1998年7月

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7/30(Thu) 留守電は苦手

留守電というのはどうも苦手。あ、こっちからかけて留守だった場合の話ね。 知合いなら別にどうってこと無いのだけど、初めてかけるところだと むやみに緊張する。それも要件がちょっと込み入っていて、 いろいろ説明しなくちゃならなかったりすると。

来てすぐは英語での電話そのものが苦手で、 電話が鳴ると3コールくらい覚悟を決めてから取っていたものだ。 身ぶり手ぶりジェスチャにボディーランゲージという切り札が 封じられている上に、回線状態が悪かったりするとますます聞き取れなくなる。 しかし、以前の日記にも書いたけど、こちらではとにかく電話をよく使う。 日本だと窓口に出向いてやるような用事が大抵電話で済んでしまうのだ。 そんなわけで、分からないところを聞き返す術とか、自分の言ってることが 通じているかどうかをはかりながら話す術なんかが身について、 相手が知合いとか、仕事上の話で要件がはっきりしているものなんかは大分抵抗が 無くなった。

しかし、不特定多数を専門に相手にしている銀行の窓口とかではない、 初めての人にかけるとなるとやっぱり緊張する。自己紹介から始めて 込み入った要件を話さなけりゃならないとなるとなおさらだ。 クレームの電話とかなら、とにかく自分の言い分を分からせれば良いと 割り切ってかけられるんだけど。オフィシャルな言い回しなんていうのは、 なかなか日常会話だけをやっていたのでは身につかないものだ。 なんとなく背筋を延ばして椅子に座り直したりして、 ダイアルする前に3回くらい深呼吸して、 どきどきしながら呼出音を聞くのだ。

そして、かちゃ、と相手が取って、口をひらきかけた時に、 "Hello, I can't take the phone right now. Please leave a message and your number then I'll call back later." とか 録音した声が受話器から流れ出してくるのだ。ぐっ、緊張の持って行き場がない。 相手の反応もわからないところで喋りまくらなければならない。 センテンスをまとめようとする間もなく、無情なビープ音が鳴る。

ふう。こいつもいつかは慣れで何とかなるんだろうか。

全然関係ないが、台所の電球がまた切れた。 アメリカの電球は日本のに比べてやけに切れやすいのだが、 さすがに替えてから一日で切れるのは無しだと思うぞ...

7/28(Tue) 旅費精算---面倒だなあ

うー、出張には旅費精算というのがつきものだが、 私はこいつが苦手である。 もともとレシート等をまめに取っておくほうではない。 おまけにこっちでは、タクシーの領収書は自分で記入しなけりゃならんし (運ちゃんは普通無記入のレシートをくれる)、 食事のレシートもチップなんかは入ってない。 めんどくさがって請求しなかった分がけっこうあるような気もする。

日本の事情は良く知らないんで比較はできないんだが、 レシートの扱いが上記のようにいいかげんなくせに、米国の税務署の目は厳しい。 例えば食事代として一日のうちに費せる金額というのは基準が決まっていて、 それ以上会社が払い戻した場合は課税対象になる。これはLA、SFなど物価の 高い都市で一日$36、他の都市では$28。確かに贅沢を言わなければ十分な金額だが、 時間が無くてホテルや空港のレストランなんかで食べなくちゃならないなんて ことになるとちょっと足が出ることもある。 まあ普段だって外食してるんだから、全額払い戻しされなくても構わないんだけど。 日本だと出張手当とかがでて、それに込みになるんだろうな。

とりあえず、かばんの底でくしゃくしゃになっているレシートを うっかり捨てちゃわないうちに回収しておかねば。

7/27(Mon) 変わらないもの

アパートメントに帰ると、一冊の文集が届いていた。 「都立武蔵高校演劇部OB会公演 記念文集」とある。

昨年、顧問の先生の定年退官記念というのにかこつけて、 4年越しの準備の末、高校の演劇部のOB達が芝居を打った、その記録である。 本番の時私はすでにUSに移っていたので、当日に観客&エキストラとして 参加しただけだったが、皆仕事や子供を抱えているというのに、 卒業したばかりの代から40過ぎのOBOG達までが集った舞台は 不思議なパワーに満ちていた。 決して全員がプロフェッショナルではないのにもかかわらず、 妙な迫力とアンサンブルの良さは、観客の反応を 見る限り必ずしも身内のひいき目ではなかったようである。

