2000年2月

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2/29 (Tue)

最近、昼食後にモーレツに眠くなる。ミーティングなんかあるととても困る。 台湾の会社では昼食の後にお昼寝タイムがあると台湾人のLに聞いたが本当だろうか。 ハワイにもシエスタがあると良いのに。 夕暮れから目が冴えて来て、夕食タイムの後にノリが最高になり、気付くと夜中だ。

検眼 (2/28)。周辺視野の解像度は視野の中心に比べて相当低いと思うので レンズを合わせるのに視野の中心のみを考慮するのは正しいと思う。 (少なくとも私は注視点から数度以上離れた箇所にある文字は読めない)。 眼鏡では視線を動かした時に同じコンディションが保たれないのが問題なのだろう。 コンタクトにして一番驚いたのが、「目玉をぐりぐり動かしてどちらを見ても綺麗に見える」 ということだった。

ハワイに来て2年くらいしてからコンタクトを換えた時、 「前のは度が強すぎましたね」と言われた。 ロスで作ったやつが必要以上に強かったのだろうか、それとも「遠くの緑のものを見る」 頻度が格段に多くなったせいで、視力が多少回復したのだろうか。

関係ないが、世界で初めてコンタクトを目に入れた人ってとても勇気があると思う。

2/28 (Mon) イイカゲン/市民権

年に一度の車のセフティチェックに行ったら、車両登録証の期限切れを指摘された。 確かに更新1999年1月、期限2000年1月と印字されている。先月更新したばかりの 新しい登録証を家に忘れてきてしまったか。後でまた寄ると言い残して 会社へと向かう。信号待ちでぼーっと登録証を眺めたら、こりゃおかしい。 住所が先月引っ越した新しい住所になっている。昨年の登録証であるわけがない。

役場のサテライトオフィスに行くと、窓口のおじさんは先月更新した時と同じ人だった。こっちを覚えちゃ いないだろうけど。「この登録証、先月更新したのに日付が一年ずれてるんです」 と言ったら、「ああ、わかったわかった」とあっさり再発行してくれた。 さてはおっさん、他にもやってるな。

役所の書類を受け取ったら日付を確認すること。 生活の知恵をまたひとつ身につけた。 ちなみに他の知恵は、電話を引いたら外からかけて番号が正しいか確認すること、とか、 クレジットカードを作ったら印字名が正しく綴られているか確認すること、である。


同僚のSが今朝、米国市民権のインタビューに通ったそうで、Congraturations。 後は宣誓式のみだそうな。インタビューの内容は、「アメリカの初代大統領は?」とか、 「ハワイの現在のSenator(上院議員)は?」とか、「カリフォルニアのSenatorは何人?」 とかだったそうだ。普通に新聞や本読んでればわかりそうな質問だが、 わしは初代大統領はともかくあとはわからん。ああ無教養。 Congressman(下院議員)は人口比に応じて選ばれるが、 Senatorは各州2人選出と決まっているそうだ。つまり3番目の問題はひっかけ。

Sはイラン国籍だが、米国市民権を取ってもイラン国籍を返上する必要はないそうだ。 その場にはもう一人、ロシアとオーストラリアの二重国籍者もいて、日本の国籍って 厳しいよねという話になった。うちの会社には日本からこっちに来て子供が生まれた人が わりとたくさんいて、子供は二重国籍になるけど、20歳だか22歳だかの時にどちらか 選ばなくちゃならない。先日第一子が生まれた同僚のKさんは、「子供の意志を尊重するけど、 できれば日本の国籍を選んで欲しい。世界で最も取りにくい国籍のひとつだから」と言ってたな。 実際のところどうなんだろう。「帰化」した人が話題になるくらいだから、 米国やオーストラリアよりは取りにくそうな印象がある。

国籍を取りにくいから、こだわりが大きいのか。こだわりが大きいから、 国籍が取りにくいのか。

2/27 (Sun) 鯨の季節

行きつけの珈琲屋でブランチの後、今日は島の東端を目指して車を走らせる。 マカプウポイント。 車を停めてから荒れた舗装道をてくてく登る。黒地のアロハなんか着て来るんじゃ無かった。 汗をふきふき、15分か20分でマカプウ灯台を見下ろす丘の頂上に到着。 切り立った崖の下では珊瑚礁に波が砕けている。

遠くに霞むモロカイ島の方角から吹き付けて来る風は、 碧い海峡の上に染みのような白い波の模様をつけている。 砕けた波の模様は比較的はっきりとして、短時間で消えるのが特徴だ。 その中に輪郭がぼやけて停滞しているような模様を探す。 そこから白い水煙が上がれば、Humpback Whaleのおでましだ。

時折あおられそうになるほど強い風に足をふんばって、 小一時間海を眺めた。ほとんどの鯨は息継ぎに上がってきただけですぐ潜ってしまったけど、 帰りぎわに一頭、尾ひれで豪快なアクロバットを見せてくれた。 空に向けて高く尾ひれを上げ、それを海面に打ち下ろす。何度も何度も。 距離があるので音は聞こえないが、何か巨大なものが引き起こす水しぶきは 遠目で見ても圧倒される。 あの大きな生き物達にとって、この海はどんなふうに見えているのだろう。

人間は、自分の頭の中に入り切るものしか見ることが出来ない。 ウミという概念。クジラという概念。私が認識するものは、私の想像の及ぶ範囲内、 理解できる範囲内のものに過ぎない。それでも、地平線に続く海原を眺めていると、 自分の見ている世界の遥か向こうに広がる何かを感じることが出来るような気がする。 飛行機でひとっ飛びの太平洋は、あの大きな生き物にとっても途方もない広がりを持つ大海原でも あるんだなあ。とか脈絡の無いことを考えてみたり。

2/26 (Sat) 餃子のナゾ/やわらか問題

休日出勤するも集中できず、あまり進まない。 何か忘れているような気がしてたのだが、日が暮れてから思い出した。時間があったら鯨を見に行こうと思っていたのだった。くう。

はてな→ 餃子のナゾ(2/27)ne-update を使うと、フォームの提出データから「餃子」という文字が落ちてしまうという謎。 スクリプト内ではコメントデータをJISに直してからURL encode (RFC1738) を かけている。その出力そのものは別に怪しいところはなさそうなのだけれども… 「餃子」はEUC-JPで `F1AD BBD2'、 SJISで `E94C 8E71'、 共にjcodeでJISの `ESC $ B q - ; R ESC ( B' に変換され、 フォームのSubmitとしてCGIに送られる文字列は `%1b$Bq-%3bR%1b(B' となっている。 問題になりそうなキャラクタは含まれていない。 一応、この文字列からPerlでもって元のEUCやSJISの「餃子」がデコードできることも 確認したので、jcodeが混乱したわけでもなさそうだ。はてな。

