1998年9月

[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]


9/30(Wed) Pi

「天才数学者が世界の秘密を解く鍵となる数字("42" じゃないよ)を得る が、同時に狂気に堕ちて行ってしまうSci-Fiスリラー、 インディペンデンス系の低予算フィルム」と聞いたら観てみたくなるではないか。 "Pi"。わざわざUniversity of Hawaiの側の映画館まで行って観てきた。

しかし出来はがっかり。見所を間違えたのかもしれないが。 主人公の狂気は良く描けている。偏頭痛に襲われて見た幻覚の中で、 落ちている自分の脳にずぶりとペンを差し込む…なんていうところは かなりいい感じ。しかし。肝心の数学の部分がへろへろ。数学の持つ 危険なまでの美しさは、その片鱗でも描ければ登場人物を狂気に導くのに 十分な説得力を持ち得ると思うのだが、そこは完全に外してしまっている。 おかげで主人公がただの狂人だ。

ところで、今日で観た映画の感想を書き初めてから1年になるが、 映画のインデックス を数えてみたら53本。 ちょうど週一回のペースで観てたことになる (そろそろ整理しないといかんな)。 以前はこれほどは観なかったのだが。 日本にいた時に比べ芝居を観なくなったのと、映画館の隣に住んでいるという 住宅環境のせいだろうか。 しかしこれでも、興味のあった映画全てをフォローしているわけではないのだ。

9/29(Tue) Bag of Bones

昨夜も4時迄、"Bag of Bones" に読み耽る。←まだこれかい。

で、本日3:30amに読了。 これは……凄すぎ。小説家としてここまで自分を抉った話を書くかね。 いやもちろん、ただのお話として読むだけならば、もうキング節全開の語り口で 美しく哀しく恐ろしい物語 (今回のは本当に恐い。夜中に読んでて、首の後ろの 毛がちりちりする感じ) を堪能すれば良いのだ。 なんだけど、小説家が主人公というだけあってそれをキング自身の分身のように 考えて読み進めてゆくと、エピローグでひどく心をかき乱される。

これまでもキングは何本か作家を主人公にした作品を書いているが、 今回のはある意味「フィクションを書くことの意味」を突き詰めちゃうから、 二重の意味でぞっとする。だってこのままキングが断筆しちゃったって全然 違和感が無い内容なのだ。いや、まだ "Dark Tower" シリーズだって残って いるし、そんなことは無い筈なのだが。「これはあくまでフィクションだから」 と割り切って書いたとしたらそれはそれで凄い。

作家を主人公としたキングの作品群をとりあげて、 そのへんを語ってみるつもり。後でキングのページにあげると思う。

あ、念のために言っとくと、そういうややこしいことを考えずに 素直にエンターテインメントとして読んでも、キングの最高傑作の一つに 数えられる面白さだと思う。つうかそっちが正しい読み方かもしれない。

9/28(Mon)

昨夜も一晩中、"Bag of Bones" に読み耽る。←ってこればっかじゃ。

さすがに仕事はしないとまずいので、外が明るくなってからちょっとだけ 睡眠をとって出勤。先週末のぼやき (「何故俺がこの仕事をやんなきゃならない?」) だが、結局はコミュニケーションと信頼の不足なんだよな。と悟る。

9/27(Sun)

昨夜から一日中、"Bag of Bones" に読み耽る。

9/26(Sat)

Stephen Kingの新作、"Bag of Bones" 購入。 ハードカバーで530ページはKingにしてはおとなしい(?)。 喪失の悲しみを描いたという触れ込みだが、なるほど、 冒頭から "Pet Sematary" 第2章の始めのような雰囲気で、 最初からじわりとくる。 主人公は作家で、一人称で語られる。まだ3章までしか読んでいないが、 作家のスランプ(Writer's block) についての描写がやけにリアル。 ひょっとして、1980年代後半からしばらく、Kingは Writer's blockに苦しんで いたのだろうか。 感想は例によって読了後、Kingのページに アップする予定。

9/25(Fri) 見る/"Ronin"

ふう。今週は再びcrazyな週だった。開発予定が押してるところに、 プロダクションでディスク不足のトラブル解決に週の半分を費す。 システム管理めいたことは片手間では出来ないし、本来の開発業務に 支障が出るからって別の担当者をアサインした筈なのに、 何故こうなってしまうのだ? まああせっても仕方無い。徐々に体制を整えてゆこう。

Demandingなプロダクションの仕事だけど、 せめて金曜の夜はリラックスしようということで、 VFXセクションの連中が中心になって金曜の夕方からちょっとした ラウンジパーティを社内で開いている。 ビール片手にリラックスして雑談。 普段の打合せではなかなか話せないメタな議論だとかができて楽しい。

「創作の過程で見たものを再現するには、 まず最初に『本当に見る』ことをしなければならない」 御意。頭じゃわかっちゃいるんだけど、アーティストと話をしていると、 いかに自分が普段「物を見ていないか」が感じられて身につまされる。 ソフトウェアの世界はどっぷりはまると、頭の中がとことん抽象的な方向に 飛んで行ってしまうので、「目に入れども見ていない」状態になりがちだ。 ちょっと頭のスイッチをシフトすると、きらめくばかりの世界の様相が 見えてくるんだけど、すぐまた考えに浸ってしまう。 「デッサンをするといいよ」と言われた。

