能性について語ることは容易だ。プログラマなら、明確に記述 された問題が与えられれば、アルゴリズムのアウトラインを頭に描き、「それなら作れる」 と言うことは容易だろう。問題が困難であればある程、プログラマとしての血は騒ぎ、 プライドは刺激される。だが、エンジニアならば、それを作るのに何人がどれだけの 時間を費し、運用に載せるには何が必要かということを冷静に見極めることも必要なのだ。

諦める、という言葉は、「あきらしめる」=「明かにする」から来ているのだという ことを聞いたような覚えがある。限界を知り、自分に出来る範囲外のことを諦めることは 退却ではない。それは前進のための最初のステップであり、ひいては自分の限界を 引き上げることにつながるのだ。限界を知らずして限界を広げることは出来ない。


ところで、明日より休暇を取るため日記の更新をしばらく停止します。 皆さん、MELE KALIKIMAKA A HAU`ORI MAKAHIKI HOU! (Merry Christmas and a Happy New Year)

12/21(Mon)

ネタは溜っているのだけれど、休暇まであと3日で、書いてる暇無し。 今回の休暇は、クリスマスホリデーと新年を絡めて17日間…あれ、そんなになるのか。 まあ、次は21世紀になるまで休暇なんて取れないだろうからな。

12/18(Fri)

うーん、シシフォスになった気分。 何か心にひっかかりがあって、見落としていることがあるようなんだけれども…

夜から会社のクリスマスパーティー。今年はカハラマンダリン。 しかしこれだけ人数が増えるとテーブルを渡り歩いて会話を楽しむなんてことは 容易ではなく、結局ひたすら食いまくるだけとなる。 こういう席にはつきもののくじ引きがあるんだけど、これ、一度も当たったことがない。 わりとどうでも良いようなものまで含めれば相当当たりくじはある筈なんだが。 今年も何もなし。やはり運は無いらしい。

12/17(Thu) "The Prince of Egypt"---Dreamworksの挑戦

創立4年目のDreamworks Animation Studioが送る初めての作品、 "The Prince of Egypt" 。 公開は12/18だが、午前0時からのSneak Previewを観て来た。 ひとことで感想を言うと、「非常に興味深い」。 必ずしも手放しで誉められる出来では無いのだが、多分もう一度観にゆくと思う。 この映画をどういうスタンスで観るかによって、評価は大きく変わってくるだろう。

Dreamworksはあきらかに、従来のDisneyタイプのファミリーアニメーション映画 とは一線を画すものを創ろうとしている。「アニメーションは子供向け娯楽」 という見方が何だかんだ言ってまだ根強い米国にあって、 Atisiticな高みを目指し、ストーリーの深みを追求しようとしているようだ。 その挑戦は、ある程度のところまでは達成された、と感じた。

従来のアニメーション映画と同様ミュージカルスタイルを取ってはいるものの、 シリアスなテーマ(モーゼの十戎)をストレートに扱っている点。 三枚目の動物キャラは出て来ないし、あからさまなギャクシーンも無い。 米国製アニメーションでこんだけシリアスなものは初めてなのでは。 それでも最後まで飽きさせない、余分なものをそぎおとした脚本。 元々ドラマ性のあるストーリーだし、enjoyableなものに仕上っている。 アートデザインでは、映画全編を通じたカラーデザインが慎重に設計されているのが 目を惹くほか、いくつかのシーンコンポジションで結構にやりとさせられる演出がある。

そしてVFX、2D-3Dコンポジションの多用。有名な、出エジプトの紅海を渡るシーンのVFXは 圧巻。群衆シーンもかつて無い程多用されている (この群衆シーンのソフトウェアを 書いたのが、この日記にちょくちょく登場する友人のLである)。 モーゼとラムゼスがエジプトの町中を馬者で駆け巡る「チェリオレース」シーケンスも 見逃せない。

…と誉めてきたが、実は穴も多いのである。アニメーションの質はかなりばらつきが あり、とびぬけて良く出来ているショットもあれば、首をかしげたくなるショットもある。 何よりも弱いのは、人間としてのモーゼの描き方。演技が弱すぎる。 自らの出生にまつわる葛藤から、神の啓示を受けて形而上的な使命に目覚めるくだりに 説得力無い。そこが一番ドラマになるのに。キレイすぎるのだ。奴隷の描写も甘い感じだし。 (ただ、紅海シーンの直前の演技は見事)。