(追記) 私のコメントだと通ってしまった。前に来る文字で問題が出るのだろうか。


日記をあげた後、ネットで日本の新聞の朝刊を読んでいたら 「センター試験を改革、教科書離れてやわらか問題に」 (http://www.asahi.com/0228/news/national28002.html) だとか。例として出た問題を見て首をかしげた。 戯れにやるクイズならともかく、入試問題としてはあまりにill definedなのではなかろうか。 記事にあった問題に検討を加えてみる。

問題:9, 11, 19, 51 と続いた後に来る数字は何か

この手の問題は、どんな数字を次においてもそれを説明する「規則」を作れてしまうから、 一つの正解はありえない。新聞にあげられていた解答は179で、n番目の数字と n-1番目の数字の差が 2^(2n-1) になっていると解釈したようだ。 しかしそれが正解なら、次の解答例も正解にすべきだろう。

答え:29。奇数番目の数字は10づつ増え、偶数番目の数字は30づつ増える。

答え:79。n番目の数は、(n-2番目の数×2) + (n-1番目の数) に、偶数番目なら 10を足し、奇数番目なら10を引いたもの。

答え:55。ある家族の年齢を低い方から並べたもの (ちょっと年が離れているけど 不可能ではあるまい)

それとも、理由を述べさせて「やわらかい」発想の方を見る試験なのだろうか。 他の問題もみてみよう。

問題:私が長男で一歳下の妹が末っ子の場合、ありえないのはどれか。 a. 私は4人きょうだい。 b. 私には妹が2人いる。c. 妹には2歳上の兄がいる。 c. 妹は長女

新聞の解答:c

別解答:すべて有り得る。cは例えば、再婚家庭で「私」は父親の実子、 「妹」は母親の実子。妹の2歳上の兄は妹の実父に引き取られているケース。

問題:ある方向にまっすぐ歩いた。しばらくして90度左に曲がり、また45度左に曲がったら 真南に向かった。最初どの方向に歩いていたか。

新聞の解答:北西

別解答:北西から、やや東寄りの北までのうちのどこか。 北極点に近いと東方にずれる。

やわらかいというより、単にひねくれているだけのような気がしてきたのでやめる。

2/25 (Fri) Pitch Black

Squareを辞めて自分の会社を立ち上げるため、台湾に一時帰国していたLが戻って来たので 皆で食事など。台湾と米西海岸を視野に入れたプランが着々と進行しつつあるようだ。

台湾では総統選の話題一色らしい。特に独立問題では、候補者も人々も 実に様々な意見があるようで。独立国家に生まれ育った身としては、自分の属する 国家そのもののアイデンティティが揺れるという事態はなかなか想像しにくい。 実際には、自分が生まれてからでさえ、世界ではいくつもの国家が生まれ、あるいは消えていっている。 国家のようなものでさえ、あたりまえのように「そこにある」ものではなく、 誰かが作らなければ生じないのだ。


一人称視点のゲームに弱い。夕食の後、映画まで時間があったのでオフィスのゲームラボで 007の4人対戦をやってたのだけど、30分で目がしょぼしょぼ。瞬きの回数が減ってコンタクトが 乾いてしまうのが悪いのかもしれない。

映画は、 去年のAlias|Wavefront User's Group Meetingでエフェクツのプレゼンを やってたから観ときたいという友人の希望で、Sci-Fiスリラーもの "Pitch Black"。 Yet another alien。 宇宙船が砂漠の惑星に不時着。3つの太陽を持つ日の沈まない惑星。しかし全てを灼き尽くす 日射しの影にナニカが住んでいた。そして、日が沈まないはずの惑星に夜がやってくる。 前半のヴィジュアルはなかなか良くて、そのまんまの雰囲気で押し切れれば結構面白く なったんじゃないかと思うのだけれど、後半が腰砕け。化け物って、姿が見えてしまうと 恐くなくなる。

2/24 (Thu)

昨日のリリースで肩の荷が下りて、もう一つのプロジェクトの方に復帰するはずだったのだが、 何だかんだでリリース一日目はうまく動いているか気になって仕方ない (止まるとかなり顰蹙を買うシステムなので)。ついつい監視ツールを作ったり、 細かいところを手直ししたりしてしまう。トラブルの報告はマイナーなものが2〜3件でひと安心。 夕方になってようやく復帰するプロジェクトの方に頭が切り替わった。 そちらも締切の足音が近付きつつあるのであまりうかうかしてられない。

来月7日から12日までSan Jose出張が入った。 興味あるカンファレンスなんでラッキーなんだけど、スケジュール調整つけねば。

ここんとこ、一日中モニタに向かう生活が続いていたので、身体が固くなって気持が悪い。 体操してみる。筋力増強とか柔軟性保持とかではなくて、身体の各部からのシグナルに集中する。 身体はどうやら、あせっても物事は進まない、気長に行こう、と言っているらしい。

2/23 (Wed) 3度目の正直

だいぶ長いこと懸案となっていたシステムの新バージョンをようやくリリース。 以前のやつはもう2年も前に、もともとプロトタイプ用に書いたやつが、 プロダクションでそのまま使われていたのだ。 現在の要求仕様に合わせて全面書き直し。メジャーバージョンが3になる。

私の経験では、プログラムは、2回全面的な書き直しを経てバージョン3になると 綺麗にまとまるような気がする。最初は動くモノが無いんで、ユーザも要求仕様が固められないから、 わかっている範囲でえいやと作る。しばらく使ってみて、現場でのワークフローが固まってくると 必要な仕様も見えてきて、そこで一回書き直し。

ところがこの時、最初のバージョンで 構想はあったが実現できなかったアイディアなんかがあると、ついつい入れてみたくなる。 ユーザの方も、最初は とにかく急ぎだったから機能が盛り込まれていなくても我慢していたが、それをしばらく使ってみて いろいろ欲しい機能も出てきている。 最初のバージョンがやっつけだった分、完璧にしたくなるのだ。 すると、プロジェクトは不必要に大きくなりがちである (second system effectとか言うらしい)。

で、それをしばらく使っていると、本当に必要な機能や、却って足を引っ張っている機能などが 見えて来て、どこで切ったら綺麗に現場にマッチするかがようやくわかってくる。 バージョン2をだましだまし使っても良いのだが、ここで書き直しが出来ると、バランスの良い システムにまとめることができるんじゃないかと思う。