例えば今日、街ですれ違った人のうち、どれだけの人の服装を覚えているか。 駐車場の車の配置はどうだったか。オフィスの出口にある観葉植物はどんな 形をしているか。何一つ思い出せない。 これでは一日中寝て暮らしているようなもんである。

"Doing something which doesn't change your way of perception is just a waste of time" とも。そうだよなあ。


本日の封切映画。Robert De NiroとJean Renoの共演、"Ronin"。 フランスを舞台に、謎の組織に雇われた元CIAエージェント(De Niro)らが 謎のケースを奪おうとするアクション。 なんだけど、サムライ映画の雰囲気をかなり意識して作ってあるようだ。 それが全体のトーンを良い感じでまとめている。 少なくとも、ハリウッド大量生産アクション映画とは一線を画している。 予告編を見ての期待値よりは良かった。

チャンバラシーンにあたるところは、カーチェイスと銃撃戦か。 ニースの街の、車一台がやっと通れるような路地を凄いスピードで飛ばしたり、 高速道路の対抗車線で向かって来る車をかわしなららの追走劇は単独で見れば なかなかの迫力。だが少々長すぎる。 クライマックスに向けての流れがだれてしまったか。 シナリオも凝っているし、De Niroが "Ronin" の雰囲気を旨く醸し出していて 良い感じだし、惜しいなあという感じの出来。 De Niroらを雇う側の謎の美女? Natascha McElhoneはどこかで見たと思ったら "The Truman Show" に出ていたのか。ただ今回はDe Niroの存在感に対して 線が細く見えてしまっている印象は否めない。 ちなみにプロスケーター役でKatarina Wittが出演している。

9/23(Wed) Squid Ink

イタリアンレストラン「カプリチョーザ」と言えば、 スパゲティの量の多さに惹かれて学生時代にしばしば利用していた。 東京は吉祥寺と下北沢にあったかな。 で、その「カプリチョーザ」、ワイキキにもある。 友人がパスタ50%offのクーポンを手に入れたというので今夜の夕食はそこに決定。

しかし表に掲示されているイカスミのスパゲティの写真を観て顔をしかめる友人。 そういえばアメリカンイタリアンなレストランではイカスミって見ないなあ。 外見は初めての人にはさぞかし不気味に映るであろう。 だが好奇心旺盛な友人は果敢にも挑戦。 味のほうはまあまあで、結構気に入っていた様子だ。

イカっていうのはあんまりアメリカ本土では食べないものらしい。 シーフードレストランに行けばあるだろうが、日本のようにありとあらゆる パーツを様々に料理して食べるっていうわけじゃない。 以前ロスで、日本人スタッフがパーティにイカの塩辛を持って来たら、 "What's the hell is it? Squid Guts!? Yuck!" なんて皆で騒いでたから、 普通に暮らしていたらあまりお目にかからないもののようだ。 ハワイではさすがに目にする機会が多いけれど、 バーベキューなんかでイカを焼いていると珍しがられる。

今までで一番美味しかったイカは、佐渡のある海岸でキャンプしていた時、 早朝に漁から戻って来たイカ釣りの船にとれたてを分けてもらって食べたイカ。 刺身にして、海水でちょっと洗って食べる。普段食べるのとは全く違った 味と歯応えにびっくりしたものだ。 つくづく日本は海の幸に恵まれた場所だったなあと、離れてようやく気づいた。

9/22(Tue) プログラマの劇的人生

仕事が私のところでオーバーフローして詰まってしまうのを防ぐべく、 処理の社内アウトソーシングへ向けひたすら準備中。 しかしそのためには明確なドキュメンテーションが必要なのであった。 普段から仕様はソースのコメント中に書く様にしているのでその部分は cut&pasteで済むが、総論的な説明も必要だし、 他のプログラマ用にexamplesとかをつけると、 それの動作確認をやらなけりゃならなかったり。その時点でバグが見付かる こともあるから侮れないのだが、やたら時間がかかることは確かである。 これを更に後で和訳せねばならないのは……あまり考えたくはない。

プログラマに必要な徳とは、一に怠惰(laziness)、二に短気(impatience)、 三に高慢(hubris)だそうな。怠惰なればこそ仕事を減らすためのプログラムを書き、 質問に答える手間を減らすためにドキュメントを書く。 短気なればこそお馬鹿なコンピュータに我慢ならず、 プログラムの効率を上げ、賢そうなインタフェースを作る。 高慢だからこそ誰からも文句が出ないようなプログラムに仕上げる。

しかしプログラミングを仕事としてしまった人間は、 仕事を減らすために仕事を増やすという矛盾を抱えることになる。 そのプログラムを書くために費す手間が、そのプログラムによって 節約される手間より小さければ「怠惰な私」のゴールは満たされるが、 「短気な私」と「高慢な私」がしゃしゃり出て来た場合、経験上仕事量は 増大するばかりだ。求めれば求める程ゴールから離れて行くという この状況はまさに、木下順二の言うところの「劇的」な状況ではないか。 何と、プログラマは劇的な人生を歩むことを運命づけられていたのだ。

