2000年1月

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1/30(Sun) 差別を巡る議論

差別の問題には以前に軽く触れたことがあるが、 うようよさん (1/27, 1/27-2) よんひゃんさん (1/27, 1/30) の日記を読んで考えるところがあったので、まとめてみる。

差別を巡る議論がしばしば噛み合わず並行線を辿るのは、何が差別かという認識に 大きな隔たりがあることが原因のように思える。 個人の感情の問題を出発点として考える人と、 社会構造に支えられた共有される固定観念と捉える人がおり、 これらは全然違うものなので、噛み合いようがない。

私の考えは後者だ。 差別は、何気ない一言で傷つくとか傷つけてしまうとか、そういう感情論では無いと思っている。 というのは、感情の問題を論じ始めると 何が差別かというのは主観に依存せざるを得なくなり、議論がうやむやになってしまうからだ。

差別は現実的な問題である。現実的というのは、それによって現実社会の中で 「困ること、不便なこと、不利益、不平等」が生じるということだ。 当人がどう思うかに関わらず、である。 例えば差別用語の使用が問題になるのは、それは誰かの気持を傷つけるからではなく、 そういう言葉が日常的に使用されることによって特定の人種/民族に対する不利な固定観念が 形成されてしまうからだと考えられる。

歴史を紐解けば、差別のあった社会で、差別する側のみならず、 差別される側さえその事実に気付いていないということがままある。 よそから来た民族が先住民を武力なり経済力なりで支配し、社会構造として固定化してしまい、 何世代かが過ぎる。と、支配者も被支配者も「それがあたりまえ」になってしまう。 差別者は全く悪気が無く、被差別者も傷つくこと無く、善人が善人を搾取し続け、 差別は固定観念として浸透してゆく。 被差別者が声を上げるには、まず彼等自身が差別の事実を認識するステップが必要であった--- キング牧師が力を注いだのもそのステップではなかったか。

ずっと前にネットニュースで流れていた事例だが、日本在住の外国人がある小さな日本企業に 応募したところ、「外国人を雇った経験が無いから」という理由で不採用になったということが あった (その外国人は日本で労働が出来るステータスではあったらしい。日本のビザ関係の 制度は良く知らないんだけども)。米国に住んでいて、「雇用における一切の差別の禁止」なんて ポスターをしょっちゅう見ているとちょっと信じられない事なのだが、その企業の困惑も分から ないでは無い。差別などとはこれっぽっちも考えていなかったのだろう。本当に困ってしまって、 その企業なりに誠実に対応したのだろう。両方の言い分を読んだので、そうだったのだと思う。

自分があたりまえのこととして捉えている社会観の中に、差別意識が存在する 可能性は十分にある。あたりまえだからこそたちが悪い。 そしてまた、異国に暮らしていて、その固定観念が自分の方に牙を剥くリスクも感じている。

ところで、「地球人」という概念に関しては別の意見があるのだが、今日は時間がないので 次の機会に。

1/29(Sat) 掃除としての創造活動

日がな一日、趣味のコード書き。コードは出来てデバッグも済んでいるのだが、 ドキュメントをまとめて公開できる形にするのに手間取る。 今のライブラリはごく基礎的なもので、作っていてすごく楽しいというわけではない。 しかし、何らかの形で「完成」させなければ次に進めない、という脅迫観念めいたものがある。

ものを作るきっかけは、私の場合、「こんなこといいな、できたらいいな」 という思い付きから始まる。一朝一夕に作れるものではないので、 そのアイディアは頭のなかをしばらくの間、ころころころげている。 そのうちフェードアウトしていってしまうものや、既に誰かが作っているのを 見つけて取り除かれるものも多い。が、中にはいつまでたっても ころころころころと頭の片隅に留まり、何度も身体をぶつけてしまう通路に置かれた荷物のように 邪魔になって仕方の無いものがある。別のアイディアを考えている時にふと、「あれを 作っておけばここでも使えて便利だったのに」ってな具合に顔を出すのだ。

こうなるともう駄目だ。とにかく形にすることで、そいつを掃除してやらないと、 引っかかって先に進めない。さらに悪いことに、そういうのが溜って来ると新しい アイディアを転がす余地が無くなって来るような気がしてくる。

溜ったアイディアの中でも、日常のうちで時々拾い上げていじってみれるものは まだ良い。頭の片隅の方の、もう何年も手を付けていないアイディアの累積の、 埃が厚く積もって蜘蛛の巣が張っているようなところの一番下に何があるのか、 アイディアが変質してなんかとんでもないことになっているような不安がある。

創造活動というのは、こういう頭の内部に溜ったごたごたの大掃除なんではないか。 累積した未解決の「思い」を引っ張り出し、埃を払い、眺めてみて、不要なものは きっぱりと捨て、使えそうなものは完成させて外に出してやる。納得のゆくものが 出来れば後には残らない。頭の中もぴかぴかになって気分が良い。

この日記にしたってそういう面がある。頭の中の荷物を書くことで外に出しているのだ。

ずいぶん前に、創造性と個性に関しての話題の中で、 「創造活動を続けなければ心身に変調を来たし破滅する」 と書いた。今回の言葉で言い替えれば、頭の中に溜った行き場のない思いが積み重なって 底の方から腐って行く、そんなイメージだ。

1/28(Fri)

出勤したら、自分のオフィスが空っぽになっていて愕然とした。って、昨日引っ越したんじゃ。 今日は3回、同じことを繰り返す。2年間の習慣はなかなか抜けない。


アメリカ社会のいい加減さは何度か書いて来たが、またである。 普段の倍以上の電話料金の請求書が来た。私は日本まで16¢/分の割引プランに 入っていたのだが、電話を引っ越しした際にそのオプションが消されてしまったようだ。 電話会社のカスタマーサービスに電話して事情を説明して、引っ越し時点に遡って 精算し直してもらった。間違いが多いかわりに、訂正もあっさりやってくれるのは良い。 未だに電話での交渉は苦手なのだが、とにかく "I want 〜" でして欲しいことを はっきり伝えるのが肝心。