2/22 (Tue) ボランタリーなシステム(2)

東の浜や北の浜に鯨がわんさか来ているらしい。今週末にでも見に行ってみようか。

右目にモノモライ発症。コンタクトが入れられん。


日記猿人の運営に積極的に 貢献してるわけでは無い私がぐだぐだ言うのも何だし、猿人経由で無い方には何のことやら サッパリだろうけど、一般的な話に展開できそうなので書いてみる。 昨日の記述に対し、 はせぴぃさんから次のような意見を頂いた。

「日記猿人」は、池川さんが私費を投じて設置しているサイトに、遠藤さんはじめ 何人かの献身的な方が時間を割いてメンテをしてくださっているシステムであると認識している。 自発的なコミュニティとはちょっと性格が違うのでは? (日記読み日記2/23)

前半部の認識は私も同じ。運営スタッフの貢献を低く言うつもりは全く無い。 だが、運営そのものがボランタリーである以上、運営スタッフで無い人がみんな 「お客様」気分でいられたら困るだろう、ということ。 運営スタッフと猿人登録者の関係は、商用システムにおけるサービス提供者と利用者の 関係でもなければ、管理者と被管理者でもない。 前者の貢献に後者が(コンテンツの提供や投票行動等で)応え続けることによって はじめてシステムが意味を持つという点で、自発的な参加に支えられたシステムであると言える。

これは、オープンソースによる開発のモデルに似ている。 オープンソースソフトウェアの開発も、しばしばコアメンバーの献身的な貢献 (時間・金銭共)に支えられて、良質なソフトウェアがタダで手に入る。 しかしそのソフトウェアを良質たらしめているのは、それを使ってみた ユーザーがバグを見つけてフィックスのパッチを送ったり、ドキュメントを書いたり、 あるいは知人に薦めたり、ささやかであっても幅広い支援があるからだ。 より良いソフトウェアを使うためには、利用者は自分に出来る範囲で貢献して、 それが開発者にフィードバックされる、というポジティブフィードバックが必要なのだ。

だから、「騒動の責任取って登録削除」とかいうのは、場合にもよるけど、残念だなあと思う。 本人が日記猿人にもはや何事も期待していないのなら仕方ないけれど、もしそうでないのなら、 おもしろいコンテンツを今後も提供してくれることが、コミュニティにとっても本人にとっても メリットがあるのではないか。

2/21 (Mon) The Hurricane/ボランタリーなシステム

休日。ちょっとゆっくりしてみる。


やっと観られた。Denzel Washington入魂の演技 "The Hurricane"。 殺人の冤罪を着せられ、22年後に無罪を勝ち取った実在のボクサー、 Rubin "Hurricane" Carter の物語。

アメリカ、ニュージャージー。貧困の中で育ち、傷害事件で少年院送り、脱走、 再逮捕、そんな少年時代を送って来たRubin。「自分を守るには強くなるしかない」 刑務所でひたすらトレーニングした結果、ボクシングに目覚め、1963年の世界タイトルを 取るまでになる。しかし時代はレイシズムの嵐が吹き荒れていた。バーでの銃乱射事件 の容疑で逮捕されたRubinは、ねじまげられた証言と不公正な裁判により終身形を言い渡される。 公民権運動の盛り上がりに合わせて再審への運動も盛んに行われたが、2度もstate supreme court (州最高裁?) で棄却される。支持者も徐々に去り、裁判所で著した自伝も人々から 忘れられようとしていた。

と、ここまでが前振りの背景。 物語はRubinの逮捕から十数年後、トロントにて ある黒人の少年が古本市でRubinの自伝を手にとることから始まる。 文通から始まった少年とRubinの交流は、少年の養い親をも巻き込んで3度目の再審請求へと発展し…

丁寧な作りの映画。脚本、コリオグラフィ、演技、どのシーンも細部に至るまで じっくり考えられている感じで、それが真実の持つ重みを伝えている。 20年以上に渡る一人の男の人生と、それに係わる数人の人生を限られた時間で描くために、 一切無駄の無い演技と編集。正攻法。不正の手口をいちいち示さずとも、 法廷の場面でカメラがすっと陪審員席にふられると、 白人上流階級で占められたそれが全てを物語る。黒人の少年が白人のfoster familyの 下にいることを語った時にDenzel Washingtonの視線がふと揺らぐ、その一瞬で、 愛と平安を心底求めながら癒されない傷と不信を抱える葛藤が描かれる。

ただ、Rubinが冤罪を着せられる背景になった 1960年代のアメリカ南部における人種間の対立、というものがいまいち実感出来ないため、 ニュージャージーの検察がRubinを目のカタキにした理由がよくわからない (映画中で説明はされるんだけど、附に落ちない)。あと、少年を引き取っている foster familyの面子が再審請求へ向けて探偵並に大活躍するのだが、彼等を そこまでdedicateさせるものは何なのか、それが伝わって来なかった。 Denzel Washintonが大黒柱になって支えているので、そのへんの弱さは映画の構造を 損なうものではないけれど。

個人的に楽しかったのは、「Shawshank Redemption ショーシャンクの空に」 で いかにも憎たらしいHadley看守の役をやったClancy Brownが、似たような役どころで、 しかし今度はいいやつとして登場したこと。さりげなく見せ場がたくさんあったな。


自発的なコミュニティというのは、参加者全員が出来る範囲で貢献することにより 維持されるものであって、管理する側と管理される側という区分は有りようが無い。 口も出すけど手も動かす、それを皆がやって一つのコミュニティが成立する。 便宜上、その中でも相当の時間を割いて手を動かしている人が管理グループと 呼ばれるものを構成していたりするが、それは責任と権限を集中させとくほうが 何かと便利だから。コミュニティを維持してゆく意志が無いのなら、そもそも コミュニティに参加する必要が無いわけだ。 (この点、半ば強制的に構成員にならねばならない社会システムとは大きく異なる)。

日記猿人で、管理方針を 巡ってちょっと議論があり、オーウェルの「1984」を引合いに出して 「管理」の行く先を心配している方もおられたが (BOWDO, 2/21)、 自発的なコミュニティは、各人の「貢献への意志」が消滅した時点で自然解体するだけなので、 そういう心配はいらなかろう。それでも危惧があるのなら、具体的に 手を動かせば良いだけの話。

事の発端となった、一行コメントでのボタン使用に関しては、 はせぴぃ さんは日記読み日記(2/21) で次の点を御本人の基準としてあげられている:

しかし、これは「何が迷惑で何が迷惑でないか」が各人の主観に依存し、 コンセンサスがはっきり得られない場合は困ったことになるのと、 「自発的なシステムはそれを壊すことを防ぐことによって 維持されるのではなく、常に構築し発展し続けることでしか維持され得ない」という 視点が欠けている点が不満。多分、固定したルールではなくて、常にダイナミックな ルールの形成作用を促すメタルールが必要なのだと思う。

自発的なコミュニティに自分が参加することを望むなら、 自分がコミュニティに対してどういう貢献が出来るかを考える。 カントが言ったみたいに。 ええと、その格律が普遍的となることが望まれるような格律に従って行動せよ、 だったっけ。

(ところで全然関係ないのだけど、Immanuel Kantの名を 英語で出すときにはcan'tの発音で良いのだろうか。 ドイツ語風に発音しようとすると、ちょっと発音を憚られる単語との差別化にいつも 困ってしまうのだが)。

2/20 (Sun)

昼間の日射しは圧迫感を感じる程に強く、しかし肌を焼くその感触は不快ではない。 少し運動するとすぐに汗が滴る。気付くと日は暮れて、空に大きくオリオン座。まだ夏じゃないんだ。


多体問題シミュレータのライブラリを提供するという名目でミドルウェアライセンシーに なってしまうというのは如何> 科学計算 on PS2(2/20)。 最内周のループがベクタ演算器のインストラクションメモリに乗っかって、 かつ一回ごとにデータをベクタ演算器のローカルメモリに乗るだけの量に小分け出来れば、速い。 エンドユーザとして利用するには、開発キットのライセンスが問題になるが… SCEさんの出方待ちかな。

2/19 (Sat) プレステ2

プレステ2。いよいよ本家の予約も開始されて、ネット上でも話題が盛り上がってきた。 どうしても当初の注目は描画性能や計算能力に集まりがちのようで、 興奮気味に期待を寄せる声がある一方、「そんなグラフィクス能力があっても意味があるのか」 と疑問を呈する声もある。 4万円弱という価格も、子供がねだって買って貰えるものではない。

しかし、そもそもSCEの思惑はそんなところには無いのだろう。 久多良木さんが昨年の発表時に述べたように、SCEは描画がどうの、性能がどうのという 話題を越えようとしているのだろう。 TVや(固定)電話という家電機器を考えてみよう。 今、日本では大抵の家庭では、それらがあることはあたりまえで、人々が 話題にするのは自宅のTVがどこのメーカーの何という機種かではなく、どのTV番組 が面白いかである。子供は電話をねだって買ってもらう必要はない (まあ、 携帯は別として)。どこの家にもあるから、友達と電話で連絡できることはあたりまえのことだ。 プラットフォームホルダーとしてのソニーが狙っているのはそういう状況だろう。 すなわち、子供はプレステ2を欲しがる必要が無くなるほど、 プレステ2がどの家にもあたりまえのようにある、という状況だ。

全ての家庭に電源が来てスイッチを押せば電気がつき、TVには一生かかっても 観きれない量の番組が四六時中供給されて、電話器のダイヤルを押せば地球の反対側にも すぐ声が届く。それを支える驚くべき技術の蓄積を、人々は滅多に意識することが無い。 リアルな3D映像が出ることや、ネットにつながることも、そうなりつつある。 新しいゲーム機が出る度に、その性能が提供してくれる新しい体験を楽しみに していた人々は一抹の寂しさを覚えるだろうが、現代の技術をあたりまえのものとして 育ちつつある子供達からみれば、それはただの感傷に過ぎないかもしれない。

ちなみにプレステ2は戦略機器だかなんだかに該当するので、まだ商品として米国には持ち込めないらしい。 贈答品にするか、個人の持ちものとして持ち込むかだ。 3月後半に日本に行く予定があるのでそんとき買えたら買おうと思っているんだけど、 甘いかな。

より高度な技術がもたらす娯楽が、遊びにおける想像力の余地を減らしているのでは ないか、という議論もあるが、時間切れなのでこれについては明日以降考えてみる。

2/18 (Fri)

とりあえずひと仕事、リリースにむけてラッシュ。映画にも行けやしない。


昨日の「Web頁の環境依存」に関して追記。ディスプレイのγ補正の方法が OS/機種によって異なるためなんだろうけど、HTMLの色指定(bgcolor="#ff2020"とか)、 の見え方は機種によってかなり異なる。WindowsとLinux+Xと比べると、後者では 暗い色がより暗く出る。MacとSGIはその中間。時々、ウェブページの背景色と文字色を 共に暗めの色でまとめているところがあって、きっとWindowsだとそれなりに見えているの だろうけど、うちからでは見づらいことこの上ない。よって読まない。

XFree86でガンマ補正値の設定って出来るのかな。ドキュメントを見た限りでは 触れられていないようだが…

2/17 (Thu) 全角半角

Web頁の環境依存。JISX-0208を「全角」、JISX-0201を「半角」と呼ぶのは、 昔のハードウェアの制約で「たまたま」前者が後者の倍の幅で表示せざるを得なかった から。本来の規格は文字集合の規定で、それをどういう幅で表示するかは最初から 処理系依存だったと思う。だから、ビットマップディスプレイが普及していろいろな フォントが使えるようになった現状で、「全角」「半角」という呼び名は ミスリーディングだ (でもUnicodeにも採り入れられてしまっているよな)。

X WindowsによるGUI環境を使い始めた頃は、やっぱり「全角」は「半角」の 倍の幅でないと気持悪くて、しかし欧文フォントには横幅がちょっと広めの lucidasanstypewriter等を使いたかったので、 JIS漢字フォントのBDFファイルを加工して横にスペースを取って 無理やり横幅を合わせていた。キャラクタで図を書く時なんかは便利だから。 しかし、次第に「全角」の幅=「半角」の幅×2、が成り立たない環境が増えて来たので 諦めてしまった。

本来の規格で幅が規定されていない以上、「全角」と「半角」の表示幅は あてにしないほうが良い。いくつかのフォントでは、「全角」でのアルファベットと「半角」での アルファベットがほとんど同じように見えてしまうことさえある。これが、私の職場のような 異言語環境では問題となっている。翻訳担当者が日本語から英語に直す時、原文中の 「全角」アルファベットをうっかりそのままにしてしまうのだ。翻訳担当者の日本語 環境ではちゃんと英語になっているのに、英語環境に移ると、その部分だけ文字化けしてしまうのだ。