私と同期の一人 (現在は彫刻家) はこう書いている。 「大学の同窓生というのは、社会人に なってみると皆似たような仕事に就いていますが、高校の仲間というのは なんとまあ様々な方向に進んでいるのだろう」。 まだ高校生だったころ、「10年後には皆どうしているのかなあ」などと 語り合ったころを思い出す。実際の人生は想像の範囲を遥かに超えていた。 10年経って、人生の境遇は想像以上に変わっていたけれど、 でも不思議なことに、皆の中にある「魂」、 モノを作る時の目の輝きは、当時と何も変わっていないように思える。

さらに10年後、皆どうなっているだろうか。

7/26(Sun)

昨日は14時間かけてフロリダから帰って来て(東京より遠い!)、 帰りの飛行機の中ではほとんど寝てたもんだから、なんだか生活時間がシフト気味。 昼過ぎに起き出して洗濯や、山のように買った本の整理など。

まだまだ知りたいこと、やってみたいことがたくさんある。 限られた環境に閉じ籠っていると、つい、何だか何でも知っているような 気になって来てしまう。 だが、ひとたび多くの人と交流してみれば、人類の知恵の宝庫の豊かなこと、 そしてまだ未開拓の豊かな原野が限りなく広がっていることに 驚かされる。

大学の学部を出て、大学院に入ったときに得たのは、 「突然道が無くなって、草原に放り出された」という感覚であった。 教科書や講義なんていう舗装された道が突然途切れて、目の前に広がるのは 無数に交錯する踏み跡のみ。もちろん遥か先を歩いている人が大勢いて、 最初はなんとなくその後をくっついて行くんだけど、時々、目の前の踏み跡が いつのまにか無くなっていることもある。果してその先には何もないから 皆進まなかったのか、それとも見落としているだけなのか。 前者の場合が多かったりするのだが、そこらへんがすぐには分からないのが ちょっと恐い。一方で、他の人があっちでいい景色を見たとかこっちに おいしい果物が成っているのを見つけたと聞くと、そっちに行ってみたくなる。

でも結局、楽しいからそこにいるんだよね。 別に一番にあの山にかけ上がらなくても、森の奥にはまだまだ秘密と驚きが 埋もれているはず。

7/25(Sat) フロリダSIGGRAPH

コンピュータグラフィクス関係のカンファレンスでは最大規模の、 SIGGRAPHに行って来た。 今回はフロリダのオーランドでの開催。 飛行機から見たフロリダは、一面に緑の絨毯をひいたような 実に美しい土地であった。 ハワイより暑くて蒸すのには驚いたけど。

個人的には今年のSIGGRAPHはなかなか刺激的であった。 いろいろな人と突っ込んだ話ができたのが収穫。かなり落ち込むことも あったのだが、結局どこでも同じような問題を抱えていて、苦しみつつも 進んでいるのだなあ。作品を創るというのはそういうことなのだ。 何年にもわたる、ほんの少しづつの進歩が、最後に大きなブレークスルーをもたらす。 なんか希望が見えて来た。

7/15(Wed)

今週末から来週一杯、SIGGRAPH参加のためフロリダ出張。わくわく。
しかし、「それまでにお願い!」っていう仕事がどんどん入って来る。しくしく。

7/14(Tue) 転機

現実の生活において、転機というのは、それほどドラマチックには現れない。 むしろ日常の些細な出来事のふりをしてそれは訪れる。 決心をするのは、そんなにおおげさな事じゃない。 気がついてみたら決心してた。その程度。

ただ、未知の領域に踏み込むのを恐れる自分の心が、 じたばたしていろいろ演出しようとする。 悩んでるふりをしてみたりとかね。 まるでやんちゃな子供のようだ。

ちょっとした転機があって、それから2日くらい、 うだうだ言ってる自分の心につき合っていた。 結論なんて3秒で出てたんだけど、それじゃあんまりな気がしたせいか、 もったいぶってみたらしい。 こんなとき、話が出来る友人が居てくれることの何と有難いことか。