昨日、西の浜でシューティングがあった。犯人は逃走の末警官に包囲されて自殺。 撃たれたほうが、盗んだ車を停めて別の車を盗んでいる間に、撃ったほうがもとの車を盗もうとして、 両者がハチ合わせしたところでBang! 車が両方ともホンダだったというのが何とも (ハワイには何故かホンダ車が無闇に多い。「車を盗まれないためには?」「ホンダに乗らないことだ」 って以前、セキュリティの説明会の時に警察のえらい人が言ってたな。ジョークだけど)。 私の車もホンダで、同じ車種の同じ色の車を少なくとも3台、会社の駐車場で同時に見たことがある。 綺麗にしておくと目立って盗まれるかもしれないので、敢えて洗車もせず、こすった傷も そのままにしてある。めんどくさいわけではない。盗難対策なのだ。

1/27(Thu) オフィス引っ越し/ネットのセキュリティ

オフィスを引っ越し。ハワイスタジオに移った時に暫定で作られたキュービクルに、 居心地が良くて2年以上も落ち着いていた。 社内引っ越しが無闇に多いうちの会社でこんなに動かなかったのは珍しいかもしれん。

引っ越しにはつきものの所持品整理。ACMやらIEEEやらの雑誌が気付くとずいぶん たまっていて、どうすべきか思案のしどころ。どれもバックナンバーはウェブから ダウンロードできるようになっているから、資料として持っている意味はあまり無い。 紙媒体が手元にあると、ぱらぱらと眺めることが出来るからと思って残してあるのだが、 そういう時間が取れないのが現状だ。それでも、いざ捨てようかと思うとつい読み耽って しまう。結局取っておくことにする。

新しいキュービクルは今までのところとちょっとしか離れていないのだが、 かなり広くて快適。しかもこの引っ越しによってLispプログラマが3人並ぶこととなった。 最近勢力を増しているPython派に対抗して社内Lisp化計画を進めるまたとない機会だ。 ふっふっふ。


クラッキングされた日本の中央官庁、Webページ書き換えだけかと思っていたら、 root(管理者)権限をやられてたらしい。両者には、人の家の壁に落書きするいたずらと、 合い鍵を作って堂々と空巣に入るくらいの差がある。何のOSを使っているか知らんが、 これは痛い。一度rootになれるとシステムの内部はいじり放題、後に備えて侵入口を 用意しておくこともできる。したがって最初の穴を塞いだだけではだめで、 システムをまっさらにして再インストールってことになる。

rootを乗っ取られたマシンが 低セキュリティのイントラネットに継っていた場合、最初のマシンが踏み台になって 別のマシンがやられている可能性があるから、下手すると全部のマシンでシステム再インストールだ。 恐いのは、rootになると痕跡を残さずにデータを改変することが可能なので、 その時点でマシン上にあったデータが一切信用出来なくなるということである。 侵入前のバックアップがあれば良いが、そもそもうまいクラッカーなら足跡を巧妙に消すから、 何時から侵入されていたんだかさえわからない可能性がある。 今回の犯人は明らかに気付かれる方法を取った点で、愉快犯ではあるが悪質度は低いんだろう。

ネットのセキュリティは、これをしておけば絶対大丈夫という決め手は無い。 次々と新しいセキュリティ上の弱み (vulnerability) が発見され、ソフトウェアが アップデートされる。それまで堅牢だったソフトが、バージョンアップの副作用で セキュリティホールを作ってしまったりする。結局、一番確実なのは セキュリティ担当の人材を張り付けておくことだ。システム管理部門があるなら そこがやるべきだけど。

コンピュータは、ただ置いておけば何でも仕事をやってくれる魔法の箱ではない。 業務に使えるシステムを動かしてゆくには、メンテナンスにきちんとコストをかけなければ ならない。ただ、コンピュターシステムのメンテナンスって常に最新情報を仕入れて勉強してい なければならないにもかかわらず、目立たない地味な仕事だから (目立つ時は問題が起きた時だ)、 難しいんだよな。必要な予算や権限が与えられなかったり。もちっと専門職としての地位が 確立していれば良いんだけど。

1/26(Wed) 「誠実」

ここんとこ、ハワイは雨がちで、かつ夜は寒い。寒いって言ったって摂氏20度前後なんだけど、 半袖短パンでしか生活していないとえらく冷えているように感じられる。 結局人間って適応する生物なのね。


「自分に誠実」と「他人に誠実」(胡桃の中の航海日誌、1/27) を読んで、以前知人にこんな 話をしたのを思い出した。

英語の小説やら映画やら歌の歌詞やらで、よく "faith" という単語を見かける。 訳せば信頼、誠実といったところになるのだろうが、日本語ではこれらの単語は 対象に言及しないとおさまりが悪いことが多い。何に対する信頼なのか、とか、何に対して誠実 なのか、とか。ところが原文には、 "faith" だけがいきなりぽんと出て来ることがある。 これはひょっとすると、信頼し誠実であるべき対象として暗黙のうちに「神」が仮定されて いるからではないか。"faith" には信仰や信念と言った意味もある。たとえ宗教的な 文脈で無くても、"faith" というときには自分とか他人とかよりも一段超越したものが 言外に含まれているのではないか。

いや、本当にそうなのかは知らないけど。

1/25(Tue) 日本語の情報密度

ランチタイムに、「日本ではみんな携帯でメール送ったりWeb見たりしてるん だ」という話をしていたら、「日本語は漢字を使うから、携帯電話の小さなディ スプレイでも(メールやWebに)使えるんじゃないか」と指摘された。んー、どう なんだろう。翻訳小説なんかでは、ペーパーバック一冊の原作が日本語で2〜4冊 に分冊で出ることがよくあるので、なんか日本語の方が長くなるようなイメージ がある。

試しに、LinuxのHOWTOドキュメントとその日本語訳のファイルサイズをざっ と比較してみた。65ファイルについて、(日本語版のサイズ)/(英語版のサイズ ) の平均を取ると0.95。日本語版は一文字2バイト近く使っているだろうから、 文字数ではほぼ半分ってとこだろうか。表示面積は日本語の方が倍くらい必要と するから、結局トントンになりそうだ。

しかし、文章では無く単語を並べるメニューなんかでは熟語を使うことで文 字数が減らせそうだし、横幅の小さい画面では文章のほどんとどこでも折り返し が出来る日本語の方が効率良く情報をパック出来るような気もする。英語では名 詞+形容句にしなければならないフレーズも、日本語は熟語を繋げて単語が作れ る。コンテキストがはっきりしていれば、漢字1〜2文字でメニューが作れるのも 強みだ。例えば 日記猿人の新作ページは上部に「新」「N」「マ」「覧」「索」などの 一文字メニューが並んでいて、ちょっと慣れればどれが何を意味しているかすぐに わかる。英語ではせめて4文字必要か(「New」「TopN」「MyNE」「List」「Srch」みたいな 感じになるかな)。