だが、その過程で副産物として多くのプログラムやドキュメントが生まれ、 それによって人々が幸せになったことを知る時、プログラマはカタルシスを 体験する。いや、もはやそういうカタルシスの中毒になってしまっているのかも しれない。その快感を求め、俺達は今日もキーボードを打つのだ。ぐふぐふ。

9/20(Sun) Rush Hour

最近、週末になると更新が滞りがちなのは、深夜まで遊んでいるか 深夜まで働いているせい。だいたい前者の結果として後者のような羽目に陥る。 今日も、金曜土曜のツケが回って来てしまった。

でもしっかり映画は観に行く。 Jackie ChanとChris Tuckerの共演するコメディ "Rush Hour"。 シナリオも撮り方もトホホだけど、役者で笑わせてくれる。 ま、ありがちと言えばありがちだけど、それなりに楽しめた。

9/18(Fri) Simon Birch

ノーチェックだった映画が意外と良かったりすると、 とても幸せな気分になる。

予告編は見なかったし、原作の小説も知らないし、 プロット紹介を読んでもそんなにそそられなかった "Simon Birch"。 友人が「予告編見たら面白そうだったよ」と言うので観に行く。

未熟児で生まれ、人よりずっと身体が小さく運動機能も低いSimon。 親から見放されていた彼は、未婚の母に育てられたJoeの親友でもあった。 Simonは折にふれ「神は目的を持ってそれぞれの人を作られた」と言い続ける。 「自分がこんな身体なのは何か意味があるはずだ」とも。 ストーリーはJoeの一人称のモノローグを中心に、似たような境遇の二人の 少年時代を鮮やかに描写する (そのへん、"Stand By Me" を思い起こさせる)。 そして、Simonの言葉が証明される事件が起きる…。

重くなりそうなテーマだが、軽妙なコメディに包んでいるため 客席が笑いに包まれるシーンがいくつもある。何しろ少年役の二人が 芸達者。かなり危ういバランスだが、 ぎりぎりのところでうまく踏みとどまっていると感じた。 JoeとSimonの境遇は客観的にみればかなり暗い部分もあるのだが、 実際の生活の中では輝くような瞬間もあるわけで。 その光と影の描き方が見事。 欠点は、ストーリーのキーとなるシーンで二つ程ちょっとはずしたかなという 部分があるのと、センチメンタルに流れ気味のところかな。 私はあまり気にならなかったが。

特筆すべきは、画の美しさ。カメラが凄い。明りの使い方が凄い。 観ていてぞくぞくするほど美しいショットが惜しみなく投入されていて、 それが叙情的なストーリーとも良く合っている。 主人公達が駆け回る山中の湖や、その回りの自然、そしてその中に生きる 人間そのものがスクリーンの中で驚く程の実体感を持っている。 CinematographyのAaron Schneiderは "Kiss the Girls" をやった人。 あちらも森の撮り方が凄かったが、今回は遥かにそれを超えている、と思う。

9/17(Thu)

昨日は朝のホッケーで一日の体力の90%を使ってしまったため、早々にダウン。 晩飯も食べず14時間ほど眠りこけて起きてみれば打撲とすり傷であちこち痛い。

現在のプロジェクト、今週に入ってから大幅な機能拡張を行ったのだが、 サーバ側はきちんと動き始めた模様。 しかし皆に使ってもらうためにはクライアント側のライブラリと プログラマーズガイドを書かねば。

サーバをCommon Lispで書いている関係で、クライアントも今まで 新和性の高いSchemeで書いていたのだが、どうもLisp系の言語は人気が無く、 他のプログラマが積極的にクライアントを書いてくれそうにない。 このままでは全てのクライアントソフト書きの仕事が私に回って来そうなので、 Perlでクライアントライブラリを書き直すことにする。

理屈の上では良い筈の言語も、数の論理の上にはたちうち出来ないのだなあ。 Windowsが世に広まって行くのも同じ原理か。

9/15(Tue) 神の壮大な実験

我々は、見聞きし感じ経験したものから自分なりの世界観を構築しており、 立場や考えが違えば見える世界も違うはず、というのは理屈の上では分かっている。 だがそれが実際にどれほど違うのかについて思いを馳せることはあまり無い。 無論、他人の見方というのを本当に知ることなぞ不可能だ。 だが、他人の認識の方法を少しでもかいま見ることが出来たとしたら、 その余りの違いに、あたかも信じられない程高い崖の上から景色を見回すような、 眩暈にも似た感覚を覚えるのではないだろうか。

Temple Grandin: "Thinking In Pictures : and other reports from my life with autism" を読んで感銘を受けると同時に戦慄を覚えたのは、 そういう感覚だったのかもしれない。 (原書は1995年に出ているので、もう邦訳も出てるかも)

自閉症であり、動物学の博士号を持つ著者が多くの論文を引きながら、 自分の経験に基づいて自らの認識や思考の方法、そして自閉症一般について語る。 その描写が非常に具体的。著者は視覚に関する能力が極めて高く、経験した 景色は全てVCRで再生するように細部まで思い出せるという。 むしろ逆に、抽象的な概念をシンボルとして扱うことが出来ず、 全て具体的な情景に関連づけてからでないと自分の思考とすることができない。 人間関係、他人の感情、社会というもの、そういった抽象概念を理解するのに、 どのように苦労して、どう克服してきたか、という描写は感動的でさえある。

