1998年8月

[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]


8/31(Mon) 悩みの相談

悩みを人に相談する、ということがどうも苦手。

辛いのは、手放すべき執着を手放そうとしないから。 迷うのは、失うことを恐れて見るべきものを見ていないから。 答えが分かってしまっているのだから、相談する必然性がないのだ。 自分のココロの単純さには毎度のことながらあきれて笑いがこみあげてくる。

迷いや執着がふっきれて始めて、 具体的な意見を人に求められるようになる。 でもその段階での辛さや迷いは、既に定まっている道を実現するのに伴う 困難だから、もはや「悩みの相談」ではない。

それでも、現在の自分の状態を誰かに話せるということは 貴重だ。ただ聞いてもらうだけで良い。愚痴ではなく、現状報告として。 頭の中に嵐が吹いているような時、自分の考えの範囲外にいる他者の存在は、 押し流されそうな船の、碇にも似た存在だ。

8/29(Sat) There's something about Mary

本日の映画はラブコメディ "There's something about Mary"。 監督の Bobby&Peter兄弟は"Dumb & Dumber"もやったのか (観てないけど)。 これが、公開からしばらくたつけど評判が衰えないのだが、観に行って納得。 これは面白いぞ。映画でこんだけ笑ったのは久しぶり。 狙ったドタバタなんだけど間がうまい。 作ってる方も楽しんでやってる感じだし。 ちなみにスタッフロールにちょっと仕掛けがあって 映画が終っても誰も席を立たない。

8/27(Thu) ナマでする意義

元、某劇団関係者でやっているMLで、脚本家・演出家・コピーライターである Tさんが芝居における「ナマモノ(ライブ)である必然性」についてポスト。 以下はそれへの私の返事。

しろう@のほるるです。

計算機-人間相互作用系の研究からリアルタイムCGへ、そして巡り巡って CG映画なぞに関わり始めたのがちょうど1年前。画が上がるのはまだまだ 先ですが、映画のプリプロダクション/プロダクションの過程もそれなりに 覗けました。ライブ性の意味とか演技って何じゃろとか考える材料には事欠 かないのですが、じっくり考える余裕も作れない日々を送っています。

でも高階さんに触発されて、まとまらないながらもちょっと書いてみます。 多くの方にとっては既にあたりまえのことかもしれませんが。 長いです。

[1. 自分にとっての「ナマ」の意味]

役者の頃を振り返ると、ライブでやることの必然性は、自分にとっては 「表現したいもの」を突き詰めることとは別の次元にあったと思います。 一回きりの勝負であることゆえの快感というものを味わえる、というのが 大きかったですね。

もっともそれだけなら、スポーツでも楽器演奏でも良かったわけですし、 極端な話、日常での一日一日だって一回きりの勝負なんで、何ら変わる ところは無い筈なんですが... 「見せる」という行為が特に自分の快感 中枢を刺激したからかもしれません。 (「俺を見てくれ!」という... 根がさびしがりなのかも知れません)

自分がライブパフォーマンスを見る側に回った時も、何が一番見たい かって「見せる」ことに賭けている演者の勝負が見たいのです。 彼らのコミットメント、緊張から成功へのカタルシスに酔いに行くわけです。 以前 Cirque du Soleil の "Quidam" にむちゃくちゃ感動して通い詰めて いたのも、サーカスという、一回一回が文字通り命賭けである舞台に 無闇に心を動かされたからでした。

ところで、私にとってのライブ性とは、必ずしも同じ空間を共有しな くても成り立つもののようです。フジTVのCG局におじゃましてライブCGを やっていた時にも、舞台に立っていた時と同じようなキモチヨサを感じた ので。生放送中、スタジオの片隅でオペレーションしながら、それが全国の お茶の間に流れてると思うとキモチヨクなってしまうという。

ライブで何かをするというのは、一瞬しかない「然るべき瞬間」を捕まえ ようとすることなんじゃないか、と思います。リアルタイムで見ている観客 の前では、「然るべき瞬間」は後にも先にも一回きりしかありません。 早すぎても遅すぎてもだめだし、やり直しも効かない。その危うさこそが 私に取ってのライブの本質であるように思います。

[2. CG映画作り]

