2000年11月

[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]


11/24 (Fri)

感謝祭の連休だが、どこに行くでもなく、ゆったりと。 昨日は同僚の感謝祭ディナーにおよばれして、大量の食物を御土産にもらったんで 今日はそれを加工して食べたり。

式を挙げたら落ち着くかと思ったんだが、一人で住んでいたとこに二人で住むとなると やっぱり必要なものも出て来るわ、結婚式のお祝いのお返しやらカードやらを書かねばならないわ、 こちらに住むに当たっての妻の手続きやら、いろいろあるものだ。 当面、自宅でゆっくりPCに向かうということも出来なさそうなんで、この項の更新は不定期になるだろう。


異国で暮らすとなると、インターネットというものは情報を得るにも連絡を取るにも 便利なものなんで、妻もPCが使えるようにしてやりたいのだが、 妻はワープロ専用機くらいの経験しかない。教えていると、自分が普段慣れ親しんだGUI環境 というものが「直観的」どころか実に多くの約束事に満ちていることに改めて気付かされる。

例えばウィンドウをアイコン化(最小化)すると、 それまで開いていたウィンドウが消えて、私が使っているGNOME環境の場合はタスクバーに 並んだアプリケーション名に最小化されている旨が表示される。そこをクリックすれば 再びウィンドウが表示される。しかし、画面上のウィンドウとタスクバーのアイコンとの間の関係は、 それほど明示的ではない。 動作原理を知らない人にとって、画面上のウィンドウとタスクバーのアイコンは一見無関係であり、 それらの関連付けは「約束事」として学ばねばならない。

MacOS Xなど、 ウィンドウをアイコン化したりその逆をしたりするときにちょっとしたアニメーションをさせる インタフェースがある。使い慣れた人にとっては動作が遅くなるだけの邪魔物だが、 ああいうのは最初に触る人にとっては重要なキューなのかもしれない。

11/17 (Fri)

ダメだ。やっぱりクローズドなアプリケーションソフトウェアは人類の敵だ。 そのソフトウェアをワークフローに組み込むのに、ソースが公開されていれば 改造して綺麗な形でサポートできるのに、ソースが非公開のため非常に手間のかかる方法でしか サポートできない。結局、「どうにか動く」という形を維持するためだけに、 人的資源が消費される。本来は新しいものを生み出せたかもしれない 貴重な人と時間をそのせいで浪費するのには我慢がならない。 やっぱりこつこつとalternativeを作ってくしか無いなあ。

* * *

ただ、これは月曜に書いた話に関連するのだけれど、 ソフトウェアは何でもかんでもオープンにすべきだとは思わない。 何かを作る道具であるソフトウェアと、それ自体が最終成果物であるソフトウェアとは 区別するべきで、後者はオープンである必要はない。ユーザはそのソフトウェアを 完成物として消費するのだから、改変する必要が無いのだ。ゲームなんかは後者にあたる。 月曜に書いたStallmanの混乱はその両者を混同してしまっているところにあるのかも。


ところで、本日より "Final Fantasy: The Spirits Within" の予告編が 劇場で流れる。"The 6th day" と "How the Grinch Stole Christmas" の前。 観客の反応を観に行きたかったのだが、なかなか時間がままならない。

11/13 (Mon) プレステ2を巡るStallmanとの対話

プレステ2を巡るStallmanとの対話。Stallmanのフリーソフトウェアの理念は 良く分かるし、NDAに縛られた現行のゲームコンソール開発環境が最良の方法とは思わない。 しかし、ソフトウェアを走らせるためにはハードウェアが必要で、 複製にほとんどコストがかからないソフトウェアに比べてハードはどこかでモトを取らなくちゃならない。 そこんとこをStallmanはどう考えているんだろう。理想のために妥協を許さないという姿勢には 敬意を表するが、その理想の原理的な実現可能性、すなわち、フリーで手に入れた ソフトウェアを走らせる環境を誰もが手にできる世界をどうやって実現するか、 というのを彼は検討しているんだろうか。