と、ここまでの文章をざくっと英語で言ってみるとどうなるか (英語の下手さは勘弁)。 単純なバイト数比較では、日本語の方が一割ほど短いな。もちろんこんな例で何が言える わけでも無いけれど。(特に、語彙が弱い私の場合、英語では簡単な単語の組合せで説明 しようとするから、その分増えるのかもしれない)。

1/24(Mon) 宣伝について雑感

Netscapeのウィジェットを日本語化したバージョンを入れてみたのだが、どういうわけか 日本語の部分が表示されない。フォントのリソース指定は合っているのに。原因を追求するのも 面倒なので、えいやとRedHat 6.1日本語版にアップグレードしてしまった。 おお、いろんなメッセージが日本語化されていて不思議な感じだ。

Netscapeは4.7-1.2jp。フォームのボタンやプルダウンで日本語が表示されるのは嬉しい。 プルダウンメニューやらボタンやらで飾り立てた凝ったページは、実はこれまで まともに見えていなかったのだ。ただ、まだテキストフィールドに日本語を表示するところで エラーが出てしまう。要調査。


宣伝について雑感。

一昨日の宣伝に関する日記に関して、同じことは研究にも当てはまるのではという指摘が→ 王様の耳はロバの耳(1/24/2000分)。 なるほどねえ。確かに最後の段落なんかはおもしろいくらいはまるな。 あれを書いた時、頭にあったのは、アイディアは斬新だったが売れなかった某ゲームの監督と 以前雑談していた時に聞いた言葉だった。 「作ることに夢中になって、売ることを考えるのを疎かにしていた」とかなんとか。 良いものを作っても、それがターゲットに届かないと、非常に勿体無い。

折しも、東大がMITで講演会を開くとかして、積極的に海外に売り込みに出るという報道が。 名を売るという行為を卑しいものと考える向きもあろうが、金にあかせた宣伝行為ならともかく、 内容を以って世間に知らしめるということはそれほど楽なことではない。自分のところに籠って 大人しくしていれば、世間で評判にならないのはひょっとすると世間が気が付いていないんじゃ ないか、と考える逃げ道がある。自分の為したことを外に説明して回るというのは、自から進んで 評価にさらされに行くということだ。

CG業界に身をおいてしばらく経つが、知り合ったCGアーティスト達の「自分を売り込む姿勢」 には感心する。忙しい仕事の合間を見つけてこつこつとデモリールを作成し、次に行く先で、 「自分はこういうものを作って来た」と見せるものを着実に蓄えてゆくのだ。 どんなにスキルがあっても、カタチになったものが無ければ人を説得できない。

1/23(Sun) 手書きの手紙

久しぶりに「拝啓」で始まる手紙なぞ書いて、えらく気疲れした。フォーマルな手紙を、 しかも手書きでなんて書いたのは何年振りだろうか。 手書きでものを書くのは、自分のための 走り書きのメモか、emailを持たぬごく親しい友人へのとりとめの無い手紙くらいのもので、 間違えてはいけない手紙を書くとなると無闇に緊張する。英文ならフォーマルなものでも エディタで編集して印刷できるので楽なのだが、日本語でそれをするのはまだ抵抗がある。

こういう機会があると、コンピュータは文章の書き方を根本的に変えたのだなということを 改めて認識する。エディタで文章を書く時は、思い付くはしからタイプしていって、 頻繁に修正したり文章の順序を入れ換えたりして完成形に近付けてゆく。手書きの文章では 不可能な書き方だ。これだけ書き方が違えば文体への影響もあるんじゃないかと 思うのだが、手書きで書いていたころの文章が手元に無いのでわからない。

件の手紙は、エディタで文章を構成したあと、手書きでそれを写した。 なんか無駄なことをやっているような気がしないでもない。

1/22(Sat) Snow Falling On Cedars/宣伝

Scott Hicksと言えば、"Shine" である。心の中にある 感動のツボを直撃してくれる監督だ。その演出は、観る人によっては 感傷的に過ぎるかもしれない。が、ひとたび美しく力強い画面に波長が合うと、 抵抗すべくもなく感情の嵐に巻き込まれるのだ。 "Snow Falling On Cedars"も例外ではない。

第二次大戦直後の、シアトルの近くの小さな島。ある霧の深い夜に、 一人の漁師が死んだ。死因は溺死だったが、頭に刃物で切ったような傷があったことから 事故は一転して事件となる。土地の所有権を巡って諍いがあったとされる日系人の男ミヤモトが逮捕され、 殺人容疑で裁判にかけられる。未だ戦争の記憶の生々しい米国で、裁判中には "Jap" という言葉が 頻繁に飛び出す。裁判を見守るその妻ハツエ(工藤夕貴)を複雑な想いで 見つめる新聞記者Ishmael(Ethan Hawke)。映画は、裁判の進行を軸にしつつ、 戦前のハツエとIshmaelの子供時代や、第二次大戦中の戦場と強制収容所などの回想が 浜に打ち寄せる波の如く立ち現われる形で進む。

第二次大戦中の日本人の強制収容は、日本のドラマや映画ではしばしば見てきた場面だが、 ハリウッドの映画で(プロダクションはUniversal)正面から描いているのは珍しいのではなかろうか。 セリフ無しで延々と描かれる強制収容の場面は、「シンドラーのリスト」の同様な場面を思い出させるが、 映像を製作する者の立場が違う。もっともScott Hicksはオーストラリア出身なので 第三者と言えるのかもしれない。

Ethan Hawkeの演技が実に良い。戦争によって失った恋と右腕に対する喪失感、 正義とエゴの間で揺れる心、父親へのコンプレックス、キャラクタの多層な感情を 見事に演じる。演技だけで泣かせてもらった。 工藤夕貴はまあまあ。場面での与えられた役割はこなしているが、続けて観ると どれも同じような表情に見えてしまうので、それ以上のものが欲しかった。 しかし、他にも味のある役者を揃えて、特に法廷の場面は見応えがあるドラマになっている。 最終弁論の場面は「評決」のそれに並ぶ出来だと思う。

物語そのものはオーソドックスな「戦争に引き裂かれた悲恋」であるし、 映像もセンチメンタルな回想シーンがてんこ盛りなのに、多くの戦争もの/民族差別もの には無い何かがある。何が差を作り出しているのだろう。人間が犯してしまうどうしようもない過ち をまっすぐに見つめる監督の目、その力強さに、多分私は打たれたのだ。

"The accident rules every corner of the universe, except the little chambers of the human hearts."