7/12(Sun) 儀式と、観客としての神の意味

昨日のことだが、同僚I君の結婚式&パーティに参加。 教会での式は簡素なのがかえって良かった。 ここんとこ俄雨の多かったホノルルも昨日は良く晴れて、 開け放した教会の扉から心地よい風がそよぎ鳥のさえずりが聞こえてくる中、 とっても良い人そうな牧師さん (あれ、神父さんかな。カトリックだか プロテスタントだかも知らずに参列してたワシ) の下、二人は変わらぬ愛を 誓ったのであった。

そんな様子を観ながら不謹慎にも考えていたことは、 「これもひとつの芝居なのだなあ」ということ。誤解を避ける為に 早めに断っておくと、決してその二人が本心に反して式をあげたとか いう意味ではない。私の以下の話はあくまで「演ずる」という行為を 「本当の自分にアプローチするための方法」と捉えた上での話。

何故芝居かって。だってあらかじめ定められた台本があり、 それをなぞる新郎新婦がいて、そして観客としての参列人がいる。 「設定」と「役者」と「観客」。芝居としての条件は満たされているではないか。 もし演ずること無しに結婚という事実を本人並びに関係者が事実として 認知できるのなら、そんな儀式などする必要はない。 型どおりの式を選択しなかった人達でも、多くの場合、 人生の節目に対し、別の形である種の儀式を行なっている筈だと思う。

「汝は健やかなる時も病める時も...」の問いに、「はい」と答えることは あらかじめ定められている (そう答えなかったらそれはそれで別のドラマになる わけだけれども)。でも、「先が見えているからつまらない、やる意味が無い」 などと言う人はいないであろう。千のカップルがいれば、同じ台詞でも その意味は千通りあるはずで、その意味を確認するためにわざわざ決められた 台詞をなぞるのだ。

そして、それを見せる対象としての立会人も、儀式に無くてはならない 要素である。今回はこの「観客」の意味についてもっと考えてみよう。

多くの場合、儀式には観客を必要とする。観客は現実への窓なのだ。 人は自分の感覚を通して世界を認識しているから、自分にとっての世界とは 自分の主観にすぎない。そこに外部から訪れて、自分に見えているもの以外の ものがあると教えてくれるのが第三者の目である。 役者から見て観客は未知の存在である。自分の一挙手一投足に目を配り、 そこから自分には想像もつかない結論を引き出しているかもしれない。 「こんなことをしたらこう思われるんじゃないか」「こうすればこう思ってくれる だろう」、どんなに想像してみても、所詮自分は自分の世界の中から抜けられない。 観客の目の向こうには、その想像の及びもつかない別の宇宙が広がっている。 その事実はある意味恐ろしくさえある。

だが、自分を確認するための演技は、 その観客の目の前で行なわないかぎり意味が無い。 人間は自分に嘘をつくのが非常に上手だから、見られてないところで 行なった行為に関しては都合の良いように解釈をあててしまう。 その場に出されたものが全てである、ということを自分自身に納得させる ために、第三者の立ち会いは必要なのだ。

さて、ここで本日の表題にやっとたどりつく。 上で「多くの場合、儀式には観客を必要とする」と書いた。 しかし、観客を必要としない場合というのが確かにある。 一人密かに心に誓う... という場合などである。だがその時でも、 人はその誓いを完全なものにするために、何かの対象に誓っているはずだ。 母の名に? 星に? 或は「神」に?

そう、「神」が全知全能なら、自分が誓いを破ったらそれは神には バレバレである。だから神に誓う意味があるのだ。これは誓いでなくても、 自分の本当の気持の確認でも構わない。例えば「私は今悲しい」ということを 自分の世界の外にある何かに対して認めるのである。後でそう認めたことを 打ち消したくなってももう遅い。ばれちゃっているんだから諦めるしかない。

人間の意識は狡猾であり、時には他人に見られたという事実でさえ 「ひょっとするとこう思っているかもしれない」 「あの時は心にも無いことを言ったのだ」などと修飾することさえ厭わない。 本当に自分の意識を全面降伏させ、今ここの現実を認めるには、 立ち会い人として全知全能の存在を持ってくるのはまことに都合が良いのだ。 もちろん、神や仏を持ち出さなくても、 自分の選択、自分の行為、自分の言動は今ここに出されたものが全てであることを 承知し、常に自分を偽らず自分の本心を見つめていられるという人はそれだけで 問題は無い。だがそれが困難である故に人は神という概念を必要としたのでは ないか。