自閉症者が極めて高い視覚処理能力や計算能力を示す例は、映画 "Rainman" でも描かれたし、多くの研究報告もある。 (オリバー・サックスの著書が分かりやすかったんだが邦題を失念)。 そのような極端な例はしかし、「自分とは別世界に住む人間のこと」として ある意味冷静に見ていられる。

だが、Grandinの本が提示する具体例を読み進んで行くと、 そのような認識能力 (自閉症の症状も含めて) が決して「普通の人」から 離れたところにあるのでは無く、連続したスペクトルの片方の端にしか 過ぎないことが次第に明らかになってくるのだ。 眩暈が最高潮に達したのは、 著者の世界認識と自分のそれとのあまりの差異に愕然としながらも、 自分の中に共通項が確かにあることに気づいた時であった。

Grandinは、creativityと自閉症、躁鬱、精神分裂症などの相関 (個体内および遺伝的)について触れ、むしろcreativityとそれらの症状とは 表裏一体なのではないかということを示唆する。 著者自身も自閉症から来る困難を克服した時、 自分の持つ視覚処理能力が専門分野で成功するのに不可欠だったと述べる。 「もう一度人生を繰り返すとしたら、やはり自閉症であることを選ぶだろう。 この能力を失いたくはない」と。

精神疾患。未だ暗い響きを持つ言葉だが、遺伝的な要因によって引き起こされる それはひょっとすると、種としての人類を進化過程で必然的に現れるゆらぎ なのかもしれない。均一化した集団はわずかな外的要因で滅びたり暴走する 可能性が高い。生命進化という壮大な実験の中で、我々の内部には既に 平均からの逸脱 (=狂気) がプログラムされているのだ。

"It's clear that the genetic traits that can cause severe disabilities can also provide the giftedness and genius that has produced some of the world's greatest art and scentific discoveries. There is no black-and-white dividing line between normal and abnormal. I believe there is a reason that disabilities such as autism, severe manic-depression, and schizophrenia remain in our gene pool even though there is much suffering as a result." --- Temple Grandin
(重度の障碍を生じかねないような遺伝子の特徴が同時に、 世界的に最も優れた芸術や科学的発見のいくらかをもたらした天才を 生み出した、ということははっきりしている。 正常と異常の間に、はっきりと白黒つけられるような境界は無い。 自閉症、重度の躁鬱、そして精神分裂症といった障碍が、 結果として多くの苦しみをもたらすものであるにもかかわらず 我々の遺伝子のプールに残っていることには確たる理由があるのだ、 と私は信じている。)

9/14(Mon) 越境人間

古い友人からのメイルに、「あなたは半分アメリカ人だから」というくだり があった。友人の真意はともかく、それを見てちょっと複雑な気分になった。 「アメリカかぶれ」と言うニュアンスならやだな、というのと、 もう日本には帰らないかもしれないとか言っている割り切りがそういう印象を 与えたのかな、ということで。 「日本に帰らないかも」というのは、目的の実現に便利な場所なら 住む場所にはこだわらないということであって、 別に日本を嫌っているわけじゃない。 ただ、日本に「帰る」という表現にはちょっと戸惑う。

杉本良夫氏の著作 (「日本人をやめられますか」「日本人をやめる方法」) を読んだのは、日本を出るちょっと前だった。 日本を27歳の時に出て合州国に渡り、その後オーストラリアに帰化して 比較社会学を研究している著者の視点が、とても自由に思えて気に入っていた。 「越境人間」とは同書に出てくる表現で、狭義では生まれ育った国を永住地として 選ばず、違った国の社会や文化のなかで暮らしをたてている人間を指す。 自らの帰属する拠り所としての「国」をある意味で捨てることにより、 国家機構や文化論を相対化する視点を獲得する、とある。 もちろんそのような相対化の視点は、外国に住まずとも、複数の社会・文化を またに掛けて生活することでも得られることであり、広義の「越境人間」とは そのような文化間障壁を飛び越えた人間も指す。

私自身はまだ文化の壁を超えた、相対的な視点を獲得するには程遠い。 住む場所は違えど結局は限られた同じ学問分野にいるし、 やはり日米だけしか体験してないようではまだまだである (著者が警告する、ナイーブな日米比較論なんかをよく展開しているし)。 ただ、そういう概念が頭にあったせいかどうか、 日本から米国への移動は自分にとっては一方向の移住であって、 「いつかは日本に帰る」という思いはさらさら無かった。 かと言って決して戻るまいと思っていたわけでもない。 帰るとか帰らないとか言う考え自体が無かったのである。 今後日本に住むことになったとしても、それは今度は米国から日本への移住であって、 「帰る」ことではないだろう。 もちろんチャンスがあれば何処へでも行くつもりである。

こういう割り切り方は、東京の多摩地区というある意味郷土色の薄い土地で 育ったせいかもしれない。いや、多摩には多摩の古くからの文化があるのだが、 住民の多くは1〜2世代前に別の土地から移り住んだ人ではないだろうか。 私自身が原風景とする多摩の土地というのは確かにあり、忘れようもないが、 近年の急速な開発により思い出の場所の多くは既に無い。 例えば、就職先が大阪で、その後東京に戻らなくなったとしても、 特にどうと言った感傷は無かったであろう。 それが米国だろうと欧州だろうと同じことではないか。