ライブ性という切り口で観ると、芝居と映画のアプローチは想像していた 以上に違いがありました。映画でもライブアクションならば監督によっては 撮影時のliveness (なんて言葉は無いか?) を重視するでしょうが、単位時間 当たりの画を作るコスト(役者やクルーの手配だとか、VFXだとか)が高くなれ ばなる程、shootingの相対的な重要性は低下し (絶対的な重要性は変わらな いが)、事前のプラニング、事後の処理の比重が増して来ます。 さらにアニメーションともなれば、「アクションを変えての撮り直し」なんて ことをすれば全部描き直しになるわけで、プリプロでのプラニングの緻密さは 相当なものです。(このへん、日米で違いがあるかもしれませんが)。 ストーリーボード完成後に、layout (animaticsとかchoreographyとも呼ばれる) という段階で極めて綿密にタイミングや構図が調整されます。

3DのCGフィルムでは、理屈の上ではセットと役者が計算機内にあるわけで、 通常の2Dアニメーションよりはカメラ位置やら演技やらを実験する余地があり ます。もっとも実際に絵を計算するレンダリングの過程にものすごく時間が かかるため、そうそう気安く「撮り直し」も出来ないのですが。

そういった事前のプラニングに加え、3DCGではshooting自体も様々な素材の 寄せ集めに取って替わられます。身体の演技は役者を使ったモーション キャプチャ。表情は別の役者の顔をキャプチャ。場合によってはアニメーター が手作業で全てやった方が良い場合もあり。もちろん声は別の役者。 こうなってくると、果して「演技」をする主体がどこにあるのか、実に 怪しくなってきます。このへんに感じる違和感というのはまだ抜けません。

演出や他の役者との絡みがあるにせよ、最終的に一人でトータルに自分の 演技を作りあげる舞台とは対極に位置するこの作り方は、参加するクリエーターの ベストの部分を集約することが出来れば凄いものが出来る可能性があります。 逆に一貫性が保てないと、一つの要素の不完全さが全てをぶち壊しにする 可能性も高いです (芝居ならば、「荒削りだが迫力がある」という演技に なり得るかもしれないのに)。

もっとも、プロの役者ならば、自分の演技要素を分解してチューニングして いったり、緻密な演技を細切れにして常にベストの状態で出すというような ことが出来るのでしょうから、その作業を多人数で行なうだけと考えれば たいして変わらないのかもしれません。私が綺畸でやっていたような、長い 時間をかけたり他の役者の助けを借りなければ日常と異るステージでの集中 状態に持って行けない、というのは素人ゆえのことだったのでしょう。 (私の代では、早智子なんかはうまく集中の度合をコントロール出来てたと 思いますが)。

いずれにせよ、プロとして、しかも共同作業の一員としてものを作って ゆく以上、自分のパートに関しては前提として「職人」にならなければ いけないな、と感じています。トータルで良い画を作るために要求される ことは出来なきゃ話にならなくて、自分なりの貢献というのはそれをクリア した上での話だなあ、と。

[3. 計算されたプランニングとライブ性---Saving Private Ryanに思うこと]

話がずれて来ましたが、緻密な計算とライブ性との同居に関して、最近 Spielbergの "Saving Private Ryan" が極めて良く出来ていたのでちょっと 触れておきます。日本では9月公開なので、詳しくは触れませんが。

この映画、舞台が1944年のヨーロッパ戦線なので、多くの部分は戦闘シーン です。その映像のパワーたるや凄まじい。そして無駄をとことん削った シナリオ。一回目に見たときはもう映像とシナリオの迫力に完璧に圧倒 されて何も考えられなかったんですが、時間を置いて二回目を観てみると、 映画中の多くの部分が実はうまく計算されて構成されていることに気づきます。 映像の迫力だけの映画ではなく、ベースではしっかり見せることを考えている、 そのへんにSpielbergのしたたかな職人性が見えます。

その上でなお、戦闘シーンでは見事に「一回きりのライブ性」というものを 捉えています。手持ちカメラの多用、短いシャッタースピード、絶妙な カッティングなどの要素もありますが、何よりその映像の迫力は、役者も カメラマンも他のスタッフも、それぞれのshootingを「一回きりのもの」 とする覚悟から来ていると思うのです(実際にどう撮ったかは知りませんが)。 撮影現場は凄まじかったろう、と思わせる映像。その中で捉えられた いくつかの演技、表情は、計算だけでは決して得られぬものであったはずです。