そのような「絶対の観客」の存在を受け入れた時、儀式と日常、 ハレとケの区別は消失する。 日常生活の中で与えられるさまざまな「設定」 ---社会的立場であったり、人間関係であったり---を踏まえながら、あなたは 社会的人格を「演じて」ゆく。 絶対の観客には、あなたの良い部分も嫌な部分も全て筒抜けだから、 その場を取り繕うことは無駄である。「演技」はその場に出されたものが全てだが、 それはあなたの全人格の投影でもある。

そう、あなたはあなたの人生の主役であり、 生きている限り、舞台から降りることは出来ない。 だが、それはそれでエキサイティングな事実である。


補足。(蛇足?)

・私は宗教というものの意味を宗派にかかわらずこのようなコンテクストの下で 捉えているが、自分自身は宗教者ではないので、間違いがあるかもしれない。 だが少なくともこういう捉え方をしている以上、 「宗教を信じる人って他の何かに頼らなきゃならないんだから弱いんだ」 というような論旨には異義を唱えたくなってしまうのだ。 絶対の観客を信じると、覚悟の座った人生を送らざるを得なくなるから。

・いわゆる「世間」だとか「他人の評価」と、「絶対の観客」とを混同 すべきではない。前者は詰まるところ、「『他人はこう思うだろうな』という 自分なりの解釈」であって、結局自分の世界から出ていない。 それはエゴというものである。同じような価値観の人とだけ交流していると 気づきにくいのだが。

・「超越者による賞罰」といった概念には注意が必要である。 「××したから罰があたったんだ」とかいう解釈はあくまで自分の解釈。 神だの仏だのの考えることなんてわかりようがないのだ。 神の判断を自分の判断と置き換える時、宗教はエゴに乗っ取られる。

7/10(Fri) Small Soldiers

SIZE DOESN'T MATTER. 軍用コンピュータに使われる超高性能チップが 組み込まれた玩具の軍隊人形達がはちゃめちゃな戦闘を繰り広げる "Small Soldiers"。映画館の半分はローティーンの子供達に占められていた。 シナリオのテンポの悪さがちょっと気になったものの、見所はあちこちにあり、 そこそこ楽しめた。VFXはILM。人形独特の動きがなかなか見事である。

ほとんど同じネタがスティーブン・キングの短篇にあるのは置いといても、 ネタ的にはいろいろな発展の可能性があったと思う。 特に、冷戦終了後、防衛費が削られ、防衛関係をやっていた技術者が 大量にゲーム業界に流れ込んでいるという現状を踏まえれば、 けっこうアイロニーの効いたシナリオにもできたのではないか... と思うのだが、そういう方向には持って行かなかったようだ。残念。

7/9(Thu) 演ずるということ

ちょっと資料を探しに本屋に行ったら、Eric MorrisのActingに関する本を 数冊見つけて購入。Ericはあくまで役者のことについてしか語ってないのだけど、 不思議とそのアドバイスは、今の自分の直面している問題に役立つように思える。 人生は劇場だと思っているからかもしれない。

"Acting is more a way of life than a job." とのEricの言は役者に 向けられたものだが、役者を生業としない者にとってもそれは意味を持つ。 "Acting" が一つの生き方であるのなら、職業が何であろうと、その生き方を 選択することができるのだ。

演ずるということは、しばしばその虚構性だけが注目される。 子供のごっこ遊びは「空想」であり、成長するにつれ「現実を見なさい」と 言われる。「演技する」というのは、「本当の自分を偽ること」だと 勘違いされたりする。

じゃあ、現実って何? 本当の自分って何?

我々は何らかの方法で現実(だと思うもの)を認識して、 何らかの機構を通して絶え間無く判断を下しながら日常を生きている。 そのメカニズムを意識的に再現しようとする行為が、演ずるということだ。 「今、ここ」における、普段は意識しない、自分の反応。他人との関わり。 そして、もし自分が別人だったらどうするかという想像。 演技への道は、虚構へ向かう道ではない。逆なのだ。 日常に流される中で、意識の表面から滑り落ちてしまいがちな「現実」を つなぎとめ、それに少しでも近付こうとする行為。 放っておくと「変わらぬ日常」という虚構に向かってしまう意識を 現実に引き戻す行為。 それが、少なくとも私にとっての、lifeとしてのactingである。