…なーんて呑気なことをほざいていられるのも、 「文明生活」しか体験してないから言えるのだろうなあ。 食うや食わずの体験をしてみたらどんなふうに見方が変わるだろう。 (蔵王の山の中でひもじくて死にそうになったことはあるが その話はまたの機会に。)

9/11(Fri) 祭りの夜/Rounders

本日はホノルルダウンタウンの祭り、"Ho'o'lau'lea"。 何に由来するかは知らないのだけれど。 オフィスから見下ろす位置にあるダウンタウンのメインストリート、 Bishop St. が夕方から閉鎖され、バンドなどが出て大変賑やかなので、 皆で見に行ってみる。

人が多い多い。新宿の歩行者天国のようだ。旅行者風の人はほとんど 見当たらないが、まあ出し物として屋台といくつかのバンドしかないので 無理もないか。こういう催し物で日本と大きく違うのは、 決して酒類が出ないってことかな。 アルコールに関しては米国は大変厳しい。

明日からはAloha Weekということで、パレードなんかもあるらしい。 わざわざ見に行かないと思うけど。


本日の映画は、Matt Damonが天才ポーカーギャンブラーを演ずる "Rounders"。人なつっこい笑顔を見せつつ、天才的な頭の切れを見せるって 役どころは "Good Will Hunting" と同じ路線。

シナリオは、法学生で天才的なポーカープレーヤーであるMike (Matt Damon)が、 胴元相手に全財産を賭けた勝負に出て大敗を喫するところから始まる。 で、恋人に「もうカードはやらない、この才能を活かして弁護士になるんだ」と 約束して何年か真面目に過ごすんだけど、昔の仲間の莫大な借金を 返すために恋人とも分かれて再びカードの世界へ。 そしてその過程で自分を発見するって話。

話としてはプロフェッショナルなポーカーの勝負に関してディープな 世界が描かれていて興味深いし、 サブキャラクタ達も良い味を出していて最後まで退屈はしない。 John Malcovichのアヤしいロシアなまりも良い。 それだけに、全体の出来がちょっと平板になってしまっているのが残念。

Matt Damonが優しく見えすぎちゃうのがまず一つかなあ。 堅気の道と、ぎゃんぶらー人生との間で葛藤するのがメインのドラマなんだから、 そのへんでもちっとぎらぎらした感じが欲しかった。 (いや、上手く演っているとは思うけど)。 "Good Will Hunting" と似た感じの設定っていうのが却ってやりにくかったのかも 知れぬ。

9/10(Thu) ``劇的''とは

欲しい日本語の本があって、日本書を扱っている本屋に行った。 目当ての本は無かったが、ふと目にとまったのが木下順二「``劇的''とは」 岩波新書。もともとNHKの「人間大学」での公演がもとになっている とのことで、各論をわかりやすくさっと眺めて終っているが、 それでも極めて学ぶことが多い。

「劇的」とはどういうことか。木下は様々な例---ギリシア古典劇、 日本の古典劇から自身の最近の作品に至るまで---を引っぱってきて 説明する。それぞれについて深い洞察があるが、ここでは 表題になっている問いかけの答えだけ紹介すると、 「理想とするものへ近づこうとすればするほどそれから遠ざかってしまう、 矛盾をはらんだ状態」がドラマである、とのこと。 あまりに的確で感動してしまった。

手に入れようともがけばもがく程、手に入れられなくなる。 それでも人はその性ゆえに、自分に正直であればある程、そのような 運命を辿らざるを得ない。そしてその矛盾を何らかの方法で突き抜ける ところにカタルシスがある。およそ優れた物語というものの構造は 確かに変わっていないのかもしれない。そのような人間の性、 あるいは運命をどれだけ作り手が真剣に見つめられるのか、 で作品の質が大きく左右されるのだろう。

悲劇に何故人は(少なくとも自分は)希望を見出すのか、ずっと不思議だった。 スティーブン・キングの「グリーン・マイル」も、野田秀樹の「赤鬼」も、 記述だけをなぞれば絶望的な状況を描いている。にもかかわらず、 激しく心を動かされ、力強く生きようと思わせてくれるのは何故か。 悲劇の構造を上のように考えてみると、一つの答えは見付かりそうである。 現実に生きる上で様々な矛盾を抱えていても、それを解決してしまうのは 恐ろしい。だから人はその矛盾を見ないようにする。 望めば望む程、欲しいものから遠ざかってしまうかもしれないから。 だがその矛盾に目を塞ぐことは、生きることそのものに目を塞ぐことだ。

悲劇を抱える時、人は生きることに目を向けている。 破滅への道を辿ることになろうとも、 目を塞ぐよりはましだということ、それを悲劇は示してくれるのだ。

なんてことも知らずによく芝居やってたな、なんて言われそう。 やってる時はあまりメタなことに思いをはせなかったからなあ。

9/9(Wed) 指先に気を付けろ

月例のR&D Divisionのミーティングのあと、 これまた月例のdinner。Ward Center 2階のレストランはちと高めだが うまかった。

席上でふとしたきっかけで話題になったのが、 "How to give a finger---international version"、 米国での中指を立てるジェスチャのような、 「やったらまずい」仕草が国によってどう違うかというもの。 これが色々なバリエーションがあって面白い。