ハードウェアでも、仕様をオープンにして誰もが複製できるようにしようという 手法はある。しかし、$299で実質3個の128bitプロセッサとグラフィックエンジンとを備えた ハードウェアを数百万ユニット単位で普及させる手法として、現行のライセンスモデル (すなわち、ハードでは利潤をほとんど出さず、ライセンス料によって設備投資を回収して利益を 生み出す) に代わるモデルを提案できないのであれば、「ユーザに自由を」というFSFの スローガンは画に書いた餅である。SonyもSegaもNintendoもMicrosoftも クローズドで独占的なプラットフォームだから拒否しよう、PCを買って自分で各種ソフトウェアの インストールが出来る知識と暇のあるごく一部の人達に自由を提供しよう、というのは、 なるほど、理想主義だ。飛行機でしか到達できない離島に理想郷を築いて、 だれもがそこでは自由になれると主張しても、実質は高価な飛行機のチケットを買うことができる 人にしか開かれていない、そんな感じだ。

多分、この混乱は、ソフトウェアとハードウェアの境界が次第に曖昧になってきている からだ。FSFが提供するのは狭義のソフトウェアだが、それがユーザにとって役に立つためには、 ソフトウェアを走らせるための環境--- リーズナブルな価格で手に入るハードウェアとか、サポートとか、 隣のだれそれと同じソフトを使えるかとか---が重要になってきている。 かつては、その環境を自力で整えられるユーザのみがコンピュータを使っていた。 しかし、残りの99%の人口が情報化の恩恵を受けるためには、誰かがその環境を作ってやらねばならない。

むろん、独占資本がその環境を押えることを私は良しとしないが、 FSFがその点に関して解答を示しているとも思えないのだ。 FSFの方針を巡る議論では、ソフトウェアはハードウェアとは違うということが繰り返し主張される。 しかし、ソフトウェアが単独で有用であるというのは、もはや幻想に過ぎないのではないか。

11/10 (Fri) オリジナリティの罠

私も、 「オリジナリティ」という言葉に悩まされ(11/11)ていたことがある。 でも、「オリジナルでなければならない」ということがプレッシャーになった時点で、 目的が見失われているんだよね。そういう意味で、このプレッシャーは一種の危険信号だ。 早急に目的を再発見しないと、足をとられてしまう。 かつて同じ悪循環にはまった者として、コメントしておこう。

この方は、研究の流れをこのように整理しておられる。

1.ここ数年分の世界中で発表された最先端の研究結果について知っ ておく。(無論、自分の研究が他人の真似にならないようにであ る。だが最新の論文や議事録の内容を理解するのに相当ハイレベル の専門知識が要求される)。

2.その中でまだ他人がほとんど手を加えていない理論を探し出し、 その中でオリジナリティを加えて改良する。

3.当然改良であるからには現行の制御理論よりも性能が高くなって いることを実証する。(性能が低くなっちゃ新しくても意味がない)

こんなふうに考えてしまうと、しんどくって仕方ない。 そもそも何で研究しようと思ったのだろう。そこのところに立ち戻ってみよう。

工学であれば、ニーズ主導の研究というのがある。これこれこういうことを実現したい、 という具体的な事例がまずあって、それに適用できる技術を開発するわけだ。この場合、 目的はその具体的な事例を実現することであるので、他人が既にそれを実現可能にしていたら わざわざ自分で考える必要もない。つまり第1のステップは、自分の手間を省くためにある。 既存の手法が適用できれば、そこで目的は達成される。研究に至る必要さえ無い。

でも、実現したい事例が他にほとんど例のないものであった場合、 大抵は既存の手法じゃ不十分なわけだ。そこで研究をはじめる。 既に、現存する理論の限界と改良すべき方向は知っているわけだから、第2のステップなど不要である。 真の研究は、第3のステップのみにあるわけだ。 で、結果として目的が実現できたとすれば、その過程で新しい知見が得られているので、 それを論文にして発表するなりすれば良い。

一方で、知的興味に突き動かされて研究をするというパターンもあろう。 その場合、該当分野に並々ならぬ興味を持っているわけであるから、第1のステップなど 誰に言われなくても終了していることが前提になる。好きなら最先端で何が行われているか 知りたいと思うのは自然なことだ。で、一通り最先端をなめて自分の知的興味が満足 されれば、それはそれで良い。目的達成。

でも、知の開拓地にはまだまだ未開拓の分野が広がっているから、そこまで興味を 持った人ならば、既存の研究成果に不満が出て来ても不思議はない。ここでも第2のステップなど 自動的にクリアされる。問題は、自分の興味に従って第3のステップをクリアできるかどうかだ。