緻密な計算の上で、一回きりのチャンスに最高のものを出すこと。 結局はここに行きつくのでしょうか。それなら芝居も映画もゴールは同じ ようなものなのでしょうか。

CGという道具がそれにどこまで貢献できるのか、まだ定かではありません。 今のところ、映像作品でのCGの使用は、shootingを行なった後の段階にほぼ 限られています。しかし、技術の進歩によって、映像作りのターンアラ ウンドタイムが縮まってゆき、リアルタイム性能も進歩するならば、 CGという「計算されたもの」と役者のライブな演技との良い形での融合が 可能になるかもしれません。

まだ私自身、見えていないことが多いので歯切れの悪い文章になってしまい ました。何かを作りあげればまた言うことが変わるでしょう。

長々と失礼しました。

8/25(Tue) ハワイ生活一周年/Blade

今月末で、ハワイに移ってからちょうど一年になる。 昨年の8月は、怒涛のようなSIGGRAPHでの展示発表を終え、 10日程休みをとって米中西部を旅したんだっけ。 Los Angelesチームの連中とのfarewell lunch、 そして、荷物を全て運び出したがらんとしたアパートメントで 寝袋で寝た最後の夜。全てが鮮やかに思い出される。

とは言っても、この一年が短かったというわけではない。 一年前の記憶は鮮やかだが、それは遥かに昔の事のようにも感じられる。 多くの変化を経験し、(まだ最終形に至らないものの)いろんなものを作って来た。 ぎっしり詰まった、密度の濃い一年であったと言える。

年齢を経るにつれ、日々の過ぎ去るのが速くなってゆくのではないか、 と思ったことがある。10歳の時の一年はそれまで生きて来た時間の1/10だが、 20歳では1/20、40歳では1/40、だから一年というのは歳を経る程に相対的に 短くなってゆくのだ、というもっともらしい説明を聞いたこともある。 しかし、どうも最近はそんな気がしない。 殊に米国に移ってからは、新しいことを次々経験するからだろうか、 一年が二年分くらいの密度であるようにも感じる。

一年という期間にどれほど多くの経験ができるかを考えると、 むしろそら恐ろしくさえある。変化の無い日常を送ることだって、 多分可能なのだ。だがその行為が、どれだけ自分の可能性を潰すことになるのか。 あせる必要などないとわかっていても、時間のもつ重みに圧倒される。

一年後の自分はどこで何をしているだろうか。 少なくとも一年分だけは成長していたいものだ。


同僚の何人かが参加していたというので観に行った映画 "Blade"。 ヴァンパイアハンターの話。設定もストーリーも演出もとってもB級映画の 王道を行ってて、お約束すぎるところがかえって楽しめたりする。 カメラと編集が良い。

8/23(Sun)

午前中バスケをやって、そのままのんべんだらりと休日を過ごしそうに なるも、夜になって、月曜朝までに直しておいた方が良いバグが あったことを思い出しオフィスへ。 まあ裏方は夜働くものと相場が決まっている。

8/22(Sat) The Avengers

午前中インラインスケート、午後テニス。汗で失った水分はビールで補給。 夜の映画は "The Avengers"。1960年代に流行ったTVシリーズが元らしいけど、 生まれる前のことなど知らん。Uma Thurmanが出てるから観に行った。 世界征服を企む悪者に挑むシークレットエージェントといういかにもな 筋書きに、独特のテイストがあってそこそこ楽しめる。 わざわざスクリーンで観る程のことも無いとも思うけど。

8/21(Fri)

夜中迄に帰れるかと思っていたのだが、ぎりぎりになってバグが出た。 だが眠くて考えられない。ひー。

一見静かな海の中に強い海流が存在するように、 何でもない日常ってのにも深いところに大きな流れがあって、 気づいてないと足をさらわれるなあ、と思うことあり。 何でもない日常の中の、ほんの一本の電話にも、 実は人生の大きな分岐点が隠されていたりするから、 人生ってやつは油断できない。 果して今回の選択は正しかったのかどうか。 現時点ではわかりようがないが、常に後戻り出来ない道を歩いていることは スリリングである。 自覚してさえいれば恐れる必要はないのだけれども。