手を握って親指を立てる。"Goo!" という仕草だが、これはイランでは 米国で中指を立てるのと同じ意味だと言う。

人差し指と親指で輪を作り、残りの指を立てる。"OK" とか、 日本では金を意味したりする仕草。手の平を相手に向けて 手の甲が下にくるようにちょっと横に倒すと、 これをブラジルでやったら相手によってはまずいことになる。

人差し指と中指をV字型に立てて、手の甲を相手にむけ、横に傾ける。 イギリスやアイルランドでは、中指を立てる変わりにその仕草が使われる。

手の甲を上にして、指先で顎を喉のほうから相手のほうへ軽くなぞる。 イタリアでやったらまずいらしい。

ロシア人もいたので聞いてみたかったが、別のテーブルだったので 聞き損ねた。

まあとにかく、下手な相手にうっかりこんな仕草をしようものなら いきなり銃で撃たれる---というのは米国だけかもしれないが、 とにかく困ったことに巻き込まれかねない。 文化の違いとは恐ろしいものである。

さて、日本でそういう仕草ってあったっけか。 性的な意味を含むジェスチャってのは確かにあるけど、 相手を罵倒するような攻撃的なニュアンスってのは無いような気がする。 言葉でも、性的な表現が罵倒の言葉に転用される例ってのは、 あるにはあるが米語程では無いように思えるし。 どのような文化の違いがこういう差を生んでいるのだろう。 それとも日本にもあるんだけど、私が知らないだけかなあ。

9/8(Tue) 信仰について---「科学的宗教観」への異論

Web日記のリンク集、日記猿人で 私が良くチェックしている じぶん更新日記 (更新後はこちら) の長谷川さんが、信仰について非常に分かりやすい分析を掲載されておられた。 宗教家でない科学者の立場から見た、 宗教の形而下の存在としての分析としては至極まっとうで同意できる。

ただ、私個人の考えとしては、 宗教・信仰の持つ形而上の意味を捨象した宗教論というのは片手落ちのように 思われる。もっとも、「科学的」立場から見る限りは現象としての宗教に 注目せざるを得ず、仕方の無いことではあるのだろうが、 そのような「科学的宗教観」は一歩間違えると危ういもののように思える。 (長谷川さんの説に言及したのはたまたまきっかけになったからで、他意は無い)。

なお、私は特定の宗教を信仰してはいない。以下の論は、 宗教家と話したり、書かれたものを読んで思ったことである。 ナイーブな説だし、 宗教家から見たら的外れなことを言っているかもしれないとお断りしておく。

「科学的」立場からの宗教の分析の多くは、宗教という現象の外に いる客体を無条件に想定してしまっているように思われる。例えば 「宗教が人生観や世界観を与えてくれる (or 規定する)」と言った場合、 宗教という一つの知識体系が、自分という意識の外に存在するというという 前提がある。自然科学が観測者を想定して現象を記述するという手法を とるため、つい宗教にも現象の記述、説明を求めてしまうのだろうか。 実際に、人生の問題をすべて説明するかのように語る宗教もあるから、 宗教とはそういうものだと思ってしまうのも無理はない。

だが、宗教を「事物、現象、解釈の記述」であると考えてしまうことには 問題がある。宗教をそのような知識体系として眺めている限り、 それを理解することは不可能だという点。 そして、宗教に「記述・説明」を期待して信仰してしまうと、盲信と思考停止が 起こりやすいという点。

宗教とは個々人の生き方そのものである。 生き方の記述や解釈ではないし、 「こう生きるべき」という教科書でもない(カントみたいにメタなレベルで 生き方の指針を示すというのは有りだろうけど)。 教義や儀式は媒体、あるいは手段でしかない。 ただ、それが真に効力を発揮するためには、外野であれこれ分析するのではなく、 信じることが必要である。

適切な例ではないかもしれないが、宗教上の儀式としての占いを考えて みよう。もし、絶対に当たるという占いがあったとする。あなたはどういう 質問をするだろうか。もしあなたが、当たるということを本当に信じている ならば、一体何を質問すべきか真剣に考えるはずだ。自分は一体何を知りたいのか、 また知ってどうしようと言うのか。実は、ここで本当に占いが当たるかどうかは もはや問題では無い。当たると信じることによって、問いが自分自身に 向けられることが重要なのだ。 信仰生活とは、常に問われる存在でありつづけることかなとも思う。

「神が世界を創造した」というのは、「自分の預り知らぬところで、 この世界が創造されてしまった」ということである。 どんなに受け入れ難く、理解しがたい現実であろうと、 神がそう作っちゃったんだから、それを認めた上で 自分でどうするか考えなさい、ということである。 自分を現象の蚊帳の外においてあれこれ言ってても仕方無いよ、 自分もその現象の一部なのだから、ということである。 全て形而上の言葉は、このように主体的に捉えられなければならないと思う。 この「自分でどうするか考えなさい」という点を抜きにしたとき、 宗教は堕落するのだろう。

ま、これもひとつの人生観でしかないのだけれど。

9/7(Mon)