行きすぎた宣伝、勧誘は論外としても、 「ホントに便利なものは黙っていてもちゃんと買い手が集まってくる」(1/22/00) というのはナイーブ過ぎると思う。

商品(or サービス)を買ってもらうためには、消費者が第一に商品の存在を知らなければ ならず、第二にそれが何をどう便利にするのかを理解せねばならず、 第三にそれが類似した他商品に比べどのような特長を持つのかを知らなければならない。 そういった、いわば生産者と消費者の間のギャップを埋める作業を全て消費者に 押しつけるわけにはゆくまい。消費者は賢くあらねばならないが、同時に生産者も 商品を取り巻く情報を消費者に届けるところまでが生産活動であると考えるべきである。

例えば商品がこれまでに無い画期的なものだった場合、その商品が便利であることを 理解してもらうというのが大変である。消費者は生活のその部分が変わり得るという 事さえ知らないのだから、消費者の方からアクションを起こすことは期待出来ない。 (そんな無くても困らない商品など不要、という立場もありだが)。 それによって、生活がどう変わるのかを最初に生産者側が呈示してみせなければ、 商品がどんなに素晴らしいものであっても、「黙っていても買い手が集まる」なんて ことはほとんど無いと思う。

もっとも、実際にはイメージ戦略だけで押している宣伝は多いし、情報を過剰に提供して 消費者に考える隙を与えぬ間に強引に勧誘してしまうような営業活動も多い。 良いものが売れない、という背景には、良くなくても広告費を大量に投下する製品の宣伝により 消費者の情報チャネルが飽和させられてしまうということがあるのだろう。

1/21(Fri) Magnolia

ちょっと間が空いた。久しぶりの映画は "Magnolia"。 LA近郊の町で、それぞれの悩みを抱えて人生の袋小路にはまってゆく人々。 ある者は死を前にして過去の過ちに後悔し、ある者は過去の束縛から逃れようともがく。 誰もが出口を求めて彷う夜、「それ」は起こった…

あまりに登場人物が多彩で、しかもそれぞれのドラマを深く掘り下げてあるので、 ストーリーを要約することは不可能だ。しかし微妙にからみそうでからまない、 それぞれの物語の行方に興味津々で、3時間という上映時間はあっという間に過ぎた。 ラストは意表を突かれて口をあんぐり。小説より奇な事実を映画にしてしまった、ということか。 実にユニークな映画。場面毎の役者の演技は見事。

1/20(Thu) 何を今更/企業経営と研究

一年半も前にsettleしている(と認識していた)問題が再び表面化する気配。 今更蒸し返されてもこちらとしては困るのだ。あちらのスタッフがもの凄い仕事量に 悲鳴を上げているのはよくわかるし、それを軽減するのに協力することはやぶさかでは ない。が、あっちが言外に匂わせている専属スタッフの配属は、 こっちが別プロジェクトを抱えている以上承認し難い。

そもそも一年半前に、「こうしとかないときっと困ったことになるよ」と提案したのを 却下したのはあちらだ。こっちはその決定をもとに予定を組んでいるのだ。 ---などと過去のしがらみを持ち出すのは気分が悪いが、 資源には限りがある。両方にコミットは出来ない。


昨日の企業経営の話に関して、早速わたなべ氏からメイルで教えて もらった。サンキュ。えーと、日本における民間企業の法人格は表1のように分類されるそうだ。 私の知る限りではアメリカは表2みたいな感じ。 時々見る"L.L.C. (Limited Liability Corporation)" というのがどこに入るのかよくわからないのだが。

表1: 日本の企業の法人格
種類資本金責任
株式会社1000万円〜有限
有限会社300万円〜有限
合名会社-無限
合資会社-無限
表2: 米国の企業の法人格
種類責任説明
"C" corporation有限普通の会社
"S" corporation有限小規模な会社に多い
Limited Partnership無限/有限権限によって責任範囲が異なる
General Partnership無限共同事業。個人と会社会計が一緒
Sole Proprietorship無限個人事業。個人と会社会計が一緒

で、わたなべ氏の説明によると、日本ではわりと小さいところでも株式会社や有限会社にしている ところが多いそうだ。無限責任の会社を作るのは逆に資産家が多いとのこと。 確かに、私が学生の頃かかわったいくつかの小さな企業も株式会社か有限会社にしていたな。 こちらの友人で会社を持っている人も、例え1人でやってても "S" Corporationにしている。 こういう場合は、出資金を手持ちの金で賄っている限り、潰れても借金を被ることは無い。

ただわたなべ氏はこうも指摘していた。銀行が融資する際に社長の個人資産を担保に 取っていて、例え倒産したこと自体による責任は有限でも私財を失う可能性が ある、というケースは多いとのこと。事業に失敗して借金を抱えるというのは、 現実にはそういうことなのかもしれない。

私は会社を経営したことなど無いのだが、自分の責任で雇った人々に払う給料を 調達するのに走り回ったことはある。金の扱いというのは難しい。 研究室のボスが院生や助手の給料の心配をするようになったらやっぱりまずかろう--- そういう意味で、研究者=町工場のおやじ説に違和感を覚えたのだった。

大学が独立行政法人化されたら、そのへんはどうなるのだろう。 人件費や固定費の心配は研究室のボスではなく大学の事務局がやる、ということになる んだろうが、個々の研究室において 「自分とこの人材を食わせてゆくにはどうすれば良いか」 「自分が貰う給料がどこから来ていて、それを捻り出すにはどうすれば良いか」 ということを意識しないと、全体の経営は成り立たないだろう。 しかしそれでは、研究を大学という場でやる意味が無くなってしまいそうだ。

1/19(Wed) 浮世と研究生活/Transmetaの凄いところ

研究というビジネス(1/18)。研究者といえど、その生活の中で 日常を回して行く「泥臭い」部分が多くを占めているというのはわかる。 しかし、大学の研究者が町工場の経営者って比喩はどうだろうか。 成果が出なくて赤字経営になったら最悪職を失うこともあるだろうが、 研究機材の購入費が借金としてのしかかることは無いと思うのだ。