8/20(Thu)

むう、こんなに遅くまで仕事をしたのは一ヵ月ぶりくらいかも。 方針変更に伴うデータ構造の大幅変更だったのだが、それでも意外とスムーズに 移行できたのでハッピー。

今月号のIEEE Spectrumの記事 "Engineers as entrepreneurs"。 技術家出身の起業家による議論なんだがなかなか面白い。 いろいろ思うところはあったがもう眠いのでコメント次の機会にする。 忘れないようにトピックだけメモ。

8/19(Wed)

帰りがけに職場のe-mailで激しい議論。 そのトピックに関しては自分はシニカルになりがちなんだけど、 e-mailだと読み直して少しでも建設的な方向に持ってゆけるので、 直接の議論よりはいいかも。

8/18(Tue) Maui---The Valley Isle

行って来ましたMaui島。素晴らしい。 今までこんなに近くに住んでいてあの島を知らないなんて、 なんて損をしてきたのだろう。 ちなみにHonoluluからだと、この季節で、2泊3日の飛行機、車、宿代込みで 一人$250くらい (ホテルによってかなり値段に差がでる)

何が良いのかと問われるとはっきりと答えることは出来ないのだけれど、 Hanaで風と波と鳥のさえずりを聞いてのんびりしたり、 雲の上のHamleakala山頂で信じられないくらい青い空を見たり、 Kulaから一面に広がるさとうきび畑を見たりしていると、 頭を覆っていたいろんなもやもやが晴れて、 意識が天までずとーんと突き抜けてゆく感じ。 心の大掃除をした様な。

何回も行ってみたくなる島だ。

8/14(Fri) 労働ビザ

あなたは日本にいて、今日仕事を辞めたとしよう。 不景気のさなか、なかなか職探しも大変だろう。 しかしある程度若ければ、バイトで食いつなぐこともできるだろう。 手に職があれば、個人事業主としてやってゆくのも大変だが不可能ではない。

しかし、もしあなたが米国に居て、労働ビザで働いていた場合はちょっと話が 違って来る。ほとんどの場合、スポンサーとなっている企業を辞めた時点で 労働ビザは無効になり、次の就職先を見つけてビザを申請し、 それが降りるまではアルバイトさえもできなくなる。 その間、一旦米国外に出たら、下手をすると戻って来ることさえできない。

労働ビザ発給の基本的な審査基準は

「こいつを働かせるのは米国にとってプラスかマイナスか」

ということだ。優れた芸術家やスポーツ選手、良し。 大量の金を米国に持って来てくれる投資家や、 多国籍企業の米国拠点の駐在役員、良し。 技術的スキルをある程度持っていて、 米国内での雇用だけでは不足している場合、良し。 逆に、米国内の人材でまかなえるポジションの場合は外国人の入り込む余地は無い。

このうち、一定の技術を持っていて、米国内では供給が充分でないと 判断されるポジションに就く場合に、期限付きで発行されるビザがH-1Bという カテゴリである (私もこれ)。こいつは年間発行枠が決まっているのだが (65,000)、 ここんところエンジニアが不足しているのかどうか、今年の分が早々と4月か 5月くらいに終ってしまい、10月まで新規発行はされないということになっていた。 しかし産業界の方は技術者不足を強く主張、ついに先月あたりだったか、 40,000の臨時追加枠が議会で承認されたのである。 知合いで、転職したもののビザが降りずにぶらぶら生活を余儀なくされていた人が いたのだが、おかげでようやくビザが取れたそうで何よりだ。 なにしろバイトも出来ないのだから、プー太郎にさえなれない。

外国人の雇用を増やすことは、自国人を職場から締め出すことになるのか、 それとも産業を活性化させてより多くの雇用を生み出すのか。 このH-1Bの追加枠問題は、最近のIEEE "Computer" 誌でも ホットな議論になっていた[1][2][3]。