2/16 (Web) 職業プログラマ

昨日に続き、こまごまとしたコード書きを延々と。 実験用に作った、ちょっとしたウェブベースのシステムが 無し崩し的に2年間も実務に使われてしまっていて、拡張性とかメンテナンスの 点で問題が山積していたので、ここ1週間でえいやとスクラッチから書き直しているのだ。 残るのはエラー処理とかヘルプメッセージとか、 データが壊れた際にすぐ復帰出来るようにしておくための処理とか。 プロダクションで使えるプログラムの場合、肝心のアルゴリズム本体よりも そういう部分の方が大きくなる場合も多い。

実用規模のプログラムでは「バグの無いプログラムは無い」と言い切ってしまって 良いと思うが、バグを出しにくい書き方、バグが出た時に同定をしやすい書き方、 というのは確かにある。モジュールの入口と出口で、データが仕様通りに なっているか、内部状態が矛盾していないかをチェックするとか、 非同期の割り込みが入る場合、矛盾した状態が生じ得る箇所の回りをガードするとか。 プログラムを書かせてみると、だいたいそのへんの処理をしているかしていないかで 経験の有無が分かると思う。

他人の書いたコードをいじる(2/17) というのも職業プログラマには欠かせない技術の一つ。 そもそも、一年経てば自分の書いたコードだって他人が書いたようなものだし。 他人の書いたコードを読み慣れていると、自分でも他人もしくは将来の自分に対して保守しやすい コードを書くようになる。私がプログラマとしてオープンソースを支持するのは、そういう理由による。

2/15 (Tue)

Trivialなことでも、手を動かさないとモノは作れない。 時間だけがどんどん過ぎて行くようで気分が塞ぐ。 とりあえずサンプルが出来た由、プロデューサーにメールを送って今日は終了。 アパートの駐車場に車を停めたら、昨日は気付かなかった良い花の香りが、 土と草の匂いに乗ってどこからかやってきた。 穏やかな空気に包まれて、すっと心が楽になる。 それだけで、生きてて良かったって思ってしまうのはナイーブ過ぎ?

アカデミー章ノミネート作品のメイルが社内を飛び交っていた。 "American Beauty" がいい調子。"The Matrix" のエフェクトに係わった スタッフには気の早いCongraturationsが贈られていた。 "Man on the Moon" の Jim Carrey が外れたのは残念。

2/14 (Mon) 作者と作品

アニメ版はだいぶ昔に観たっきりでよく覚えていないのだけれど、 「人工はダメ、自然は良い」(2/14)とまとめられてしまうと、 コミックス版ナウシカの立つ瀬が無いな。主張が対極にあるからな。 まあ、13年(だっけ?)もの歳月をかけて完結したコミックス版と、 かなり初期の段階でエンターテインメントとしてまとめられたアニメ版は ほとんど別作品として考えるべきなのかもしれない。あるいは、その二つの違いを 作者の精神的な旅の過程と見るか。

宮崎駿自身はアニメ版からメッセージ性を読みとられる ことを嫌っているようだが、一度作者の手を離れて世に出た作品は、 作者の思惑とは関係なく、観客の思うがままに消費され食い尽くされるわけで。 世にモノを送り出すというのはげに恐ろしいことである。

"A Clockwork Orange" と言えば確か今世紀の英語文学ベスト100かなんかにも 選ばれていたと思うが、作者のAnthony Burgessはアメリカ版の再版の序文で、 むしろ苦々しげにこう述べている。

「私が最初に中編『時計じかけのオレンジ』を出版したのは1962年、 もうとっくに、世界の文学界の記憶から消えてしまってもいい頃だ。 しかしそれは、おそらくキューブリックの映画によるところが大きいと思うが、 未だに消え去ることを拒んでいる。この作品が私のもので無くなってくれたら どんなに良いかと思うのだが、それはかなわぬ望みだ。 …この作品は今後も読み継がれてゆくのだろう。 私自身が価値をより認めている私の他の作品達が埃の中に埋もれてゆく間に。」

まあ、"A Clockwork Orange" はアメリカ版の初版で最終章を削る削らないでもめた 経緯もあるんで、Burgessとしても複雑な気分を抱いているのかもしれない。 (結局、米での初版からは最終章は削られ、従ってキューブリックの映画にも含まれていない)。 生みの苦しみを経て世に出した自分の作品に対してこんなふうに思うこともあるのだなと この序文を読んだ時にちょっと驚いた。

「○○を作った人」というラベルは、それが賞賛であれ批判であれ一生ついて回る。 何であれモノを作る人間はそれを覚悟せねばならない。良いものを作れば作る程、 評価という壁は厚くなる。それを越えられる人のみが、より良いものを作り続けてゆけるのだろう。

これら偉大な作品と比べることさえおこがましいが、このWeb日記のような、 ほんのひと握りの人々に読み捨てられて行くものであっても、創作物には違いない。 発表したものは発表したもの。後悔したところで、過去を取り消すことは出来ない。 勝手な解釈でラベルを貼られることを恐れていると、先に進むことも出来なくなってしまう。

2/13 (Sun) Closure/「地球人」追記

しがないSchemeプログラマとしては、えんどーさんの Closureの話に反応しておかねば なるまい。

Closureはアルゴリズムのクラスでのみ有用な概念では無く、むしろ 現場で非常に良く使われる。コールバック関数なんかは、Cでは関数ポインタと ユーザーデータへのポインタを渡すようにしているが、あれはpoor man's alternative なんであって、Closureに慣れた身からすれば逆にひどく不恰好に見える。 その点ではいちいちクラスを作らなければならないJavaも同様。

以前、末尾再帰の話でも触れたが、 手続き型言語に慣れた人がSchemeの提供する ClosureやContinuationの概念を理解するのに困難を伴うのは、 おそらくその身に染み着いた「スタック」という計算モデルのせいだと思う。 私自身もそうだったので。

Scheme/Lispプログラマがいつも全くハードウェアから離れた、抽象的な計算機のモデルを 相手にしているかというとそんなことは無くて、むしろデータがメモリ上にどのように格納される べきかは常にScheme/Lisp界のホットな話題であった。これらの言語の成立時にはメモリも 貴重であったわけだし。

Schemeの実装でも「スタック」らしき概念が無いわけではない。しかし、関数終了時に 使っていたスタックフレームを必ず削除するC/C++と違って、Schemeでは スタックフレームを解放しないことがある。closureから後で使われることがあるからだ。 極端な話、スタックフレームを一切解放しないでも構わない (←ならスタックじゃないじゃん、とも言えるが)。 もちろんそれではいずれメモリが足りなくなるので、そうなったらガベージコレクトで 使われないスタックフレームを回収する。ここに考え方の根本的な違いがある。 これ以上の説明は図が無いと厄介なので、 別ページ にしておいた。興味のある方はどうぞ。


「地球人」の話に関して、 掲示板 で鋭い御指摘を頂いた。

恵まれたアイデンティティを持っていて,極めて 高い能力を持つヒトの中で,生まれた場所を遠く 離れ普遍的なモノを求めて,動くヒトがいます. これはより高次のアイデンティティを求めての行 為のような気がします.あるいは,より自分にぴ たりとあう居場所を求める行為..