経済方面に疎いので間違っているかもしれないが、町工場の場合、 有限責任で済む「会社」の形態を取っていないことも多いのではないか、というイメージがある。 ちゃんとした会社(米国では"C" Corporationとか"S" Corporation---日本で 何と言うかは知らない)にして、インベスターから出資を受ける形式の場合は、 経営者として失敗してもクビになるのと(自分でも出資していれば)出資金を失う だけであり、立場としては研究室のボスに似ているかもしれない。 しかしそうでない零細企業で、銀行等から融資を受けている場合は、 下手をすると財産を失い借金だけが残る。 この不況で苦しいやりくりをしている中小企業の多くは債務を抱えていると思うし、 債務があるか無いかで経営者としての状況も相当変わって来るのではなかろうか。

基礎研究の現場には、目先の借金返済に追われて欲しくは無いし、 四半期毎に何とか数字を捻りだしてインベスターをつなぎ止めることに労力を割くのではなく、 もっと腰を落ち着けて研究して欲しい。 そういう意味で、むしろ浮き世離れしていてくれる方が良い。 そうでないと出来ない研究というものがあると思うからだ。 ←ちゃんとした研究の現場というのは大学院学生としてしか体験しなかった (しかも不真面目だった)ので、分かってないのかもしれないが。


徹底した秘密主義で様々な憶測を呼んでいたベンチャー企業 Transmetaが遂に 製品を明らかにした。新しいCPUチップCruesoeは、 内容としては大方の予想通りだったが、 具体的なモノが出てくると、いろいろ可能性を考えられて楽しい。 私に遂に紙のノートを捨てさせるに至る夢のモバイルデバイスが出て来るのも、 そう遠くないかもしれない。そんな想像をかきたてられてわくわくする。

Cruesoeチップに組み入れられたアイディアは、 それぞれ単体ではそれほど革新的に新しいものでは無い。 4年前のTransmeta創立時でさえ、似たようなことを考えていた人は複数居たと思う。 Transmetaがすごいのは、それらのアイディアを形にして、 実用に耐え得るものが出来ることを示してしまったことだろう。 進歩の速いこの業界で、4年という歳月を費すのは大きな賭けである。 賭けに勝てば大きいが、負ける所も多い。しかし、賭けなければ 何も生まれては来ない。リスクを背負い、賭けを張り続けられるだけの 体力と気力を持った者が、何かを作ることが出来る。

Cruesoeチップは私は非常に有望だと思うが、現実での実証はこれからである。 しかし、例えこれが失敗したとしても、一つの方向性が実現可能であることを示し道をつけた 功績は消えることなく、同じアイディアの改良版が次々と出て来ることだろう。 今、汗を絞り出している連中は、4年先を見ている。

1/18(Tue) Emailの整理

真冬の日本から帰還しほっとして半袖ショートパンツに着替えたら、 ハワイもなんだか寒かった。冬は風があるので、日が陰ると肌寒いことがある。

今回は4日間だけの帰国だったが、国内での移動があったので1週間くらい 行っていたような気がする。メイルが溜っているのを覚悟していたらそれほどでもなくて、 考えてみたら皆連休で休んでいたのだな。

業務で使うメイルは、一日30〜50通くらいで、これをEmacs+Mewの環境で使っている。 Mewはメイルをフォルダに分けて管理できるのだが、分類を細かくすると、 分類に迷う場合があることや、分類間違いによるトラブルが起こりやすくなることから、 ほとんどのメイルはinboxフォルダに放り込んである。 あまり重要でないものは読んだらすぐに削除し、また深く考えないでも分類できるもの (チーム内のメイリングリストで来るやつとか) だけは別フォルダにしている。 それでも一年経つとinboxに3000通くらいたまってしまう。それを 年が変わるとinbox1998といった具合にリネームして整理する。 そろそろ1999年分もまとめなければならないのだが、読み返してみると 不要なメイルが結構ある。

最初のフィルタリングをすり抜けてこの時期まで残っている不要なメイルのほとんどは、 その重要性が時間依存であったものだ。すなわち:

こういうのはフォルダを分けて管理する意味は無く、むしろ読んだ時点で そのメイルに時限属性を付けておいて、自動的に削除されるようになっていると有難い。 そういうメイル管理ツールは無いのかしらん。

1/13(Thu) ふるさとは遠くにありて

アニメ好きのロシア人同僚から、ジブリ作品「耳をすませば (Whisper of the Heart)」 を借りて観た。英語字幕版。 内容は、まあいろいろ考えさせられる。「今はそんなこと言ってっけど、これからが大変なんだよ」 なんて突っ込んで素直に観られない自分に対してとか。優等生に対して斜に構えてしまう感じかな。 いや、良い作品だよ。多分あと数回観ると思う。

強い印象を受けたのは、映画で描写される、東京は多摩地区の風景。夏から初冬にかけての 季節の移り変わり。夏のぎらぎらした日射しが木の影をくっきりアスファルトに落としている 様子。晩秋の街路樹の根本に散る落葉。ごみごみした町並みも高台からの見晴らしでは思いのほか緑が多い。 目に焼き付いている、生まれてから27年間暮らした東京の風景のディテールが、 痛い程に甦る。

どんな場所にも、美しさはある。映画 "American Beauty" が閉塞した米国中流家庭の 中に美しさを見出したように、「耳すま」は多摩の風景の、他では得がたい美しさを 切り取って見せる。(ロシア人の同僚がどう感じたかは興味をひかれる。後で聞いてみよう)。

「いつか日本に帰るつもりなの?」と問われて、「考えてないなあ。でも東京はもういいや」と 答えて来た。南国の海と山を間近に眺め、一年中心地良い風に吹かれて、住む環境としては とても贅沢をさせてもらっていると思う。けれど、私の心の一部は未だに多摩の風景と共に あり、おそらく今後もずっと共に有り続けるのだろう。それがふるさとと言うものなのかも知れない。