7/8(Wed) ジェットコースタームービー "Armageddon"

正直言って期待はしてなかった "Armageddon"。 だって世紀末でしょ、隕石が地球直撃コースでしょ、 Bruce Willisが人類を救うためにそれを爆破しに行くんでしょ、 もうミエミエ。VFXがどんなもんかを見に行くつもりだった。

ところがどっこいすっとこどっこい。"The Rock" のMichael Bayは 無きに等しいストーリーを見事なまでのクリフハンガーものに仕立て上げていた。 先に観た知り合いが「2時間全部予告編みたいなもんだよ」と言ってたけど、 ほんと、短いカットでがんがん押して来るパワーは相当なもの。 ばっちり引き込まれてしまった。観た後に何かが残るという映画では ないけれど、遊園地でジェットコースターに乗るようなものだと思うと 完成度は高い。

7/7(Tue)

心のキャパが狭くなるとどうしても後向きの意見が多くなってしまうなあ。 と思ってたら回りから助けが。有難い。 「一人で抱え込まない」ってのと、「人に押しつける」ってのは違うよね。

7/6(Mon)

先日のMt. Olomanaの写真をスキャン。それぞれ10〜20KBほど。 そのうちまとめたいけど、とりあえずイメージに直接リンク。

山麓より第1ピーク
写真だとよくわからないかもしれないけど、最初見たときは まさかあれに登るとは思わなかった。
第1ピークへのルート
ここはまだザイルがあったからいいんだけど...
第1ピークより第2, 3ピーク
左のピークが第2, 右の尖ってるのが第3。
第1ピークよりKailua方面を望む
あの景色は写真には到底収めきれないのだが...
屹立する第3ピーク
そう、これに登るのだ。
名も知らぬ花。マクロレンズが無くて、望遠で撮ってみたんだけど いまいち。
第3ピークより降りるところ
こんな感じのところを登って来たのだ。 第3ピークへのルートにはザイルさえ無い。
第2, 3ピーク間の尾根

7/5(Sun) Naeng Myon & Shaved Ice

昨日は独立記念日だったのだが、昼過ぎに起き出して一日中ごろごろして過ごす。 夜、Ala Moana Parkを見下ろすアパートメントに住む友人に 「花火を観よう」と誘われていたのだが、直前に行ってみたら どの駐車場もいっぱいで車を止めるところが全くない。あたりまえか。 帰って来たらもう自転車で行っても間に合わない時間だったのでやめ。 まあ家からでもSand Islandの花火が見えるからいいか。 遠くにはPearl Harborの花火や、真珠湾対岸のEwaの花火まで見えた。

さすがに2日続けてごろごろするのは何なので、今日は張り切ってテニス。 炎天下で運動した後は、Naeng Myon を食べに行くのが定番になりつつある。 Naeng Myon (冷麺) は、 なんつうか、冷やし中華の韓国版みたいなもん... かなあ。これが旨い。 Ala moana shopping centerからほど近い、小さなコリアンレストランなんだけど、 Tchick Myon(葛麺)という、 蒟蒻みたいな食感を持つ黒いぷりぷりした麺が、凍らせてシャーベット状に なったスープに入っている。 スープは、冷やし中華のたれプラスキムチって感じの味。 こいつはくせになる。おすすめだ。 昼食の後、まだ動き足りないので再びテニス。また汗をかいたので こんどはかき氷を食べに。ああ、夏だなあ。

7/3(Fri) Olomana山第3ピーク攻略/Six Days, Seven Nights

今週末は独立記念日の週末。会社は今日から3連休。街はすっかりお祭り 気分である。

我々はというと、 前回、2nd peakまで行って引き返した Mt. Olomanaの第3ピークを攻略して来たのだ。 この日のためにちゃんとした山靴も買って、慣らしておいたし、 早起きしておにぎりも作って準備は万全。

第1ピークまでは一時間。急峻な尾根道を登る。普段鍛えてないのが もろに出るなあ。休み休み。荒い息をつく野郎共を後目に、 同僚Kのガールフレンド、Eはすたすたと休み無く登って行く。 ベジタリアンで気功もやってる彼女のスタミナは、その小さな身体からは 信じられない程だ。 我々が第2ピークに着いた頃、既に第3ピークの直下にいる彼女が小さく見えた。