恵まれたアイデンティティを持ってないヒト.帰 る場所,家族,国のようなものが不安定.この場 合は,政情不安定とか..親が離婚したとか.. そういうヒトは,やっぱりココロに戻りたい場所 があって,そこに戻れないので普遍的なモノを求 めて動くんじゃないでしょうか..根を張ろうと して.

で前者と後者では行為の中に求めるモノが違うの ではないかと..どちらのモチベーションが高い というハナシではなく.質が違うとでもいうので しょうか..

(Rさんの投稿)

アイデンティティに「恵まれる」という形容は適切かどうかはわからないのだが、 つまり、同じ根無し草でも、土地や民族以外のところにアイデンティティを求める人と、 戻るべき場所を求めて得られないが故に地球という漠然とした対象にしか身を寄せられない 人と、立場は異なるだろうという指摘だ。確かに、私はこれらをごっちゃにしていた。

以前、「私はモノ作りの世界に浸かって来たので、母国で異なる価値観の日本人に 囲まれて過ごす方が、異国で異国人のモノ作り集団に囲まれているより疎外感を感じそうな気が する」と書いたことがある(7/7/99)。 結局、アイデンティティの置き所が違うというだけのことか。

何故自分はモノを作るということに価値を置いているんだろう?

2/12 (Sat) 時の流れ

昼過ぎから浜辺でバーベキューパーティ、夜はホッケー仲間でパーティ。 食べ過ぎで苦しい。

夜のパーティは、ベイエリアに移るホッケー仲間Bを送る会だった。 ビールとピザをもりもり摂取しつつ、ホッケーの試合のビデオを観る。 一昨年から昨年にかけて、Hickam Air Force Baseでのアマチュアリーグに 参加していたのでそのビデオが何本かあるのだ。

「このゲームでは誰それが派手なゴールを決めたんだ、ほら」とか、 「このゲーム後で誰それが審判と喧嘩してペナルティ食らわなかったっけ」とか 一年以上も前のことなのに、一試合一試合の出来事が鮮明に思い出される。 当時は習慣のようにこなしていた毎週日曜日の試合だが、 どれも一回限りのかえがえのないイベンドだったのだなあと思う。 写っているメンバーの何人かは、それぞれのキャリアを求めて別の場所へ移って行った。 Hickam AFBのリーグも無くなった。 後戻りの無い時間の流れを改めて感じる。

最も古いビデオは3年前、国際会議(SIGGRAPH)でLAに来たSquare Hawaiiの メンバー vs Square LA のホッケーメンバーで行った試合だ。私はその時はまだ LAチームであった。写っている面子の大部分は、別々の場所へ散って行ってしまった。 もうこの面子でホッケーをすることは決して無いだろう。 そして、今夜集まった面子も、数年後にふりかえれば、世界中に散ってしまっているのだろう。 せめて、今という時間を心から楽しんでおきたい。

2/11 (Fri) 知覚運動協応

グレン・グールドの平均率を聞きながら夜独り仕事していると、どこからか 人間のうなり声が聞こえてきてぎょっとする。ヘッドフォンを外して耳をすませるが辺りに 人の気配は無い。ああ、あれはグールドの声をマイクが拾っていたのだ、と気付く。 ということを何度も繰り返している。


知覚運動協応について。「ものが全て逆さに見えるメガネをかけて生活していると、数日で 慣れて普通に動けるようになる」ということを初めて知ったのは子供の時見た、NHKかなんかの 科学番組だった。ウルトラアイ、とか言ったっけ。その前身の番組だったかも。とにかく、 それを見た時は信じられなかった。鏡を見ながら文字を書くのだって大変なのに、 全部逆さに見えてながら行動するなんて。

ところが、とあるビデオゲームで、ペナルティを食らうとコントロールが入力と逆になる、 というものがあって、このペナを食らうと数秒間はぎこちなくなるのだがすぐに慣れてしまう。 逆にペナが解けてコントロールが正常に戻った時、数秒間はコントローラを逆に動かして しまいそうになる。このことに気付いて、逆さメガネの話も納得出来た。

使いやすいインタフェースを作るのが難しい理由の一つは、人間の知覚対運動の関連付けの 可塑性の高さにあると思う。作った本人や手近な被験者達は、試作品を何度も試しているうちに 慣れてしまって不自然に感じなくなる。毎回新しい被験者を使って、使えるようになるまでの 学習期間を含めて評価出来れば良いのだが、現場ではなかなかそれも難しい。

2/10 (Thu)

昨日の疑問。フランス語では "pirate" を、hackerの良い意味でも悪い意味でも 使うそうな。英語を輸入した "hacker" も通じるとのこと。でも「アッカー」じゃ締まらない。

一昨日から「変えた筈のデータがロールバックされる」というバグが 発生していて、明け方まで対応に追われる。結局、クライアント側で非同期に呼ばれる イベントハンドラが再入可能になっていなかったのが原因で、クライアントプログラマ氏は ひたすら恐縮していたが、まあ非同期なプログラミングは初めての経験だったようだから 無理もない。こういうのは自己流の独学では難しいとは思うので、何かうまい OJTの方法が有ると良いのだが。

暖かくなって来て、虫が活発になってきた模様。ゴキの成虫を一匹発見。 COMBATじゃ効かんのかなあ。

2/9 (Wed) ハッククラック

例のDoSアタックの影響か、昨日から米国内のインターネットバックボーンが混乱気味。 昨日夕刻に2〜3時間ほどは、ハワイから外へ全く繋がらなかったらしい。

一面で"Hackers attacked CNN, Amazon, eBay" と報じたのはUSA Today紙。 "Denial of service hackers take on new targets" はCNN Online。 Honolulu Advertizerは一面に"CNN, Amazon, eBay hacked" と見出しを掲げた。 「悪さをするのはハッカーじゃない、クラッカーと呼んでくれ」という計算機業界関係者の 願いは本国でもマスコミに届いていないもよう。