いずれにせよ、最先端の研究を追い続けることを負担に感じたり、 自分の興味を抜きにして未開拓の分野を探さなければならないと感じた時点で、 どこかの歯車がずれてしまっているのだ。

私が今いるところは完全にニーズ主導型で、一応「研究開発部」と名乗ってはいるが、 論文を出すことはオプションであるあたり、研究よりは開発にずっと近い。 日常の仕事の9割5分はごくtrivialな作業である、なんちゃって研究部門だ。 それでも似たようなことをやっているところはマークしているし、 発表される論文は常に追い、カンファレンスでは同業者と情報の交換に 勤しむ(うちの分野では、論文誌は掲載されるまでが 遅すぎてあまり役に立たない。カンファレンスの重要性が非常に高い)。 だから、既存の技術の限界も承知しているし、今やっていることは 他のどこもやっていない (少なくとも、他でやっていてもまだ発表されていないはず) という認識もある。

ただ、大学院の修士過程あたりでオリジナリティに悩んでしまうのって、よくわかるんだよね。 特に学部から直接来てると。卒論程度じゃ何も知らないに等しいし、 人の論文読んでると知らない参考文献が山程あって指数関数的に読むべき論文の数が 増大するし、色々頭を捻って考えてみても指導教官には「それはもうどこそこでやられている」と 無碍に却下されるし。

まあ、修士過程は方法を学ぶ修行期間で、悩みながらもまがりなりに 数回発表して論文を書くという経験をすることに価値がある、と割り切ってしまう考え方もありかも しれない。誰もがすんなりと丁度良いテーマに巡り合える幸運を持つわけでもない。 それでも、大学院の期間をプレッシャーに追われる修行期間にしてしまうのは 淋しい。あの、「今この結果を目の当たりにしている のは世界広しと言えども俺達だけだ」というドキドキする感覚こそ、モノ作りの道へ 入らんとしている人達に味わって欲しいものだから。


新発見と、99%の努力については、以前書いていた。 基本的に見解は変わっていない。

11/9 (Thu) 科学的成果のユーザたち

捏造事件については Thomasさん(11/8)の記述が、学問のプロからの見方を見事にまとめておられる。 書かれていることは全く正しいと思うのだが、 残念ながら、こういう認識は一般には広く共有されてはいないと思う。 この件に関して、研究者とそうでない人のコメントの間に温度差があるのも、 藤村氏同情論が出て来るのも、そのためだろう

この世を構成する大多数の人々は、学問の成果を他の目的のために使う、いわばユーザである。 ユーザというものはたいてい、使っているモノ (工学においては製品だったりするが、 人文系学問においては、思考のツールや材料になるのかな)を成り立たせている技術や理論が、 どのような科学的な文脈の中で成立したかは気にしないし、 科学的方法に対して敬意を払うこともしないかもしれない。 他の、彼等にとってもっと大事なことをするのに忙しいからだ。 学問の成果は彼等にとって手段であって目的ではない。

それはおかしい、科学的方法に敬意を払わず、疑似科学が幅を利かせることになれば、 困るのはユーザではないか、と言うのは正論ではある。 しかし、ユーザは目下解決すべき課題を抱えていて、そんなことを気にしている暇はないのだ。 ユーザとはそういうものなんである。 がくもん的に正しいが、いつ使えるようになるかわからない理論よりは、 怪しくてもそれが今日から現場の問題解決に導入できるのであれば後者が尊重される、 それが現場というものだ。

そのような、あるべき姿と現実とのギャップを前提として、 少しでも前者に手を届かせて、それを後者に使える形につなげることは、工学のひとつの使命だと思う。 (bLatzさんの言われる、 「『工』という字は、天と地を人間が一本の棒で結ぶという意味」(11/8)っていいなあ)。 従って工学には、使ってもらって初めて価値が出るという面があり、 ユーザの存在を抜きにして成果を云々することは出来ない。 「わからない人には使って欲しくない」と言えるのは趣味の工作だけだ。 現場では、どんなに無茶を言って来るユーザに対しても、「相手にしない」 というオプションは存在しないのだ。そういうユーザに対して、技術の原理と目的と限界を説明し、 必要ならば現実的な代替案を提示して実装するという責任は、作り手の方にある。