ところで、来週の月曜日はキング牧師の日で休日なので、今週末は連休となる。それを利用して ちょっと日本に帰って来るので、こちらの更新もお休み。

1/12(Wed) 冠詞

英語を書くときにいくら気を着けていても間違えるのが、冠詞、数の一致、時制の一致。 本来そういう概念を持っていないんだから仕方無い。最初のパスでは流れを乱したく無いので 気にせず書き進め、見直す時にこれらを重点的にチェックする。しかし冠詞については、 場合によって何を使うかが微妙な時もあり、迷うことも多い。 (さらに、冠詞だらけになると「しつこい」と感じてつい落としたりして しまうことにも問題があるようだ)。 e-mailなどではあまりちゃんと見直さないので、以前同僚に採点してもらったらぼろぼろだった。

こちら (1/10) では、科学英語のピジン英語化を主張されていて、冠詞の使用規則を大幅に緩めることが 提案されている。確かにどっちでも良い場合に関しては、本来の英語として不自然でも、 無くてもまあ意味が通るわけだ。しかし、この著者の方は冠詞を全く使わずに書くと述べて おられるが、そうすると意味を明確にするためにoneとかthatとかの連発になって 余計しつこくなってしまいそうな気もする。普通の英文から冠詞だけ取っちゃったら 意味が曖昧になってしまうだろうし。同ページのリンクから辿れるeditor in chiefの コメントには冠詞が多用されているのだが…(複数形を多用してるので不定冠詞があまり 使われていないが、そういうことなんだろうか)

英語を完全に意志の伝達手段と割り切れば、本来の文法などかなり乱しても 意味が通れば良いということになるし、非英語ネイティブが英語を使う際の心理的な 障壁も低くなる。それには私も賛同する。しかしどうやら、私には本来の英語に対する 愛着というのもあるようで---英米文学作家の、流れるようなリズムや、洒落たスタイルを 楽しませてもらっている身としては---人が声高に「冠詞は不要」とか言い始めると 何か抵抗を感じてしまうのだ。

1/11(Tue) 投票不参加のわけ

昨日、ADSLにしてみようかなどと書いたが、新居の電話回線はDSLがまだ使えない ことが判明。GTEの ウェブページ でチェックできる。さらに、早く回線を置き換えて欲しい時はリクエストを出すことも出来る。 しかしこのチェックシステム、全国のGTEの回線データベースに直結 しているわけだ (まだ新番号が接続されてない時に試してみたら「まだこの番号は 使われていない」と出たし)。技術的にはそう難しくは無いけれど、 こういうサービスを提供することにコミットして人員を割いているのは偉いと思う。


このページはWeb日記リンク集の日記猿人 に登録してある。このリンク集には投票システムがあり、 読者が日記に付されたボタンをクリックするとその投票が集計されるようになっている。 自分の日記の投票集計を励みにしている人もいれば、読者として投票集計リストを参考に読む日記を選んで いる人もいるのだろう。一人が一日に複数回同じ日記に投票できないということ以外、 特に厳密な縛りの無いシステムだけに、個人個人がいろいろな利用法を考えることができると思う。

投票システムに参加していない人もいる。 はせぴぃさんの集計 によれば、15〜16%くらい。「投票数を意識して書くようになってしまうから」といった理由を しばしば見かける。「ボタンをつけるのが面倒臭い」という人もいるのではないかと思う。

このページも投票システムには参加していない。参加したいという強い動機が無いゆえの 消極的不参加である。「ボタンをつけるのが面倒臭い」に近い。 もともと、読者としても日記猿人の投票システムを利用していなかった。 読者として日記猿人を利用しはじめて3年くらいになるが、投票ボタンを実際に押したことが あるのは3回くらい。投票統計のページを見こともほとんど無い。

かと言って、読者からのフィードバックに全く無関心というわけではないのだ。 実は半年前くらいからアクセス統計を取り始めてみた。他からリンクされていると どのように言及されているんだか気になって見に行くし、当初は一日何度もチェックして アクセス数を確認したりしていた。思いっきり気にしている。

ちはるさんの日記(1/12) を読んで、何故私が投票システムに関心が薄いのかがちょっと分かった ような気がした。

それから、これが一番重要かな。すべて日記作者のコストによって公開 されている文章に何か意味のあることを見つけたときに、自分はそれを感 謝したいという気持ちがあるのだね。日記猿人に参加して以来、ボタンの ワンクリックが感謝の表明であるように習慣づけられてしまっているの で、ボタンがないとなんか落ち着かないのだ。読んだあとに「すまないな あ」という気分になってしまう。 (「ちはるの多次元尺度構成法」 1/12/2000)

私のインターネットに関わり始めた当初は、もっぱらフリーのソフトを落として 来てインストールするという利用をしていた。バラエティに富んだ膨大なソフトウェアの蓄積に 驚いたし、そのソースコードを読むことがまたとない勉強になった。当然、感謝するわけだが、 その感謝の気持を表明する手段として最も尊重されたのは、 「そのソフトを使って、有用なソフトを新たに自分で作成し、フリーで公開する」 という行為であった。もちろんバグ修正のパッチやら、ドキュメント作成やら、 バグの報告だけとか改善提案とかそういうことでもOKなんだけど、 要は、コンテンツに対する感謝はコンテンツで返すという前提があったと思う。

一つの日記で提起された問題が、日記猿人内で波面が広がるように 一連の議論を呼び起こすような現象が好きだ。ネットニュースでの議論などとまた違って、 ある程度まとまった意見が読めて、得るところも大きい。自分が日記を始めた動機の一つに、 いつもこんな面白いコンテンツを読ませてもらっているのだから、自分も何か提供したい ということがあった。(本当に提供できているかどうかは聞かないで)。

投票システムは、アクセス統計よりとは違って読者に能動的な行為を要求するが、かと言って メイルを書いたり自分の日記で参照したりするよりは気楽な、面白いシステムであることは 確かだ。そのシステムを膨大なアクセス数にもかかわらず維持している日記猿人管理グループの 方々にも頭が下る。そこから、新しいインタラクティブなコンテンツが生まれる可能性もある。 ひょっとするとその可能性に皆が気付いた頃に、のこのこと参加することになるかもしれない。 今は、とりあえずいいや。

1/10(Mon) 量子化の極限

予定より早く電話復活。ネットも復活。 落ち着いたらADSLにしてみようかともくろんでいる。 GTEの回線サービスが$32/月(DSLモデム無料)、今使っているプロバイダの接続サービスが$55/月で、 最大768K down/128K upの帯域。今の56kモデムで我慢が出来ないというわけでは 無いのだが、固定IPが得られたらサーバー建てられるし、電話とネット接続が同時に出来るし、 魅力的だ。周囲ではケーブルモデムの方が流行ってはいるが、 近所が全部同じケーブルにぶら下がっているというのはどうも(セキュリティ上)気持悪い。