今日はLabor Day。家の向かいのモールには一日中バンドが出てハワイアン ミュージックを演奏していた。 土曜から取り掛かっていた木工が、夕方にようやく終了。 塗装に使ったニスの臭いで部屋にいるとくらくらして来たので、 ちょろっと会社に避難する羽目になったが、夜中までにはそれも落ち着き、 床に溢れ出た本や道具、PC本体などを収納して一段落。

結局連休は家具製作に潰したけれど、金を出せば買えるものを、 時間をたっぷり使って作るってのは贅沢な楽しみか。 自作したからと言って、それほど割安なわけでもないのだから。

9/6(Sun) 日曜大工

Labor Dayの連休なのだが、どこへ行く当てもないので、 部屋の床に溢れ出した本やら工具やらを片付けるべく、 本棚と道具棚の作成に着手。昨日今日と大工仕事に勤しんでいた。 情けないことにかなり腰にきている。 今回は鉋も使ったのだが、西洋の鉋は押して削るようになっていて、 ずいぶん勝手が違う。洋鋸と同じと考えれば自然か。 日本の鉋が非常にシンプルな構造でありながら微妙な調整を可能にしているのに対し、 洋鉋はネジやらツマミやらで調整するようになっているのが、 なんだかいかにも和洋の違いという気がする。

米国は未だにメートル法を採用していないので、 材の買い出しはすべてインチとフィートである。 日本でもまだ尺寸を使うことはあるが、尺寸は10進法なだけ良い。 以前、10インチ=1フットで計算して材を継ぎ足す羽目になったことがあった (本当は1foot=12inch)。 1footがほぼ1尺と等しいため、かえって紛らわしい。

さらに奇妙なのはインチ以下の単位である。 どういうわけか、1/2インチ、1/4インチ、 1/8インチという具合に突然2進法になるのだ。 3/8インチと11/32インチではどちらが大きいか、 なんて時にちょっと暗算が必要だ。 ただ、それはそれで、使ってみると都合が良いこともある。 外寸30インチで、片方だけ3/4インチ厚の外板が来る場合の内板のセンターは、 なんて時に、メジャーに2進法で目盛が振ってあれば計算しなくてもわかる。 それなりに理由があるということか。

9/4(Fri)

オフィスの側のインド料理屋のディナービュッフェに行き、 あんなカレーやこんなカレーやそんなカレーなどを山程食して ぶらぶら歩いて帰って来ると、ビルの谷間から見上げた空にちょうど ほぼ円形の月が浮かんでいた。

ハワイの月は東京に比べて妙に明るい。空気が澄んでいるのか、 周囲が暗いからか。銀色に輝いて、しかも月の模様がはっきり見える。 夜空に圧倒的な存在感を持って浮かんでいる。

そんな月を見ていたら、なんだか働く気がしなくなって、早めに帰って来た。

9/3(Thu) 六畳間の中の大自然

冷蔵庫に入れといた冷やご飯というのはどのくらい持つのだろう。 珍しく外食をせずに帰って来て、何か食べるべえと冷蔵庫を漁ったら どんぶりに入れてラップをかけたご飯が出て来た。さて、いつ炊いたんだっけ。 さっぱり思い出せん。日本から来てた友人が帰った後であることは確かだから、 2週間は経っていないはず。 おそるおそる食してから4時間、まだ腹の調子は良いので、大丈夫だったのだろう。 冷蔵庫の力は偉大だ。

もし、炊いたあと冷蔵庫に入れないでおくとどうなるか。 ハワイや、東京の夏なら、一日経てばもうやばいだろう。 そこを敢えてさらに一ヵ月程放置したらどうなるか。 私は、一度だけ目撃したことがある。 [警告:食事中の方は以降を読まない方がいいかも]

まだ学生の頃。友人のアパートでの出来事だ。 確か芝居の公演が終った直後で、友人の六畳間+キッチンのアパートは 「足の踏み場も無い」という形容詞が過小評価に聞こえる程悲惨な状態に なっていた。彼女は一ヵ月近くの間、劇団事務所や劇場に泊まり込みで、 たまに着替えを取りに帰る程だったというから仕方無いのだが。 私のほうもそんな光景には慣れっこになっていたので、 黙々と掃除を手伝っていた。

見慣れた小さな炊飯器が六畳間の隅から出て来たのは、 表層を覆っていた荷物がとりあえず片付いたころである。 しかし彼女はそれに何故か触ろうとしない。そのまま掃除は続き、 すっかり部屋が片付いた頃、炊飯器だけが場違いなように畳の上に 鎮座していた。私がそれを台所に戻そうと 手を延ばしたとき、警戒するような彼女の視線を感じ、いやな予感がした。

手にとってみると、ずしりと重い。

「いつからだ」
「うーん、覚えてない」
「何故早く始末しなかった」
「気が付いた時はもう手遅れで、あとは恐くて…。ねえ、 そのまま捨てるってのはどうかな」

私の中で、生理的嫌悪感と好奇心とが一瞬、激しい戦いを演じた。 そして、毎度のことながら、好奇心が勝利を収めた。

「見るだけ見てみよう」

窓を全開にして風を入れ、二人して息を止めると、私はその 三合も炊けばいっぱいになりそうな小さな炊飯器の蓋に手をかけ、 最後に彼女と目を合わせて確認を取った。そして蓋を空けるとそこには。