日々ユーザと接する立場に居るから、こんなふうに考えるのかもしれない。 しかし、研究と社会との関係を、学問的成果を積み上げる者と使用する者というふうに とらえれば、実用寄りの工学だけに限らず、どんな分野でもユーザとの関係を 考えざるを得ないのではないか。そして、科学的モラルとは別の価値観で動いている ユーザに対し、科学的方法の優位性を説明し、かつ実際の個々のユーザの問題を 解決するメリットを具体的に示してやるのは、学問の側の責任だと思う。

そんなところまで面倒を見られるか、成果がどう使われるかなんて知らん、という人もいて良い。 しかし、「動く」ソフトウェアを「使える」ソフトウェアにするのに10倍の労力が必要であるように、 学問に専念する人が1人存在するためには、9人の人が汗を流して成果をユーザと繋げる 役割を担わなければならない、みたいなことはあるかもしれん。

考古学なんかの場合、本来は博物館などが 学問の先端と一般社会をつなげる役割を担っているのだろうが、 「新発見」のたびにセンセーショナルに報道していたマスコミの声の方が 大きかったところにも問題があるのかも。

11/7 (Tue) 当日とその後

当日は見事な晴天。親族を乗せたチャーターバスが道に迷って大遅刻という コケをかましてくれたが、それ以降はなんとか最後まで通った。 海辺の家を借りて、 庭で式とパーティを行なったのだが、 日本から来た親族にむやみに受けが良かった。 少々のドタバタはご愛敬。スタッフとして手伝って頂いた皆様、 忙しい中来て頂いた皆様、メッセージを寄せて頂いた皆様、ありがとうございました。

夕方に会場を撤収して、ドレスを返してきたら、もう疲れて翌朝まで二人で爆睡。 週末は親族を空港に送ったり、遠方から来てくれた友人と会ったりと、 楽しく忙しく過ごした。

詳しい報告はまたこんど。


石器捏造問題へのコメントに関して。 何が大事かというバランスの問題(11/7夜) では無いと思うなあ。 私にしてみれば、陸上選手が自覚的にドーピングするのと同種の行為であって、 ルール違反したから競技から追放されるというのは、 別に研究を至高の価値としていない人から見たって妥当な判断だと思う。

もちろん、ひとつの失敗によって全人格が否定されてしまうような事態は避けるべきで、 上のサイトの方もそこを懸念しておられるのだろう。 また、プレッシャーに追い詰められたという当人の心情を理解できなくはない。 でも、それとこれとは別。 あくまで、ルール違反で失格ってこと。

11/3 (Fri) あと1日

…というか、もう明朝のことなんで、あと10時間。 懸案の天候は、昨日までの「雨」との予報が今日の午後になって「晴」に変わった。 今日も文字通りあちこち走り回る。 一日に5箇所とかアポイントメントをこなすと、他に何もできない。 さて、少しでも多く寝とかないと。

11/2 (Thu) あと2日

なんかこまごまとした作業がまだ結構残っている。

Marriage License を取りに、Department of Healthへ。 米国で法的に認められる結婚をするのに必要な書類。二人で出向き、必要事項を記入して 係官の前でサインして、右手を挙げて「記述に相違ないことを誓います」と宣誓する。 米国人である必要は無い。身分証明書と手数料$50が必要。

日本の婚姻届と違い、これだけでは結婚したという記録にはならない。 式の当日に州の承認を受けた人(我々の場合は司祭さん) の前で証人と共にサインして、 さらに司祭さんがそれを役所に送付した段階で有効となる。

それでも、一人で書類の受け取りも提出も出来る日本の婚姻届に比べると 必ず二人で行かなければならないのが、なんか良い。

11/1 (Wed) あと3日

親兄弟親類合わせて16人、海外経験が少なくバラバラには動けない、となると、 個人でサポートするのはやっぱり無理があった。 早朝の空港への送迎から、ホテルにチェックインできるようになるまでの 時間つぶしまで、かなり破綻していた。 結局、小ツアーとか、観光客向けのサービスを利用するのが無難なのだろう。 私自身が、そういうサービスを利用せずに一人気ままに放浪する旅が 好きなために、つい避けてしまうのだ。 でも自分で何でも出来るという考えが間違いなんだな。

今日の反省。なんでも自分を基準に行動計画を建ててはいけない。 自分がとりたてて体力があるとは思わないが、さすがに30代に快適な スケジュールで60代の人々を動かしたらいかんだろう。反省反省。


[前月][次月][一覧]:[表紙][映画][King][BBS]

Shiro Kawai
shiro@lava.net