新年2週目。ちょっと長めの休暇を取っていた人々もぞくぞくと世界各地から戻って来た。 シベリアの実家に帰っていたAは、モスクワへ出る飛行機が飛行中にエンジン停止事故を 起こし緊急着陸、という滅多に味わえない体験をしたらしい。「面白かったよ」と笑っていたが、 二つしかエンジンのついてない飛行機で一つエンジンが止まったというのだから、 そりゃ笑い事では無いのでは。無事で良かった。

ランチタイムの面子も休暇前の状態に戻り、ニュース交換など。各国のY2K騒ぎの話題になった時に、 同僚がこう言った。「今回の騒ぎで露呈したことで何が怖いって、システムがどう動作するかが 結局当日になってみないとわからなかったことさ」。

1と0のブール代数を全ての基礎に組み立てられた現代のディジタル回路とコンピュータは本来、 全てが決定的である筈だ。根本的なところはよく分からない自然というものを、 基準を決めて黒と白にばっさり分けることにより制御可能にしているとも言える。 アナログ回路につきものの誤差やノイズは、マージンの中に吸収されてしまう。 ラジオを組み立てた後、アマチュア無線に進んだ友人達と違ってマイクロプロセッサを いじり始めた私は、そのシンプルさに惹かれたのだった。 当時の私には、ディジタル回路とその上に構築されたソフトウェアは、 手を近付けただけで発振周波数が変わるアナログ回路に比べ、 曖昧なところが無く、作った通りに動く物に見えた。

汎そ人の作るものは単純な構造から複雑な構造への積み重ねであり、コンピュータも その例外ではない。どんなに複雑な構造を築こうとも、全ては1と0の組合せに還元され、 説明可能なはず、であった。

しかし、システムの規模があまりに大きくなると、誰もその全ての層を把握出来なく なってくる。不具合が出たとする。それは、最上位に位置するアプリケーションソフトから、 ミドルウェア、OS、BIOS、ファームウェア、そしてハードウェアに至るどこかの階層に 原因がある筈なのだが、その全貌がわからない。仕方無いから相性だと言ってみたり、 再インストールしてみたり、死んだ鶏を振ってみたりする。そういうふうにお茶を濁すのは 技術者としての敗北のような気もするのだが、自分の作ったものでないところまで 責任持てないよ、というのが現実だろう。

自然に存在するパラメータは量子化されて飛び飛びの値しか取らないが、マクロなスケールで 見ると連続したアナログ量に見える。既に我々の持つコンピュータシステムは、そのスケールに 比べて基本となる1と0の量子が無視出来る程に拡大しているのかもしれない。

1/9(Sun) デンジャラス蚊取り線香

高層アパートから低層アパートへ移って、まず蚊の洗礼を受けた。 高層アパートでは開け放しにしておいても蚊は登って来なかったのだ。 早速、蚊取り線香 (mosquito repellent coils) を買って来てみた。

しかしこれ、どっからどう見ても蚊取り線香なのだが、裏の注意書きを読むと 不安になってくる。曰く、屋外で使用のこと。煙を吸い込むと危険。肌を通して吸収 されると危険。目や肌、衣類への接触を避けること。取り扱った後は手を石鹸で完全に 洗浄すること。衣類に着いた場合はすぐに脱いで洗濯すること。 もし吸い込んでしまった場合:犠牲者を新鮮な空気に触れさせ、 呼吸が止まっていたら人工呼吸を、できればマウストゥマウスで行うこと (←本当にこう書いてある)。

ううむ。蚊取線香ってこんなに危険なものだったのか? ちなみに製造元は 日本のKing Chemicals Co. Ltd. となっている。

まあおそらく、注意書きが甘いと訴訟を起こされかねない国ゆえの予防措置なのだろうけど。 吸い込んで本当に呼吸停止になったら困るので、まだ火はつけていない。

1/7(Fri) 印刷の年賀状

先日買ったばかりで電池切れになってしまったチョコボの目覚し時計。 買った時に入っていた電池が消耗していたのだろうと、新しい電池を入れてみたのだが、 どうやら私には使えないことが判明した。

この時計はリチウムボタン電池で駆動される。目覚し音はスピーカーで鳴らされる。 ところで私は寝起きが悪い。かなり目覚しに頑張ってもらわないと起きない。 しかし電源はボタン電池。容量は小さく、頑張りにも限界がある--- 朝、目を覚ましてみると、再び電池が切れていた。目覚しを止めた形跡は無い。 可哀想なチョコボ、起きぬ私を頑張って起こそうとして、力尽きてしまったようだ。

これは困った。というのは明日は引っ越しの当日で、運送屋が来る前に確実に 起きていなければならない。手元にある目覚しはこれ一つ。タイマーが付いてる テレビはもう新居に運んでしまった。PCは今日これから梱包してしまう。 急拠ラジオシャックでバッテリーホルダーを買って来て、単3電池2本で駆動することにした。 今、うちのチョコボは黒いバッテリーボックスを後ろに引きずっている。


印刷の年賀状に対しての Y'sさんの意見(1/7)を読んで。 不精な私なんかは、印刷でも何でも出すだけで偉いなあと思ってしまうのだが、 文学系の人そのへんのこだわりが違うのかなあ。 大学時代に国文科にいた友人から、卒論は手書きでないと受理してもらえないんだと聞いて びっくりしたのを思い出した。なんて効率の悪いことを、と当時は思ったものだ。 工学系ではほとんどワープロやTeXで、手書きよりそちらの方が推奨されていたと思う。

しかし考えてみれば、手書き論文にも合理的なメリットがあるかもしれぬ。 国文科だとJIS漢字ではカバー出来ない文字を大量に使いそうだし。それに、 文章の書き方自体がワープロ使用と手書きとでは違って来るだろう。きちんと 構成を立てて、下書きして、校正して、という流れをきっちり身に付けるには ワープロに頼らない方が良いかもしれない。