私は「国家」という概念は便宜上のもの (他に良い管理単位が出来ていないのでとりあえず採用しているもの) だと思っているので、基本的には「安い労働力によって自国が脅かされる」 という考え方には賛同出来ない。 もちろんそれが直接の原因で職を失った人にとっては、 そんな理屈など腹の足しにならないので笑止千万だろうが、 だから外国人の流入を制限する、というのは根本的な解決にはならない。 外国人が安い給料でもそれに甘んじて働くということは、 自国の人間が感じている生活のレベルと外国人の感じている生活のレベルに 差があるからである。最終的にはそこをどうにかしなければならない。 もちろん、現実的な対応として、 国家レベルで労働力の流入を管理するというのは、 現時点での便宜的な解であって良いのだが。

戦後日本を復興した親の世代の苦労に乗っかって、 若造が何やらほざいていると言われればそれまでだが、 その苦労の恩恵を受ける人を日本社会に属する人だけに限らなければならない 理由もない。これは米国だろうと他の国だろうと同じである。 ましてや、一国だけ独立して経済を運用してゆくのが不可能な現代社会にあっては なおさらである。

現実は理屈通りにはゆかない。だが、そこで諦めるよりは、 山道の途中に居るのだと思いたい。例え頂上が無い山だとしても、 登るほどにほら、景色が良くなる筈だから。

[1] T.J.Rodgers: "Building the US Workforce, One Engineer at a Time", Computer, 31(6), June 1998.
[2] Dominique S. Black: "Behind the Hype About the IT Labor ``Shortage''", Computer, 31(7), July 1998.
[3] Ed Parrish (ed.): "Members See Shades of Truth in Technology Worker Debate", Computer, 31(8), Aug 1998.

ところで明日より友人とマウイ島に行って来るので日記はちょっとお休み。 結構な身分だねえ>自分。 でもちゃんと仕事を休むのって久しぶりなのだよん。

8/12(Wed)

今日の午前中は、ハワイにしては珍しく雲ひとつ無いかんかん照りの空。 休み時間に、凍えそうな冷房の計算機室から出ると、 密度の濃い空気が押し寄せる。 日射しはまるで激しいシャワーを浴びているようだ。

東京のぴもすけさんから、頼んでおいた某ゲームのサントラが届いた。 作詞も手掛けておられたとは。 ライナーノーツが、苦悩を突き抜けた感じで良い。

繰り返し聞いてしまう。 飛び抜けるインパクトがあるという感じじゃないのだけれど、 なんか魂を絞り出すような音が耳に残る。 製作末期の頃に差入れに行ったら、椅子にもたれて寝ていて、 起こして良いのかどうか迷ったのを思い出す。

私はこの作品には直接関わっておらず、終始外から見ているだけだったので 製作途中の葛藤は分からない。だが出来上がったものには、 苦しんだ分だけの厚みが確かにある。 やっぱり、何かを創るということは凄い。

8/11(Tue)

仕事場のSGIのディスクが不調で替えてもらったのだが、 いろいろいじくりまわしていた設定が全部リセットされてしまったのに気づく。 メイルが出て行かないのが参った。 基本設定は、みんなpopサーバに読みに行くことになっているのだが、 SGI上のemacsで全て仕事をしたい私は勝手にsendmailを立ち上げて リレーしていたのだ... コンフィグレーションを作り直して、確かに転送される ようになったのだが、別名のドメインアドレスを使うとhost unknownで はねられてしまう。これを機にメイルエージェントを変えるか。

セミナーは演習が入ってどうにか眠気に打ち勝つことが出来た。 講義の時間より、休み時間に講師と話す方が有意義だったりする。

8/10(Mon) にわか学生

今日から週末まで、University of Hawaiiで並列計算のセミナーを 受講することになったので早起きせねばならない。と言ってもセミナーは 9:00〜17:00なんだけど。その後オフィスにも出なけりゃならないからなあ。 セミナー自体は、マウイ島のスーパーコンピューターセンター (MHPCC) の主催。 (ハワイ諸島は、宇宙観測の重要な拠点でもある。MHPCCでは、 ハワイ本島Mauna Kea山頂の望遠鏡施設や、 マウイ島の電波望遠鏡等から得られる画像データを処理しているが、 空いた時間を民間にも貸し出しているのだ)。