Hackの本来の意味 からすればハッキングとクラッキングには重なる部分もある。 例え反社会的であろうとも、「さくっと作ったシステムがこれまで知られていなかった 意外な穴を攻撃した」ような場合なら、ハッキングと呼んでも間違いでは無いようだ。 しかし、今回のアタックがhackと呼べるかどうかは疑問。DoS攻撃なんて執拗なイヤガラセ行為 に過ぎず、ちっともクレバーなところが無い。

別の国では何て呼んでいるのだろうとふと気になってWebを覗いてみた。 ドイツでは "Hacker-Angriffen"、イタリア では "Gli hacker all'attacco del Web."、 スゥエーデンでも "Hacker" を使っている。ところが、 フランスでは 発言の引用や固有名詞を除いては、"hacker" を使わずに "pirate" と呼んでいるようだ。あくまで英語の流入を拒んだゆえの用語なのか、 それとも明確に反社会的行為を創造的なハッキング区別する態度を貫いているのか。 明日友人に聞いてみよう。

2/7 (Mon) たかが国籍、されど国籍

昨日の議論、時間切れであげてしまったが、どうも座りが悪い。 どこが不明瞭なのかを考えてみるに、国籍とか国家というカテゴリ分けに対して 私が抱いている違和感というのがあるようで、人種差別なんかの話題になるといつも そこで混乱してしまう。いっぺんここらへんで整理してみることにする。

「誰それは○×人だ」という時、それは文脈によって、 だいたい次のような意味のどれかを持つと考えられる。

  1. ○×国の国籍を持っている。
  2. ○×国に定住し、社会に参加している。
  3. ○×国で生まれ育ち、人間形成上その国の文化に大きく影響を受けた。 ○×国は心のふるさとである。
  4. 先祖代々○×国暮らし。○×国を構成する主要民族の血が流れている。

普通の会話の中では、どれを意味しているかは文脈によって明らかなことが多い。 しかし、無条件に「私は○×人だから」と、「○×人であること」にアイデンティティを 求めている人は、一体どの意味を指しているのだろう。そこがどうも分からない。 私は在米日本人であるが、素直にそう言えるのは、上記の意味全てにおいて たまたま○×=日本、が成り立っているからである (現在永住権申請中なので (2)はちょっと怪しくなりつつあるけれど)。 身の回りには上記4つの意味において○×に別の国が入る、という人が 少なくない。在米イラン出身カナダ国籍、とか、在米ロシア出身オーストラリア国籍、 とかいう人々にとって、「○×人であること」はコンテキストによって変化する属性であり、 絶対的なアイデンティティには成り得ない。

おそらく、自分という人格のルーツを「○×人であること」に求める人にとっては、 (3)あるいは(4)が大きな意味を持つのだろう。これらは捨て去ることの出来ない属性だから。 ところが、現実の社会で法的・制度的に大きな意味を持つのは(1)なんである。 私は日本国籍を持つというだけで、日本国の名の下に保護されている。何しろ 携帯を義務づけられているパスポートには、「本旅券の所持人…に必要な 保護扶助を与えられるよう関係の所管に要請する」と、日本国外務大臣が要請してくれているのだ。 税金も払っていないのに。一方で、4年近く住んで税金もきっちり納めている米国では 何かと行動が制限される。例えば今、会社をクビになったら、新しい勤め先を見つけるまで バイトで食いつなぐということさえ出来ない (8/14/1998 の日記参照。)

私なんかはまだ日本に帰れば自由に動けるので話は単純だ。 知人は、台湾で生まれ育ち(つまり(3)の意味で台湾人)、長じて米国に住み((2)の意味で 米国人)、しかし国籍は日本((1)の意味で日本人)である。言葉は米語と北京語を流暢に 操る。本人にとって自然なのは米国か台湾で仕事に就くことだが、 そのためには就職先にビザを取ってもらわねばならず、それが足枷となっている。 日本に行けばそういう制約は無いが、今度は日本語はあまり得意ではないというハンディがある。

このような制度的な「ねじれ」が、私の中で「○×人であること」にアイデンティティを 求める態度に違和感を覚えさせる原因となっている。「○×人」というカテゴリ分けは確かに存在する。 しかし、それは上記のどの文脈においてであるかを明らかにしなければ意味を為さない。 誰も、無前提に○×人であることは出来ない。それは個人の所有する属性ではなく、 むしろ個人と社会との関係の中に生じる流動的な属性である。

国家という制度に大きな恩恵を受けていることは事実で、それを否定するつもりはない。 この制度無くして現代の社会は有り得ない。また、民族というものが世代を越えて慣習を 受け継いでゆく重要性も否定しない。この文化無くして現代の社会は有り得ない。 ただそのどちらも、無条件に与えられるものでは無く、 自分自身の人生の中でそれらとの関係を築いてゆかねばならないものなのだ。

2/6 (Sun) 「地球人」を巡る議論

短い南国の冬は完全に終わりを告げたようで、今日は陽にじりじりと照らされていると 汗が出て来る暑さ。過ぎ去った寒さを懐かしむ…なんてことは全然無くて、 この暑さが良いのだ。夕方からホッケーのピックアップゲームで汗を何リットルか流す。

さて、数日前から書きかけてまとまらなかったネタを強引にまとめてしまおう。 「地球人」についての議論。

もともとは、人種差別を巡る話から出て来たことだ。 「仲良くしようよ、みんな同じ地球人じゃないか」というような言説は、 人種による違いというものを無視して、対立しそうなところを避けてるだけじゃないか、 それでは問題の解決にはならない。そういう議論がある。 私も、そのような甘い意味での「地球人」という用法は好きではない。

だが、「地球人」という言葉は発する人の立場によっては、 もっと深い意味を持って来るように思えるのだ。

異国に住んでいる人には、祖国に拘りのある人と、 そうでない人の2通りがある。「いつか祖国に帰ろう」とか、 「祖国にはもう戻るまい」と思っている人は前者だ。 そうではなく、祖国に戻るとか戻らないとか、そういうことに全然拘りを持たない、 祖国というものから精神的に切り離された人々というのが居る。 制度的には、難民にでもならない限りは祖国の庇護の下にあるわけだが、 国籍を変えてしまったら制度的なつながりも断たれるわけだ。

私の友人には国籍を変えた人が多いから、なおさらこんなことを考えるのかもしれない。 別に、新しく国籍を得た国に物凄く思い入れがあってそこに骨を埋めようと 考えているわけでも無さそうで、というのはその国籍を持ちながらも別の国に長く 住んだりしているからだ。そういう人にとって、「私は○○人です」と言うことに どれだけの意味があるだろうか。 「祖国」というものに「ふるさと」以上の意味があるのだろうか。