第2ピークから第3ピークは足場の悪い痩尾根。あまりシリアスに山登りを やったことのない私にとってはひくひくものだった。途中、3〜4メートル程だが 岩に取り付いてフリークライミングみたいな芸当を要求されるところが数箇所あって、 正直いって足が震えた。下を見るとくらっとくる。 それでも、なんとか出発から2時間15分で遂に第3ピークに到着。 征服の快感。くせになりそうだ。


帰ってひと寝入りしたら夜になってしまった。うちのベランダの 真正面の海岸で独立記念日の花火が始まる。おお、絶好のポジションだ。 ただ、やっぱりアメリカの花火は単調だなあ。日本の花火がなつかしい。

その後映画を観に行く。 世間は7/1に公開された隕石映画 "Armagedon" に行列を作っているが、 並ぶ程の映画でもなさそうなのでへそを曲げてHarrison Fordのラブコメディ "Six Days, Seven Nights" を観る。普段なら観ようとは思わない類の 映画なんだけど、たまたまこないだ映画館の前で友人とあれこれ喋っていたら、 話しに加わって来た見知らぬ人が「結構良いぜ」と言っていたので。

で、実際、結構良かった。都合の良いプロット。ベタな演出。 でもそういうものだと思って観てればよし。 美人の雑誌編集者(Anne Heche)が恋人と 南国での休暇を過ごすため単発プロペラ機をチャーター。 パイロット(Harisson Ford) はうさん臭いおっさんの雰囲気が良い。 たまたまヒロインとパイロットだけが乗っているときに嵐に巻き込まれ、 無人島に不時着... っていう話。

設定はタヒチだけど、ロケはハワイも結構使われているみたい。 見覚えのあるKauai島の渓谷なんかも出て来た。 ただ、南の島の本当の美しさをカメラに納めることには失敗しているなあ、 というのが住人としての感想。

7/1(Wed) ただのメタフィクションではない、"The Truman Show"

"The Truman Show"を観る。三度目。 この映画、私の周囲では、おおむね "Really Good" という評価だが、 "So so" という人もいて、評価が分かれるようだ。 この作品に何を投影するかで見方が変わって来るんだと思う。 ひとつのお話、として観ている限り、そこそこ盛り上がりや笑える場面が あるものの全体として地味な感じだし、Jim Carrieも他の彼の映画に比べて おとなしいから、まあまあという評価になるのだろう。 だが、映画中の世界に現実を投影することが出来ると、多くのセリフが 非常にうまく計算されていることに気づく。一つの場面、一つの役者の 表情が多重の意味を持って来るのだ。

物語、というのはひとつの虚構にすぎないのだが、 そこに現実を投影するための装置として劇中劇を用いることは、 芝居の世界ではよく行われる。 例えばシェークスピアを見よ。劇中劇ものがざくざくある。 普通に舞台を観ている時、観客には、舞台上の出来事を虚構と知りつつ、 それを現実のものと見倣すという暗黙の前提が要求される。 劇中劇は、その「観客の現実」対「舞台の虚構」の関係を舞台上に 作り出すことで、「虚構を虚構として見せる」と同時に、 「舞台上の現実 (舞台上の観客の立場)」に対して実際の観客が移入しやすくする わけだ。

"The Truman Show" では、大がかりなセットの中で人々が暮らす模様を 中継するTV番組 <The Truman Show> と、それをTVで見守る観客、 という関係を描くことで、劇中劇に相当する枠組を作る。だがAndrew Noccolが 巧みなのは、「劇中劇」に相当する Seaheaven の生活そのものにも 観客の現実を投影することに成功しているところだろう。 いや、逆かもしれない。 Seaheavenの生活 (Truman's World)、それを演出する者達 (Christof's World)、 そして放映されたそれを見守る者達 (Audiences)、実は現実の世界で、 我々自身がその3つの立場を使い分けつつ生活しているのだ。

我々は現実の生活の中で、「与えられた世界を受け入れる自分」であることも できるし、「思うように世界をコントロールしようとする自分」であることも できるし、「そのようにしている他人を観察する自分」であることも できる。それぞれが上記3つの世界に対応する。そして、誰もが一度は 自分の人生に対して投げかけるであろう質問、"How's it going to end?" の答えは... 映画を見るべし。

他の見方もあるのだけれど、ネタバレになりかねないので別の機会に。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net