それでも、米国製アニメーションの変化の兆しとして、 DreamWorksの挑戦は評価したい。「もののけ姫」にはまだまだ及ばないものの、 米国アニメーション業界もターゲットをより広範な観客層へと向け始めたようだ ("Antz" もシニカルな方向で、大人の層へアピールしてたし)。 来年にはDisneyによる「もののけ姫」の公開も控えていることだし、 米国の聴衆がこれらをどう受け取るか、興味津々である。

12/15(Tue) メタ実装の罠

締切も近いというのに、ただ一つの問題点がクリアできずに2日程ひたすら考え続けていた。 全く別の方法で所望の機能を実現することは可能なのだが、その問題点さえクリア できればアーキテクチャが非常に綺麗にまとまるのだ。 言語仕様のかなりぎりぎりのところを使うので、規格書を何十回と読み返し、 コンパイラの出すコードを逆アセンブルし、仕様と実装との境界のグレーな領域を 切り分けてゆく作業はかなりしんどかったが、最終的にコアとなる機能部分を コンパクトですっきりとまとめることができた。 嬉しくてビールなど飲みつつこれを書いている。

アーキテクチャをすっきりとまとめたいというのは、 プログラマにとっては麻薬のようなものだ。実行時に起こり得る様々な事象 をひとつひとつ調べて対応するというコードはあまり綺麗ではない。 なるべく少ないコード、少ない規則で、より一般的な範囲をカバーすること。 シンプルかつ強力。ひとつ小さなプログラムを書いて、そいつがいろんな問題解決に 使えたら、後々楽ができる---まあ、多かれ少なかれプログラマはこんなふうに 思ってコードを書いているのではないか。

一般性を持たせるには、単一の問題解決のみを視野に入れるのではなく、 むしろ様々な問題を解決するための枠組---メタな問題解決---に注目する必要がある。 例えば、リクエストがある度にその機能を実装してゆくのは面倒だから、汎用的な マクロ言語を書いてユーザーが好きなように拡張できるようにしよう、といった 具合である。うまくやればこのアプローチは無限の可能性を生み出すことが出来る。

このアプローチの落し穴は、際限が無いということだ。問題を解決するための 枠組を作ると、今度は「問題を解決するための枠組を作るための枠組」を作りたく なってくる。すると、その次は「問題を解決するための枠組を作るための枠組を 作るための枠組」が必要だ。実は、非常に注意深く設計すれば、 「問題を解決するための枠組を作ること」自体を問題とみなして、 「問題を解決する枠組」自身で解決することが出来るし (例えばMetaobject Protocol) 、それが出来れば非常に綺麗なのだが、 そこに至るまでの試行錯誤には時間がかかる。そんなことを考えずに作っちゃった方が 速いことが多いのだ。 このへんのバランスを取ることは未だに難しい。

12/12(Sat) Star Trek: Insurrection

昨日観た "Star Trek: Insurrection"。 実は私はTVシリーズを殆んど観ていないため、 要所要所で何故皆が笑っているのか理解できない… そういう立場で観ると、"First Contact" に比べてもずいぶんおとなしい出来だと 思ったが、トレッカーなら楽しめるかも。

今週に入ってから急激に忙しくなって来て、今日もお仕事。 3時過ぎに車で帰ろうとしたら、Ala Moana Blvd も King St. も封鎖されている。 そうか、明日 (というかもう1時間後だが) はホノルルマラソンだ。 裏道を通って帰宅。眠い。起きる頃には全て終っているのだろう。例の如く。

…と書いて眠ろうとしたところを、出発の号砲 (花火) で起こされる。 うちのアパートメントは出発地に近く、ベランダからコースを見下ろせるのだ。 程無く取材のヘリと共に、先頭集団が走ってきた。 考えてみたら生でマラソンを観るのって初めてだなあ。 しかしどんどん走り去ってしまうので、中継で観たほうがおもしろい。

12/9(Wed) 死ぬまでWeb日記…

Web日記作者で、「死ぬまでWeb日記を書き続ける---書いたものが自分の墓になる」 と言明されていた方がいた。Web日記というメディア形態が登場してほんの数年で、 ある意味そこまで言明する程日常生活に深く係わるメディアになったというのは おもしろい。

私は計算機工学の隅っこで飯を食っている身分にもかかわらず (というか、だから、かな) 電子的に記録されたメディアというものに 対してあまり信頼感を持っていない。無くなってひどく困るようなものは置かないし、 個人で用意できるような環境での記録メディアが10年後にまだ読める状態であるか どうかなんてハナから当てにしていない。 電子的なデータとは、コンスタントにメンテナンスされていない限り、 知らぬうちにどこかへ埋もれ、消えて行ってしまうものである。