コンテンツ作成過程がディジタル化されて変わるのは、修正作業にきりが無くなることだ。 最後の瞬間でも修正が効くという意識が、ファイナルバージョンを出す際の覚悟という ものを減じることは往々にしてある。もちろん、いつでも段階的に修正が出来ることは 大きなメリットだ。しかし、マイルストーンを出すことに作り手が意識的にならないと いつまで経ってもきちんと完成しないという羽目になりかねない。

それでも、私はやっぱり署名も含めて印刷かどうかにはあまりこだわらない。 確かに英文の手紙を書く時は本文印刷でも署名だけ必ず自署しているが、 日本と米国では明らかに署名の持つ意味が違うため、日本語の手紙にそのまま適用する のも不適切のような気がする。 それに、手書きで文字を書くことが出来ない人が電子機器の力を借りて 自分の文章を綴れるようになったとか、字が下手なコンプレックスを回避して文章表現が 出来るようになったとか、そういうプラス面を見る習慣がついているからなあ。 やっぱり理系、というか技術屋の発想かな。


ところで、上に書いたように、これから明日の引っ越しに備えてPCを梱包する。 諸事情により電話のトランスファーは12日になるため、 しばらくネットへはアクセスできないので更新もお休み。

1/5(Wed)

一昨日作った雑煮もどきを食べ続けている。残りものにいろいろ手を加えて 味のバリエーションを楽しむという芸があるわけでもないので、家に帰ったら暖め直すだけ。 グルメとは縁遠い味覚で、同じものを食べ続けることにも抵抗は無いが、 続けているとやはり味付けのいい加減さはわかってしまう。 直前に湧かして取った昆布出汁と粉末の即席出汁では、何と言うか、底が見えてしまう。 やっぱり基本的なところを学ばないとだめらしい。

今日で鍋が空いたので、明日台所用具も一気に新居に運ぼう。このところ毎日仕事前に 一回荷物を置きに寄っている。新居は山(ダイアモンドヘッド)が近いので、朝の空気が気持良い。 風に草や土の匂いが乗って来るのは、高層のコンドでは無かったことだ。

1/4(Tue)

今月中旬にちょいと私用で宮崎に行くので、東京で合流する友人に羽田発の 国内線の手配を頼んでおいたのだが、チケットの値段を聞いて驚いた。 ハワイ-成田間のチケットと同額ではないか。格安航空券というものに慣れてしまったから そう思うのだろうけれど。早朝出発の便だと安くなるそうなので、がんばって起きるしかない。

1/3(Mon)

最近、味噌を入れればとりあえず食えるようにはなる、ということを学習したので、 冷蔵庫の整理も兼ねて、雑煮のようなものを作ってみた。何を入れるべきかを覚えておらず、 思い付いたものを色々入れていったら、丼に6杯分くらい出来てしまったので、 向こう2日分のメニュー確定。

整理ついでに片付けたワインでぐらぐらと酔っ払ったのでもう寝る。

1/2(Sun) 物を持つこと/Fantasia 2000

のんびりとした正月休み。よく晴れた日射しは暑く、木陰でぼさっと本でも読んでいると 妙に幸せな気分になれる。あとは新居に荷物を運んだり、コード書いたり。

人が一人生活してゆくのに、どのくらいの物が必要なんだろう。 荷物を運びながら、結局これらが無くたって何とか生きてゆけるんだよなと思う。 冬でもぽかぽかな島だから、なおそんな気がするのかもしれない。 スーツケースひとつトランクに詰めて動けるような引っ越しに憧れる。 でも、今持っている物を自分から手放す勇気も無い。 せめて、持った物を十分に活用して、それらを持っていたからこそ生み出せたのだ と言えるものを作り出すこと。それが、私にとって、物を持つことを正当化する理由だと思う。

「自分の物」というのは、誰かから与えられて一時的に自分が預っているものだ という気がしてならない。自分の本、自分のPC、自分のピアノ、自分の金、自分の身体、 自分の命、何一つとして自分自身が作り出したものはなく、それゆえに、 与えられたものでしか有り得ないのだ (誰から、というのは問題ではない)。

日射しを浴びながら読んでいた本は椎名誠の「水域」で、私はこの小説が殊更に好きで 何度も何度も読み返している。どういうわけか陸地のほとんどが水没してしまった世界での、 孤独な漂流。自分の住処と呼べるのはいつ沈むとも知れない小舟で、生活のための道具も 食糧も自分で調達しなければならない。せっかく作った道具や舟も、嵐にさらわれたり 流木にぶつかったりで失い、またゼロからやり直す。その感覚が良い。


クラシックの名曲に乗せて綴られるアニメーションの散文詩、Disneyの "Fantasia 2000" を観る。 前作の "Fantasia" から実に60年。今度はIMAXでの登場だ。 ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」に乗せてニューヨークの人々の生活の断片を、 レスピーギの「ローマの松」では北極海で泳ぎ回る鯨たちを幻想的に描き、 そしてストラヴィンスキーの「火の鳥」では自然の死と再生を描く。他のシーケンスは ベートーベンの交響曲5番、 エルガーの威風堂々、サン・サーンスの動物の謝肉祭、ショスタコビッチのピアノコンチェルト。 前作から、ミッキーマウスが箒に魔法をかける "The Sourcerer's Apprentice" も再録されている。

自分の書いた絵が曲にのって動き出して欲しいという、アーティストの夢をそのまま叶えた ような作品。自由に想像力を広げ表現することの気持良さが伝わって来て。アニメーションに しか出来ない表現の可能性も見せてくれる。

1/1(Sat) New year's resolution

本年の目標。いろいろ手をつけてることを形にすること。 昨年は妙に忙しかった割に、形にしたものが少ないので。 ま、仕事の方はどうしたって締切が向こうからやって来るので、 成果を出さないわけには行かないのだが、 合間を縫って進めているプロジェクトの方も結果が欲しいところだ。

昨夜の喧騒が嘘のように静かな休日。新居の鍵を受け取って、ぼちぼちと荷物を運び始める。 家具やピアノは来週業者に頼んで運んでもらうのだが、時間でチャージされるので、 手で運べるものはできるだけ運んでしまって置いた方が良いのだ。

随分前からいろいろ書き貯めてはいたけれど、仕上げまで行かずに更新が止まっていた Schemeのページ( 日本語英語) も大増強。

しかし、"Copyright (c) 2000" などと書くとまだ冗談のような気がしてしまうなあ。


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Shiro Kawai
shiro@lava.net