キャンパスを歩く。すれ違う学生が皆やけに若く見えるということは それなりに年をとったっちゅうことか。 朝から夕方まで講義を受けて、ちょっと学生気分に浸ろうかと思ったが、 学生時代、実験と演習にしか出てなかった体は正直に反応し、 睡魔との戦いになってしまった。 しかしどうやら、並列計算から離れていたここ6〜7年くらいの間に 世の中はずいぶん進歩したらしい、ということは分かった (大丈夫か?)。

明日からは演習だ。わくわく。

8/8(Sat) 物語の楽しみ

朝っぱらからバスケをやって、昼寝をしたらもう夕方。 刺身を肴に一杯やって上機嫌。平和な土曜日。

「物語」を読む/聞く楽しみって、何なのだろう。 キングの "The Eyes of the Dragon" 読了してちょっと考える。 キングにしては珍しく、現代社会との接点の無い、 中世風の世界に舞台を取ったファンタジー。 自分がキングの作品に惹かれる点は、描かれる主人公の脆さと強さが、 自分の心の中にあるものとよく対応して、そのために現実の不条理性に 気づかされるというところにあると思っていたのだが、 この作品ではあまりそういうものは無い。そういう意味で、普段感じる 没入感というものは無く、最初から最後まで第三人称的な視点、あくまで 「物語を読んでいるのだ」という視点を離れることは無かった。

にもかかわらず、面白いのである。 久々に、睡眠時間を思いっきり削って読んでしまった。 テーマやモチーフは他のキングの作品で散々語られていることだし、 現実との接点も無い。とすればこの面白さは、純粋に彼の語り口から来るもの に違いない。物語というものが、その内容を伝えるためだけのものなら、 この作品はここまで面白くは無かっただろうと思う。 物語の語り手の楽しみが伝わって来ることが重要なのかもしれない。

8/7(Fri) The Negotiator

這うような速度だけど、何とか前に進んでいるようだなあ。 とにかく形にしないと始まらない。

今日の映画は "The Negotiator"。籠城犯の説得等を専門とする "negotiator"。 シカゴ警察きってのnegotiatorであるDanny (Samuel L. Jackson) が、警察内の 横領疑惑に巻き込まれ、親友を殺されその罪を着せられる。逃げ場を失った彼は 上官を人質に取り署内に籠城。そしてもう一人の優秀なnegotiator、Chris (Kevin Spacey) と対決することになる。

...というおいしい設定なんだが、オープニングシーケンスのリズムが 悪くてかなり損してる。何か滑べってしまって説得力が無い。 後半テンションが上がるだけに惜しい。音楽もちょっと外している。 警察署内のスキャンダルというと昨年のLA Confidentialとどうしても 比較しちゃうからその点でも不利かも。

サブキャラクタの一人をやってた Paul Giamatti は最近良く観るな。 Truman ShowにもSaving Private Ryanにも出ていた。 ちょっと変わった雰囲気がある役者さんだ。

8/6(Thu)

ミーティングを重ねるにつれ、立場の不鮮明さが気になる今日この頃。 中途半端でいることは、心身にものすごい負担を強いる。 無理な姿勢で重い荷物を支えるようなものだ。 過渡期が一番難しい。出来る範囲で何をすべきか。 長期的なコミットメントだけでは不十分で、 短いスパンでのコミットメントが必要だな。

Pixarにいた人とちょっと話す。うーん、やっぱりさすがだなあ。 蓄積というのは、何年も経ってから効いてくるんもんだ。 うちのプロダクションはどうなるだろう。

8/4(Tue) Saving Private Ryan

凄かった。先々週公開のSteven Spielbergの新作 "Saving Private Ryan"。 始まってすぐにいきなり血の海、地獄のような戦場に観客をひきずり込むという 映像的なインパクトもものすごいんだけど、それよりも その画を作る裏に秘められた監督の執念に圧倒される。 気迫がスクリーンからただよってくるのだ。 無駄を完全にそぎ落とし、全く妥協のない脚本、映像、演技は、 完璧と呼ぶに値するかも。

1944年、ヨーロッパ戦線。4人兄弟のうち3人までが相次いで命を落した Ryan兄弟の最後の生き残り (Matt Damon) を、 Tom Hanks率いる8人の小隊が、前線を超えて敵地の奥深くまで救いに行く話。 何故、一兵卒を救うために8人もの命を危険にさらすのか。 論理的に考えれば矛盾する設定が見事に、戦争というものの 不条理性を浮き彫りにしている。なんて言葉で言うのが白々しくなるほど、 完璧な出来。 スクリーンの中の人間はみなその場に生きている。 一言も説教めいたセリフは聞かれないし、御都合主義のシーンもない。 だが、メッセージはこれ以上無いくらい明快だ。

Fubar.