とは言っても仕事で使うほとんどの情報は計算機上に載っており、 仕事の成果物も計算機上のものであるから、 全く電子メディアを信頼していないというわけではない。 そもそも現代の都市生活者として、生活そのものが 直接的間接的に電子メディアに依存しているわけで、 今の生活を預けることが出来る程度には信頼していると言える。 逆に言えば、かような脆いものに預けられる程度の重要性しか持っていないということだが。

電子的なメディアに「蓄積」を期待しないとして、 ではなぜWeb日記なぞを書いているのか。重視しているのは「伝搬」という機能である。 自分の書いたもの作ったもの、あるいは言動が、 それを目にした他人に何かの変化を生じさせることが出来たとしたら、 自分の行動には意味があったと思うからだ。 例え書いたものがすぐに消えさってしまったとしても。 そもそも自分自身、いつか消え去り忘れ去られるものであり、 何かを残すことでその流れに抗おうとは思わない。 だが、自分が与えた影響は、自分の目に触れないところで、何かを大きく変えるかもしれない。 蝶の羽のひとはばたきが台風を引き起こし得るように。

蓄積より伝搬を重視するのは、 もともと生活にコンティニュイティを求めていないからだろう。 人生は即興芝居と同じ。一回限り、その場限りのもの。 昨日までの成果より、今日これからの舞台の成否が気になるのだ。

12/7(Mon)

ミーティングの合間を縫って、国際免許 (International Driving Permit) を取って来た。日本に帰省している間、多分必要無いとは思うのだが、 あればあったで便利かもしれないので。 ただし東京の狭い道を運転できるかと問われれば甚だ心もとない。 右ハンドルだし、左側通行だし、なにより道路に建物がぐわっと 迫っているのがおっかないだろうなあ。

国際免許は、役所であるDMV(車両局)ではなく、日本のJAFみたいなサービスを してくれるAAA(米国自動車協会)で発行してくれる。$10。 AAAは民間団体だと思うのだけれど…それともなんとか法人というやつなのかな。 年間$50くらいで会員になるといろいろサービスが受けられるのだが、 加入は全くの任意だ。非会員だと国際免許も取れないのだろうか。

ついでに本屋に寄って、台湾の地図とガイドを買う。 今回日本に帰省するついでに遊びに行くのだ。 台湾人の友人Lが帰省するのに合わせてちょっと案内してもらうのだが、 予備知識を仕入れておくに越したことはない。 中学生の時分には歴史や地理は苦手科目だったのに、 今は不思議と、ガイドブックの「歴史と地理」のセクションが面白く読める。 やはり自分から興味を持っているということが重要なのだろうか。 当時はただ試験のための暗記ゲームに過ぎなかった知識が、 生きた知識、現実のものに結び付いた知識として受け取れるようになったのは、 大学入学後に旅をするようになってからだと思う。

旅に出る前に、地図、それもなるべく地勢が詳しく書き込まれたものを買う。 それを眺めてあれこれ想像するのが好きだ。 想像を膨らませるには、等高線や土地利用などまで書き込まれた地図が良い。 その地方の地形やら気候やら、都市の広がり具合などを観ているうちに、 地図上の素っ気ない記号が現実の存在感を持った生きた記号に見えて来る。 海岸沿いをまっすぐに走る道、険しい谷を縫うように走る道、 森の中を切り開いて進む道、そういうところに自分が居ることを想像するだけで わくわくしてくる。

せっかくだから中国語もちょっと覚えようかと思ったのだが、 Ward centerのBordersではあんまり中国語の教材が無く、 置いてあるものも英語だからpinyin表記のものばかりだ。 漢字が書いてあったほうが覚えやすいのに。 とりあえず、迷子になっても大丈夫な程度に北京語 (でも通じるらしい) を教わっとこう と思ったのだが、L曰く、「日本語か英語かどっちかが通じるよ」とのこと。 学部生の頃は第三外国語マニアとして色々つまみぐいしたのだが、 アジア系の言葉をもっとやっておけば良かったとちょっと後悔。

12/6(Sun) Home Fries

Drew Barrymoreが好きなので観に行った新作 "Home Fries"。 一応コメディなのだろうな…これは。しかし、Drew以外に観るもの無し。 設定が非常にとっぴなのに、演出がそれをリアリティを持って 観客を納得させるには程遠いレベルで、バラバラになってしまっている。 各シーン単独ではそれなりに観れるんだけど。