このように、カテゴリの一線を越えてしまった人達のことを、 杉本良夫氏は著書「日本人をやめられますか」の中で「越境人間」と呼んでいる。 海外に長く住んで国籍を変えてみたって、カテゴリ自体が無くなるわけではない。 だが少なくとも、制度的な根を一回すぱっと切って別のカテゴリに移動してみることで、 カテゴリを相対化して観ることができるようになる。それが越境人間の強みだ、と氏は言う。 例えば、エスニックジョークを差別表現として抑圧するのではなく、 むしろどちらの立場も相対化して観ることによって、笑いに転嫁して現実を変えて行く エネルギーに出来るのだ、と。

越境人間たる人々が「地球人」と言うとき、そこにあるのはカテゴリを隠蔽する 態度ではない。カテゴリがあるのは十分に承知しているが、自分は どのカテゴリにも完全に所属することが出来ないということを知り、 身を寄せるべき対象には「地球」しか有り得ない、そういう覚悟を 持った言葉なのだ、と私は思う。(注:杉本氏が「地球人」と言っているわけではない。)

2/5 (Sat) ハヤオ・ミヤザキ

本屋をぶらついていたら、Helen McCarthy: "Hayao Miyazaki: Master of Japanese Animation" が平積みになっていた。アジアンカルチャーとか日本アニメの ファン向けの書店では無く、一般書店Barnes & Noblesである。 それも書店の真ん中のディスプレイテーブルに、 "The Green Mile" の脚本と並んで 置いてあった。「もののけ姫」効果か。もちろん両方とも購入。

著者はイギリス在住で、日本のアニメーションガイド等を英語圏向けに何冊か著しているようだ。 最初のセクションで宮崎駿のキャリアについてまとめ、続く8つの各章で劇場公開映画をひとつ ひとつ解説。宮崎作品の欧米圏への紹介になることを意図しているそうで、あまり突っ込んだ 議論は無いが、総論的には良くまとまっている。「もののけ姫」の後、こっちの同僚に 「ハヤオ・ミヤザキって何者なんだ?」と尋ねられたので、こういう本が出てくれると嬉しい。

しかし、資料を見ると、劇場用作品のプロダクション期間に数ヵ月〜一年しかかけて いないというのは驚きだ。日本のアニメーションスタジオではそれが普通なのかな。 米国のアニメーションスタジオでは、通常18ヵ月と聞いたことがあるのだが…

2/4 (Fri)

今週末は会社のサーバーメンテナンスのため、今日は夜9時で作業は打ち切り。 さて、来週までに仕上げなきゃならんコードがあるんだが、どうすべえ。


文化、慣習、制度がが個人の行動に及ぼす影響について。 なるほど(2/5)、 スキナーに書いてありましたか。Section V, VIあたりのようですな。 実はまだそこまで進んでいないのでした。蝸牛のように読み進んでおります。

がくもん本より小説をつい手に取ってしまうわたし。最近はまっているのは Barbara Kingsolver: "The Poisonwood Bible"。1960年前後のアフリカ・コンゴに 移り住んだアメリカ人宣教師の一家が激動の時代を生き抜く話。言葉も文化も慣習も、 そして気候や土地さえも異なる処でお互いを理解することは可能なのか。

2/3 (Thu) 文化、慣習、制度?

一昨日の日記で、米国での言論中心の「文化」について書いてみたが、その後、引用元の 「大学院をミシガンで」掲示板で 新しい見方を教えて頂いた。

人がとる行動を解釈するのに、特に米国と日本での体験の違いを述べようとすると、 私などはついつい両国での文化の差異を根拠にしがちである。しかし、人がある行動を とるのは、その社会の制度なり慣習なりに照らした時、そういう行動が最も合理的 だからかもしれない。

行動分析からの見方では、文化、慣習、制度のどれがその行動を強化したか ということになると思うけれど:制度に対して合理的な行動でも、それを「みっともない」 と見倣す文化がある(ペナルティがある)ためにその行動が強化されにくい、とか。しかし、こういう分野を 全然勉強したことが無いので、そもそも文化と慣習、制度の違いが良くわかっていないのであった。

もちっと勉強したらまた書こう。

2/2 (Wed) Play it to the bone

忙しいのに誘われるとつい。今日の映画は、スポーツものをよくやってる Ron Shelton監督の "Play it to the bone"。共に挫折の経験を持つ親友同士の ボクサーが、急拠ラスベガスで互いに10ラウンドを闘うことになる。ところどころに 爆笑するポイントはあるものの、演出は感傷に流れすぎてて甘い甘い。 が、Antonio BanderazとWoody Harrelsonは結構キュートな面を見せてくれる。

2/1 (Tue) はじめに言葉ありき

うわ、急速に忙しくなった。


「自分の意見が正当であると思うから主張するのではなく、 自分の得になることを主張するという態度」 (大学院をミシガンで(2/1/2000))。 というのは、そんなに汚らしいことかなあ。 確かに、日本文化が染み着いている私にはなかなか出来ないことなのだが、 米国に来てそういうのを見慣れてしまったせいか、別に何とも思わない。 こういう態度が成立する背景というのは理解出来る気がする。

文化的背景の全く異る人間の寄り集まりである米国では、まず言葉に出すことから 全てが始まる。言葉に出して初めて問題が問題として認識される。言葉にしない限り、 議論すべき問題は存在しない。沈黙は現状の全面的な容認を意味する。

だから、自分の中で少しでも曖昧なことがある場合は、「とりあえず言ってみる」 ことが何より大切だ。「これは認められないんじゃないか」と思っているのは、 自分の思い込みかもしれない。相手は別の価値観で動いているかもしれない。 それを確認するには、言葉を発してみるしかない。 何が正当で何が不当かは、言葉を発して初めて検討可能になる。言葉を発せずに 判断することこそ避けられるべきだ。

ま、上記のケースではあらかじめルールがはっきりしていたわけだが、 ひょっとするとルールが変わったしれない、と思ったら言ってみるというのは至極まっとうな 態度だと思う。で、そう質問されて、それは認められないということならそう言えば良い。 そこまではごく日常的なプロトコルだ。

もちろん、あまりに自分自身の判断基準を持たずにそんなことを続けていれば信用を失い、 皆から相手にされなくなるが、それは本人の自業自得。他人がとやかく言うことでもあるまい。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net