Earn it.

必見。

8/3(Mon) Offended?

車は、バッテリーがいかれてたのであった。直ってなにより。

米国のRPGファンサイトで、「Final Fantasy Tacticsはカソリック教会を 誹謗しているか」という議論が盛り上がっているのを見つけた (RPGamer. "Editorial" のコーナー)。 確かに、FFTの「教会」が中世ヨーロッパのカソリック教会から形式を 借りているのは明らかだが、きちんと話を追えばそんな解釈は出て来ないだろう、 と思うのは私がカソリックの信者でないからか。 とにかく、ものの見方が全く違うということだ。

そういうプレーヤーにも配慮して作品を作るべし、 というのは正論ではあるけれど、気を使うべきことがらと、 そうでないことがらとがあると思っている。 前者を忘れるのは無神経、後者にまで気を使うのは阿るということ。 このふたつは一見連続したスペクトルの両端で、間にはグレーゾーンが あるように議論されることが多いのだけれど (そして最後は人それぞれとか 常識とかに落ち着く)、私の中ではわりと明確に分かれている。 境界がはっきりしないのは、境界面がフラクタルになっているからだけで、 具体的な事象をとればどっちかに属するのだ。

という議論を展開しようと思ったけど、もう眠いから今日はここまで。

8/2(Sun) 個性化と標準化

しまったあ。チャリンコで会社に行って、すぐにAAAに電話するつもりが、 メイルを読んでバグの対応などしてはまっている間にすっかり忘れていた。 結局夜中過ぎになってしまったのでまたチャリンコで帰ってくる。

自宅のほうのアドレスにMS-Wordフォーマットの添付文書など送って 来た人がいて困った。世の中皆Wordを使っていると思われてもなあ。 会社にもってってエディットしてみるが、うーむ、テキストエディタに 慣れた身にはどこがどう使いやすいのかわからん。発想を変える必要が あるのかな。それはおいといて。

一種類のものが広まれば、いろいろ覚えなくて済むから良い、 という論を聞くことがあるが、それはちょっと違うと思う。 大事なのは、標準化された「インタフェース」が広まること。 そのインタフェースを実現している「実装」にはむしろ多様性が必要である。 機械にせよソフトウェアにせよ、 使う目的によって必要とされる機能や性能は異なってくるが、 よく考えられたインタフェースはそれを変えること無く 目的に応じた実装を許す懐の深さを持っている。 インターネットがこれだけ広がっているのも、 インタフェースを公開の場で討論し、複数の実装で検証するという ことが行われて来たからに他ならない。

これは、何もソフトウェアに限ったことではなく、 個人と社会の関係にも言えることかもしれない。 個性化とか個人主義と、社会通念とか常識とかいうのは必ずしも 対立する必要の無いものだと思う。前者が実装もしくはコンテンツ、 後者がインタフェースだと思えば。個性の名のもとにインタフェースを無視して 勝手なことをやるのはただの我儘。逆に社会性の名のもとに個々人の中身 までも規格化しようとするのも間違いだし、必要の無いことだ。 どうもそのへん混同している人がいるような。

まあ現実には標準化の過程でも各企業のさまざまな思惑やらなんやらが 絡んで来て、なかなか政治的な世界らしいのだけれど。

8/1(Sat)

うーむ、車が故障。会社の駐車場で。エンジンがかからん。 バッテリーか、セルモータか。 昨夜、友人宅のバーベキューに行こうとした時に発覚。 夜があけたらAAAに電話しようと思っていたのが、 結局徹夜した後帰って来て一日寝倒してしまった。 明日こそは電話せねば。


[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]

Shiro Kawai
shiro@lava.net