12/5(Sat) 打ち込みとライブ

ハワイの冬は雨期で、ここ一月くらいは雨がちである。 今日も一日中ぼんやりと雨が降ったりやんだりしていて、 パーティーがあったのだが外に出る気にもならず、 読んだり弾いたり書いたりして過ごす。

今、猿のように弾いているのは Alkanの短調エチュードの2番。 いや、どうにか指定速度の半分でつっかえつっかえ進んでいるだけなので、 弾いているとは言えないかもしれない。でもいいのだ。 もともと自己満足のために弾いているのだから。

ChopinやLisztに比べれば非常にマイナーな作曲家であるAlkanは、 CDとなっているものも少ない。片手で数えられる程のピアニストしか 録音を行っていないのではないか。 その数少ないリストに、この冬、新たな録音が加わる。12/20発売の Michael Nanasakovによる録音だ。 Nanasakovは以前、Godowskiの録音を 行い話題になった、ヴァーチャル・ピアニストである。実体は、調律士である 七澤さんによる打ち込みの自動演奏ピアノ。自動演奏とは言っても、七澤さんの 音楽への深い理解に裏付けられた作り込みにより、前作品は非常に興味深い 演奏に仕上っていた。今回のAlkanはどんな風に料理されているのか 楽しみである→(七澤さんのWebpage でCDの申込ができる)。

音楽の本来の醍醐味は身体性と即時性である。 身体の動きを伴う、その場一回限りのもの。 しかし、音楽に演奏者と聴衆という役割分担ができ、 更に演奏が録音されるようになって、既に多くの音楽はヴァーチャルなものとなっている。 それでもCDを聴いて音楽を楽しめるのは、人が、聴覚からの刺激をもとにして 本来の身体的感覚を追体験できるからであろう。 だとしたら、もともとの録音の方を、聴衆がベストの追体験ができるように 注意深くアセンブルしてやれば、十分に楽しめる作品が出来るはずだ。

生身の奏者と打ち込みによる演奏との違いに興味があるのは、 それが生身の役者と、フルCGで作られたキャラクタアニメーションとの関係と 同じだからだ。私は生身でのパフォーマンスというものを非常に高く評価しているので、 アセンブルされた作品 (打ち込みにせよ、CGにせよ) が生身を越えられるかという ところにやや懐疑的である。いや、越える方法はあると思うのだが、非常に難しい。 このへんについて書こうと思ったが、長くなりそうなので中途半端だが今日はここまで。

12/4(Fri) 文化の伝搬

10:00から18:00まで会議、そのあと定例Screeningだったから 一行もコードを書いていない。ひー。

その後友人宅で麻雀。こないだ13牌ルールを覚えたばかりの台湾人Lが、 今日が2回目だというのにやけに強い。台湾式の16牌ルールの方が簡単だそうだが。 彼の父親の世代は13牌でやっていたと言うから、それが日本に流れて来た後 中国で16牌の方が流行り出したのかな。まあ我々の親の世代だと日本から 逆に持ち込んだという可能性もあるが。 ちなみに、韓国では麻雀はほとんどやらないが、花札をよくやるそうだ。 どちらも中国起源だとすれば、両者は別々のルートを辿って日本に伝来したと 言うことだろうか。誰かそのへんに詳しくないかな。

文化の伝搬といえば、黒沢明の「夢」の話をしていて、「狐の嫁入り」という 表現に話題が移った時だ。韓国人のYが、韓国でもお天気雨のことをそう表現する という話をしていたら横からイラン出身のSが「イランでもそう言うね」と言ってきた。 ただ狐では無くコヨーテか何かだそうだが…コヨーテじゃあんまり雰囲気が出ないなあ。 いずれにせよ、かなり起源の古い言い回しであるようだ。

12/3(Thu) 芸術家と職人

昨日創造性について示唆深いメイルを頂いた。 もう少しじっくり考えてから再び論じようと思う。


会議に出つつ、プロフェッショナリズムについて考える。 美というのは、個々人の中では絶対評価である。「目指すレベル」「許せるレベル」 というのは個人の中にある程度定まった形で存在するはずだ。 芸術家は、あくまで自身の心の中にある理想のレベルを追求し、 自分の持つ美のスケールの出来得る限り高いところへ到達することを何よりも優先すると 言えるだろう。 一方で、自分の美のスケールを基準としつつも、与えられた制約の中で最高の結果を 産み出すことを最優先する方向もある。こちらは職人的態度と言えるだろうか。 この議論は、俗に言う「クリエイティブな仕事」だけに適用されるものではない。 いかなる職業であろうともそこに美学は存在するはずだからだ (これは理想論ではなくて、人間の脳の機能としてそもそも 美への欲求というのが備わっているんじゃないかと思える)。