そこには、箱庭のような腐海があった。

腐敗しているかと予想された米粒はむしろ乾燥して岩山のようになり、 その表面は色彩、形状共に多様な黴類でびっしりと覆われていた。 アルミで出来た内釜を傾けると小量の、すこし茶色かかった液体が 山の中腹から流れだし、底に池を作った。 臭気については二人とも息を止めていたので不明である。

私はさらに、好奇心に動かされるまま、 炊飯器の中に出現した生態系をつぶさに観察した。 そしてさらに驚くべき事実を発見したのだ。

「おい、穴が空いているぞ」

菌類の成長に伴う炭水化物の分解の過程で酸でも発生したのだろうか。 アルミの内釜の一部が腐食されて、小さいながらも穴が空いていたのである。 恐るべし大自然の力である。自然の大きな営みを支えているのは、 かような黴類菌類バクテリアの目に見えぬ生命活動なのである。

その小さな生態系が不透明のゴミ袋に密閉されて捨てられるまで、 自然の神秘に対する畏怖の念に打たれた我々は無言だった。 なお、その後、どんな場合でも残ったご飯を冷蔵庫に入れるようになったのは 言うまでもない。いかに神秘的とは言え、一度見れば十分である。

だが、たまに思うのだ。もしあのまま更に放置しておいたらどうなっていただろう。 菌類はさらにアルミを侵食し、穴を広げ、遂にはその勢力を釜の外へと拡大 していたであろうか。そして釜の周囲からじわじわと六畳間を腐海へと 変えていったであろうか。想像の中の六畳間は、 人の侵入を拒否する大自然へと変貌してゆくのだ。

9/2(Wed) ハリウッド映画の見方

ひとくくりにするのは危険だけど、ハリウッド発の映画ってのは やっぱりハリウッドの風味がある。米国の地方都市にいるとほとんど その手の映画しか観る機会がないのだが、たまにヨーロッパ映画やら 邦画やらアジアの映画やらを観てみると、確かに違いがある。 それぞれに持ち味がある、と言えば無難だが、ことハリウッド映画に 関しては、広告やVFXや大スターに金ばかりかけて、お決まりのアクションと メロドラマ、似たようなうすっぺらな映画ばかりと評されることもある。

明らかに勘違いをしてしまっているいくつかの大作は論外としても、 大スターを起用して興行成績も上げたけれど、観た後あまり心に残らない 映画というのは、確かに大量にある。映画に何を求めるかだが、 心をえぐるようなシナリオや演技を期待する向きからすれば、 大部分のハリウッド映画は「大したことないやん」というところだろうか。

実際、米国で封切られる年間数百本のハリウッド製映画のうちの99%は、 後世に残ることはないであろう、その場限りの娯楽であると思う。 作品として評価するならば、凡作、とでも言おうか。 全ての映画をチェックしているわけでもないし、しっかり評価出来るほどの 人間でも無いので、あくまで印象論だけど。

ただ思うのは、ハリウッド映画の評価というのは、それを観る アメリカ社会の普通の観客のスタイルというところまでひっくるめて 考えなくちゃならないんじゃないかということだ。 仕事を終えて夕飯にちょっとビールでも一杯引っかけて、気分が良くなった ところで気の合う友人とぶらりと映画館に立ち寄り、ボップコーンを頬張り つつ、大笑いしたり拍手喝采したりしながら観る。そういう観客のために 作られているのである。そのことを考慮しない評価は、作品論にはなり得る かもしれないけれど、なんだかピントがずれてるように思われるのだ。

数ドルで気楽に観られる娯楽、と考えたとき、ハリウッド映画は 例え凡作であろうとも「良くできている」ことに驚かされる。 製作者のほとばしるクリエーティビティというのは無いかもしれない。 だが、まがりなりにも全てを破綻なく仕上げる職人芸と言おうか。 トホホな脚本でもいちおう形にしてしまえる程に確立したシステムがある。

本当に素晴らしい、心に残る作品はシステムだけでは作れない。 だが、そういうシステムは基礎体力の一部分には違いない。 そして、年にほんの2〜3本、それらの基礎に裏打ちされて、 光る作品が登場するのだ。 山のような凡作と、ひとにぎりの傑作。 どちらも、ハリウッドスタイルの必然的な帰結なのだろう。

9/1(Tue) 上司

うちのセクションのボスが電撃入籍をしたので、本日は御二人を招いて セクションメンバーでのディナー。いつもはクールなボスも根堀り葉堀りの 質問責めとひやかしに相好を崩す。ディナーは$30.00で中華のコース。 値段の割に相当旨かった。

会社自体が非常にフラットな組織構成であるせいか、 あまり上司というものを意識したことが無い。 もちろん決定権を明確にするためのハイアラーキの機能というのは 十分に意識しているのだけれど。 どちらかというと役割分担というのに近いかな。物事を決める人と、 決めるための材料を練り上げ、決まったことを実行する人と。 どちらが欠けてもうまくない。 もちろん、「上の方」でなるべくそういう雰囲気になるように 気を使っているのだろうけれど。


[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]

Shiro Kawai
shiro@lava.net