どちらの態度がより優れているということは無いが、社会の中で、純粋に 芸術家的態度を取り続けることが許される場合は少ないし、またそれがその人に 絶対的な幸福をもたらすとも限らない。 職人的態度に徹することもまた一つの生き方である。 ただ、美のスケールを上へ上へと登ろうとする欲求を心の中に秘めている限り、 職人的態度だけに満足していることも難しい。 結局のところ、両者の中間点のどこかに身の置場を見つけるのが普通であろう。 ただ、自分がどのへんに足場を置いているかを自覚していないと、 そこから最大限の結果を引き出すことは難しい。 決断の必要な場面でコミット出来ないからだ。 いや、自覚していてさえ、しばしば両方の態度は相反し、判断に迷うことがある。

プロデューサーというシステムはよく出来ていて、 それぞれの役割を別の人間に割り振ることで、 創作へのポテンシャルを落さずに効率良く活動を続けることができる。理想的には、 ディレクター--アーティストのラインは芸術家寄りのスタンス、 プロデューサー--プロダクションマネージャのラインは職人的スタンスを 取ることにより、双方が自分の作業にプロフェッショナルとしての責任を持つことができる。 両者の要請が一致しない場合の最終判断はプロデューサーに帰属させることにより、 モノが確実に仕上ることを保障する。 私が馴染み深い舞台の場合は演出家と舞台監督がそのようなバランスを取っていた。

ただ、このシステムが良いことを理屈では分かっていながらも、 現実に実装するのは難しいようだ。特に、コンピュータソフトウェアコンテンツ製作の現場は、 舞台や映画製作で確立されたこのシステムをもっときちんと取り入れる必要があると思う。 というか、常識にしなければならないだろう。 こういうことを考えている人は多いので、数年経てば状況は変わっていると思うが…

12/1(Tue) 個性

創造性というドグマ (12/1付け)に刺激されて少し書いてみる。

何故人は創造活動を行うか、という点に関しての私の理解は、 ほぼ 岡田斗司夫の趣旨と同じ。自分の言葉にすれば、「創造活動を行うことで 最大の快感が得られるから」もしくは「創造活動を続けなければ心身に変調を来たし 破滅するから」。どちらも同じことだ。 Stephen Kingは小説を書き続ける理由について、ずばり "You do it because to not do it is suicide" と言っているし、 自閉症で動物学博士のTemple Grandinは創造性と ある種の精神障碍は同一のものではないかとさえ言及している (→9/15)。 個人的な体験からすれば、創造性とは生理的な欲求と極めて密接な関係にあるように思える。 それゆえに、善悪の判断とか社会性等のより理性的な機能を超越するものでもある。

カミュにはまっていた時期がある。カリギュラの 「俺はまだ生きている」という断末魔の叫び。 人々の憎悪の罵声を浴びて死刑に処せられることを望むムルソー。 彼等もまた個性に生き、それ故に社会から除かれねばならなかった。 正しいとか正しく無いとかを抜きにして、彼等に共感してしまったのは、 自分も条件が整えばそのような立場に立ったかも知れないと思えたからだ。

そして、個性や創造性は、教育によって形成されるものでは無かろう。 個性とは極端な話、自我が芽生える前に既に存在してしまうものではないか。 それを野放しにしていたのでは社会が成立しないから、教育という名のもとに、 ある程度コントロールすることを覚えさせるのだ。 したがって、「個性を伸ばす教育」を議論するとしたら、社会を成立させてゆけるぎりぎり の範囲で、どこまでそのコントロールを緩めるかということになると思う。 これまで世の中に存在しなかったものを作るには、多少なりとも狂っている必要があるのだし、 その狂気は既に脳にプログラムされてしまっているのだ。 教育に出来ることは、その狂気の方向をあまり多くの人を困らせない方向に向けてやること だろう。それが創造性を伸ばす教育というものだ。 個性が素晴らしいものであるから伸ばすわけではない。 そうせずに狂気を押え付けて内向させることは、想像するだに恐ろしい。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net